あの世で罰を受けるほど

何もかもが狂った。こんなのは酷すぎる。


取り戻す権利があるのだと、私は暫く呪いにも似た強さで思い続けた。突然永遠に取り上げられてしまう熱が、そんな残酷なものが、どうしてあれほどに優しくあり続けたのか。こんなにも胸を占めるものが、容易く失われていい筈が無かった。


例えば、私は自分の運命を信じている。この国を掌握するだろうという確信がある。全ての不条理、全ての苦痛、忍従、犠牲、それは私をそこへ押し上げるための欠くべからざる要素だと識っている。しかしこれは―――これは何だ。全く意味が無い。意味が無いどころか、埋めようのない欠落だ。これはおかしい。お前をこんな中途半端に失う筈がない。こんな筋書きは間違いだ。



葬儀の間、私はずっと、スケジュールを間違えて、見知らぬ人の埋葬に参列している気がしてならなかった。趣味の悪い芝居に付き合わされているようで、感情が上にも下にも動かない。


誰もが愁歎に沈んでいた。 泣きながらもヒューズの死を認識し、受け入れていた。 私だけが、どこにも居場所が無かった。


その死を認められない限り、私はそれを拒絶するしか無かった。酷いエゴイズムだとは分かっていても、そうでなければ立っていられない。






ヒューズの抜殻はすっかり綺麗にされていて、銃弾が貫通したという胸も白い正式軍装が覆っていた。寝ているような、とはよく言った物だ。こんな空っぽな寝顔はしないけれど。さぞや間抜けた面で鼾でもかくのかと思えば、不思議と緊張感の抜けない顔で眠るのだ。微かな物音で目を覚ます。覚まして、寝たフリをしている。私は何度もそれに引っ掛かる。


血塗れの遺骸を想っていた。血に塗れていれば良かったのにと思った。一度だけ舐めたあの鉄の味。誰も正視出来ないような骸を、この手で抱き上げて埋めてやりたかったのに。誰にも見られずに。誰も知らない場所に。


しかしそれは遠い仮定だ。こんなに早くお前が土に還る訳は無い。私がまだお前を必要としているのに。思考は結局そこへ戻って、澱んだ水のように流れない。




参列者が柩に花を一輪ずつ入れていく。見る間に白い花に埋もれる。ぼんやりとそれを眺めていると、多分ヒューズの部下だろう、文官の制服に身を包んだ眼鏡をかけた女性が、遠慮がちに私に花を勧めた。受け取り、殆ど無感動に、胸の上へ百合を一輪置いた。


柩が蓋で、その上に国葬の証である深紅の大総統旗が被せられた。送砲が鳴り響き、長い葬列が重々しく動き出す。先頭に神父、続いて大総統、将軍。喪章を斜に掛けたその背中を見てすら、現実味が無かった。やがて、冥府と現世を隔てる、白い墓標の群れが見えてきた。真新しい、一際大きい大理石。刻まれた名前がよく見えない。


墓標の前にすでに掘られた穴へ、縄を渡された柩が静かに降りていく。



白い大理石に刻まれた名前。Maes Hughes。見たこともない異国の文字のように、私の中で意味を成さない。






「…ママ、どうしてパパ埋めちゃうの」


ヒューズの言うところの天使の声がした。
その頼り無い不安げな声は、静かな墓地を、さらにしんと黙らせた。


その声に、認められないまま何かが砕けた。
自分の感情を堰き止めていた薄い氷のような何か。


私はヒューズを失った。


あの声もあの微笑も
あのお節介もあの熱も。


もう全てが、二度と私に向けられることは無い。





「ねぇ。おじさんたち、どうしてパパ埋めちゃうの」


そうだ。

どうして埋めてしまうんだろう。

エリシアの叫びに、自然にそう思った。

完璧な肉体が其処にあるのに。あとは精神と魂だけなのに。

若し埋めてしまうのなら、その肉体を練成するのにすら、如何なる労苦と代償を払うものか。




禁忌だ、という気持ちすら湧かなかった。

権利だと思った。

あの幼い兄弟も、母親を奪われてきっとそう思ったのだろう。

こんな運命を受け入れるしか出来ないなら、それをこそ無力と呼ぶのではないか。大切なものを取り戻せないのなら、一体何の為に息をしている?どんな罰もどんな代償も構わないから。




「いやだよ…」




目深に被った軍帽の廂から、グレイシアに抱き上げられるエリシアを見た。ちいさな彼女は、穴の底へ降ろされていくヒューズの柩に幼気な両手を精一杯に伸ばす。見せまいとしてか娘を抱いたままその場から去ろうとするグレイシアの頬が濡れていた。その腕の中でもがくエリシアと目が合った。彼女は弾かれたように叫んだ。


「ロイ!」


エリシアは母の腕を振り切り、私の方へ駆けてきた。大きな眸いっぱいに涙を溜めて。膝を付き、しがみついてきた身体を抱き締めた。


「ロイ、いやだよ」
「パパを起こして」



「パパ言ってたもん、ロイは何でも出来るって…!」



出来るよ、エリシア。

だから、君の血を私に。


柔らかい頬を首筋へ擦りつけてくるちいさな身体。頬をあわせて擦り返し、その背中を撫でながら声に出さず答えた。黒いベルベットのワンピースの背中を撫でる指先、そこへ伝わる体温。その下の血潮にヒューズが眠っている。目が眩むような欲求。絶頂に近い渇望。身体中の血が逆流する。エルリック兄弟が描いた練成陣。目に焼き付いて消えない構成式。


――出来るよ、エリシア。ヒューズを取り戻そうか。


肉体は其処に。
魂は君の血に。

そして精神は。―――精神は?




腕の中の細い腕が、私の首をそっと抱き寄せた。耳殻へ吹き込まれた声に鼓動が止まった。



「血迷ってんじゃねーぞー、ロイ」



幼子の声では無かった。聞き間違える筈のない、少し呆れながら笑って俺を宥める低い声。低いのにどこか軽い。揶揄うような。



「エリシアちゃんに掠り傷一つ付けてみやがれ、お前ボコボコにしてやるからな」



それは無いじゃないか。

お前はそれで良くても、私はどうなる。

お前だけ清々と消えてしまって、そんな突然に、薄情に消えてしまって。



エリシアのちいさな掌が、私の首筋をゆっくりと撫で上げた。落ち着けよ、ロイ。そう言いながら、よくヒューズが私にした仕草だった。戦場で、酒場で、夜の淵で。気が弱ったようなことを言う度に、そうやって項に指を梳き入れて、軽く引いた。

張り詰めた緊張と思考が、躾けられた犬のように解けていくのが悔しくて唇を噛んだ。馬鹿なことすんなよロイ。大丈夫だ。俺ぁ信じてるから。お前も自分を信じてやってくれよ。本来気の短い私に、お前がかけるまじないはいつもそんな言葉で。



もっと言いたいことがあった。

もっと、お前と見たいものがあった。

「どこで死んでもそれが運命」そう言ってよく笑ってたけど、お前こそが長く生きるべきだったのに。家族に囲まれて、もっと穏やかな静かな最後を。




「馬鹿が…」




何を告げようとした?

命を奪われるほどの何を。

―――どうして、俺は、お前がそこまでして告げたかったことを聞いてやれなかった?もっと早く受話器を。




灼けるような後悔が、少しずつ私を正気に戻した。無表情だったエリシアが、今、目が覚めたようにきょとんと目を瞬いた。その髪を抱き直し、旋毛に頬を押し当てる。――大丈夫だ、ヒューズ。…大丈夫。慎重にやるから心配するな。お前が居なくても大総統にぐらい成ってみせるから。まあ、いちばんに嬉んでくれる奴が居なくなって、少々就任し甲斐が無いがな。




墓男達が深く一礼し、柩に土をかけはじめる。神父がその上に聖水を振りまいて聖書を詠む。

魂よ、迷わず天へ上れ。天の国で安らかに。

そんなのは無理だ。どんな祈りも無駄。不謹慎な私は少し笑う。そいつは度を越した心配性でお節介だ。私と、この家族がそっちへ行くまで地上をうろついているよ。例えどんな罰を受けようと。練成などするまでもない。




軍帽を取った私の髪を、似合わないと笑うように風が悪戯に撫でていった。
一人、また一人と去っていく墓前に、私はいつまでも立ち尽くした。











(2004.03.18)