Salamander

俺にもロイにも神様という奴がいなかった。




朝、灰色の戦場で目が覚めて、その日没を見ることが叶うかどうか分からない日々。昨日の朝、笑って飯を食っていた奴が、次の朝にはもう跡形もない。誰もの命が脆い糸の先にぶら下がっていた。執行日の分からない死刑囚のような。


一つの夜を越し、一つの暁を見る度に、誰もの心に祈るという習慣が生まれた。家族がいる者は家族の写真に、恋人がいる者は恋人から貰った指輪に、宗教を持つ者は神に。突撃の号令が掛かる度、誰もが自分を今迄護ったと信じる習慣を繰り返した。ジンクス、軽く言えばそういう類いだ。





その日もいつもと変わらぬ一日。

無謀な作戦を告げられ、辟易して皆が散開する。分乗したジープの荷台、一人の男が胸元から出した写真を黙って見詰めはじめた。一人、また一人と、つられるように何かに祈り始める。祈る者と、俯いてただ車の揺れに身を任す者。どちらでもない俺とロイは何とはなしに視線を交した。間の悪そうな笑みをちらと浮かべてから、ロイは小さな声で呟いた。


「…お前は祈らないな」
「運命論者だから」
「嘘つけ」
「…祈りたいのか?」
「別に」



歯切れの悪い返事だった。コイツでも少し不安になったりするんだろうか。俺はふと、古い映画のおまじないを思い出した。



「映画で見たんだが」



指輪に繰り返しキスをする男を、軽く目を眇めて眺めていたロイが振り向く。


「修羅場に行く前に煙草を貰うんだ。帰ってきてから返すと言って」

「…帰って来るのか、それで」

「映画だからな、帰って来た。それで借りた分、煙草を返す」



ロイは黙って俺に手を出した。お前が俺にくれるという選択肢が無いのがコイツらしいというか何というか。苦笑して支給品の煙草を一本渡す。ロイは掌でそれを転がし、「吸っていいのか」と聞いてきた。どっちだったかな。俺が曖昧に肩を竦めると、その穂先に赤い火が点った。人から貰っておいて不味そうに吸うのはどうにかならんかと思うが、オアイソで笑われるよりマシかとも思う。神妙に言われた通り試しているロイを見ていると、どこか可笑しみを感じた。人間兵器も験を担ぐのだと。


「お前もやっぱ怖かったりするのか?」


そう言うと、払暁の冷えた空気が指をかじかませたのか、一口吸い、指先へ戻そうとした煙草を荷台の床へ落とした。勿体無いと思わず呻くと、少しは悪いと思うのかバツが悪そうに眉を下げる。



「不吉か?これ」



板の上に散った火の粉ごと、ロイの靴底が煙草を踏み消した。









ロイはいつも前線へ押し出される。


長い隊列が砲撃の音が谺する市街へ伸びていく。俺は後方任務で、ブロックごとに制圧の報告が入るのを纏め上げ伝令に渡す。爆発の轟音はいつになく激しく、稲妻さながらに遠くなり近くなり、攻め込んでいるのか攻め込まれているのか判然としない。


ロイの配属された部隊は、市街の最奥まで入り込んでいた。周囲のブロックはまだ制圧出来ていない。どこの能無しが率いているんだ。苛立ちながら、壁に貼った地図の上でピンを移動させる。「Sー4早過ぎる、ポイント04まで後退」「了解、伝えます。04まで後退」司令部からの指示に復唱し、無線に飛びついた途端激しい銃撃の音が響いた。通信兵の断末魔が鼓膜を震わせる。




Sー4班からの通信は途絶えた。援軍を送るにも一班だけ食い込みすぎてどこも追いつけない。「班の判断に任すしかなかろう」苦い声で将軍が言う。俺にとっては友人のいる班でも、軍の中では駒の一つに過ぎない。次々に入る報告に追われ、安否を確かめる術も無くただ時間が過ぎた。轟音、銃声、爆風で建物が倒壊する音。


日が落ちる頃、それはやがて熄んだ。地図上、市街の最終ラインまでピンは進んだ。軍が街を制圧した。





報告を纏めると、俺はようやく解放された。市街は至る所から黒煙を上げ、街灯も破壊された今、月だけがどこか冷淡な光を投げかけていた。


血と煤と土煙の匂い。瓦礫の中に無造作に腕や脚が散らばっている。頭を撃ち抜かれて転がる少女。路地に散らばる肉片。見慣れてしまった景色だ。動揺はしない。ただ、胸の中が空虚になる。自分もいつかああなるのだ、そんな諦観に似た、静かで寂寞とした。



制圧したとはいえ、どこに生き残りが潜んでいるか分からない。銃を片手に焼け爛れた通りを進んだ。前方から三々五々前線から兵が戻ってくる。そのバラけた人波に逆行しながら、その中にあの無愛想が見えないかと忙しく視線を彷徨わせた。


ふと、その中に、朝ジープで指輪にキスをしていた男を見つけた。ロイと同じ班だった筈だ。顔は煤け、腕に擦傷があるが、目立つ外傷はない。彼に限っていえば、ジンクスは守られたのだろう。


「Sー4班?」

呼び止めると、訝し気に目を上げる。


「…ああ、悪い。知り合いがいる班だから…」


言うと、男は肩を竦めてお手上げのポーズを取る。


「乱戦になってな、敵も味方も滅茶苦茶。気がついたら囲まれてて…」


元来口数の多い、気さくな男なのだろう。手ぶりを交えて語り出した。俺はほんの一瞬、好感すら持った。



「…でな、俺も危ないトコを助かった。
 運が良ければお前の探してる奴も逃げのびたかもな。
 化け物がシンガリやったから時間が稼げてラッキーだったぜ」





「…何だと」




「錬金術っていう奴?
 一人残して後退してさ、大丈夫かと思ったら案外持ちこたえてやがったぜ。
 気色悪いがこういうとき助かる…」



思うより先に手が胸倉を掴み上げた。訳が分からない顔をした男は壁に背中を叩き付けられて裏返った声で呻いた。





「化け物に救われたお前は何だ」





ロイはお前を見て。

お前が指輪に祈るのを見て。

きっとどこか少し羨ましかった、そんな普通の。



「…何だ、当たり前だろうが…!錬金術師なんてな、その為にいるんだろうが!」


男は一瞬言葉に詰まったが、口に泡して吠えた。唾が飛んだ。うんざりして手を放すと、中途半端な姿勢から殴りかかってきた。俺は半歩引いて眉間に銃を向けた。月光を弾く銃口に男の顔が凍り付く。



「最後にその錬金術師を見たのは何処だ?」






男を脅して聞き出した場所は、四方、焼け落ちていない所は無かった。炭になった瓦礫が転がり、風が細かくなった灰を巻き上げては降らせた。


名を呼びながら、煩悶が収まらなかった。先刻の男の言葉がいつまでも胸に刺さって抜けなかった。


俺もどこかで、あの男と似たようなことを考えていたのかもしれない。ジンクスをかついで煙草を吸うロイをどこか滑稽だと思った。ロイに祈りなどいらないと思っていた。錬金術師なのだ、何もかもを灰燼に帰すほど強いのに今更オマジナイでもあるまい、と。前線に配属されない劣等感に似た感情の裏返しだったかもしれない。全く馬鹿げている、どんなに強かろうが、戦場で消えてしまうのは本当に簡単で無差別なものなのに。


あいつにとってそれが必要か必要でないか、それはどうでもいいことなのだ。俺はただの友達として、一個の人間であるロイ・マスタングをもっと案じるべきだった。なのに俺は何て言った?「人間兵器」いや、それは言っていない、でも思った、同じ事だ。ああ、そうだ…、「お前でも怖いのか」と。俺はお前の感情を否定した、お前は煙草を取り落とした―――。



どうしてもっと理解ってやろうとしなかったのか。

傍に居すぎて。

馴れて。

平然と死地に幾度も置き去りにされるその恐怖を。

自分の最低さに反吐が出そうだ。




走りながら、俺は喉が枯れるほど名を呼んだ。慚愧と恐怖に胸が竦んだ。このままお前を失ってしまったらどうしたらいい。失うとはこれほどに取りかえしのつかない事なのか。



止まない降灰に顔を煤けさせながら夜の市街を駆けずり回った。 ロイを見つけられないまま、朝の白い光が死んだ街に注いだ。







泥塗れになった軍靴を引き摺り、宿営所へ戻った。
自分の張った天幕を潜る。
耐水シートを捲り上げる音に、その奥から身動きが返る。
実に呆気無く先回りしていた尋ね人の声。



「ヒューズ?」



仮ベッドの前の幕を跳ね上げると、当たり前のようにロイが座っていた。一気に力が抜けた俺の顔を見て、もう顔でも洗ったのかやけにこざっぱりしたロイが首を傾げる。


「後始末にでも駆り出されたのか?随分汚いぞ」


これだよ、畜生。脱力して目の前に膝立ちになった俺を覗き込む黒い眸。俺は煤けた手を伸ばして、少し疲れたようなロイの頬に触れた。「汚れるじゃないか」と声だけは嫌そうに呟いて、それでも掌が頬を包むと、大人しく目を瞑って頭の重みを預けてきた。ようやく自分でも驚くほど掠れた声を絞り出した。


「…無事だったのか」




ロイは眸を伏せたまま、当たり前だろうという顔をして小さく頷いてみせる。


「ケツを任されたって」

「ああ。別にいつもだ」



清々とした声。

無愛想な奴、傲岸不遜な奴、無表情に何人でも灼き殺す奴。

だから傷付かないなんて、俺だけは思わない。



「それが錬金術師の役目なんだからな」


本当に真っ黒だ。ロイの頬に添わせた自分の指が滑稽で。少し動かすとくすぐったそうに肩を竦めた。


「…俺はそんなのは嫌だ」


言って手を離すと、白い頬にまるで殴ったみたいに俺の手型が付いていて、シリアスな俺の心情と実にミスマッチで締まらない。ロイは手形をつけたまま、俺の言った言葉の意味を両手に抱えて測るような顔をした。


「お前が嫌でも、その為の俺じゃないか」


俺が笑いを堪えてじっと見ているのに気付いたのか、自分で頬を拭って軽く睨む。なんだかその顔がかわいらしくて、頭を肩へ凭れかけると「だから汚いって言ってるだろう」と文句を言う。言う癖に、避けずに髪についた灰を払う。妙に一心に。静かな沈黙に誘われて、ふと胸に湧いた言葉が口をつく。



「…俺、決めた事がある」

「何」

「……お前より先に死なないわ」


ロイは黙って髪を撫でている。俺の髪なんぞ触っても楽しくないだろうに、飽きずに指を遊ばせている。


「お前が泣くから、絶対先に死なない」


言うと指が止まって。ちいさな沈黙が降ってくる。
やがて、ようやく、揶揄うように旋毛を指が丸く撫でる。


「自惚れるな、俺がどうして…、…泣く…?」


声が僅かに、泣くように途切れて、薄い胸に手荒く俺の頭を抱き締める。俺はこの空いた手をどこへ置こうかと考える。まあ、腰に回すのも雰囲気出し過ぎだし、とりあえず。





「なあ、返って来たなら、煙草返してくれよ」





胸元に埋めた額に、笑うロイの振動が直に伝わった。









ロイサイドを明日にでも。(2004.03.23)