絶対航空力学

別に散らかそうと思ったわけではなく。気分転換に窓を開けた。埃臭い司令部に篭って書類を整えている部下達を思えばこその、私の大人ならではのさりげない気遣い。心憎いばかりだ。


「あわっ、大佐…!」


軽く軋みながら開いた大窓。途端に入り込んだ突風が、皆の机の上に積みあがっていた書類を吹き飛ばす。フュリー曹長の泣き出しそうな悲鳴に振り返ると、舞い上がった白い紙が部屋中に踊っていた。


「ったく、馬鹿…」


舌打ちまで付けて馬鹿と言ったのはハボックだ。咥え煙草のまま渋々腰を上げて、足元へ散らばった書類を億劫そうに拾いだす。勤務状態の査定が近いのは奴にとっての不幸だ。ただでさえこいつは最近、暇さえあればその辺をぶらぶらして仕事が手についていない。上官として苦渋に満ちた報告をせねばなるまい。


中尉は報告書を届けに行っていて居ない。ブレダとファルマンは、粛々と自分の書類を拾って何事もなかったかのように机へ戻った。ハボックを半眼で睨んでいる私の姿をちらりと窺い、貝のように口を噤んで。下官として至極真っ当な対応だと言える。


風が収まった窓をそのまま開け放し、柔らかい風に髪を嬲らせながら私は自席へ戻った。ぶっちゃけ暇なのだ。昼からの謁見が相手の都合で流れてしまい、月末期限の書類に決裁印でも押してやろうと見に来たわけだが、誰を見習っているのか、全員ギリギリに提出するつもりだったらしい。非常に嘆かわしい。欠伸が出るのは、お前らが弛んでいてやることが無いからだ。そんなに呆れた顔で見るのは止めろ、ハボック。さらに減点2。



黙々とペンを走らせる音しかしない部屋で、椅子を引くと紙を踏む細い音がした。足元を屈んで覗き込み、大統領府の紋章が透かし彫りになった報告用紙を拾い上げる。張りのある少し硬い紙。書き損じなのか途中から塗り潰されている。



書き損じを。


あれは何時だったか、思い出す前に指が紙を二つに折った。折ってから裏返し、翼になる部分を斜に折る。


寄宿舎の窓から飛ばしたことがあった。ヒューズが作った紙飛行機は不思議な位遠くまで飛ぶのだ。







「また俺の勝ちだな」


ヒューズが鼻歌混じりに適当に作った飛行機は、風に上手く乗って寄宿舎の塀を越え、森に吸い込まれていった。私は悔しくて計算式まで書いて完璧な飛行機を作った。流体力学、翼型理論、安定性、空気抵抗、重心、全てにおいて完璧な。角度を計算して翼を折り、長さを測って胴を作った。まあ馬鹿馬鹿しいと言ってしまえばそれまでだが、公式を信奉していたその頃の私としてはそんな些細な事にすら揺るがせにせず、完璧な理論を求めた。


しかし、そこまでしても、ヒューズの作る武骨な翼に追い付かないのだ。


「これはコツがあるんだなあ」


私が書き損じた練成陣が、ヒューズの長い指に折られてひっくり返される。その中指の第二関節には、白い線になった傷がある。ナイフで結構深く切ったことがあって、その傷が残ったんだと聞いた。何故かその傷が好きだった。その傷のある指も。


「折りながら、こう…気持ちを乗せるんだ、飛べよーってな」


そうなのかと思い黙って手許を見ていると肩を落とされた。「臭いっつって突っ込むところなんだがな…」と。出来上がったマース5号は、やはり技術の粋を集めたマスタング5号よりも飛距離を出した。こいつはいい父親になるだろうな。窓の外、光が入り乱れる眩い陽射しの中、真直ぐ飛んでいく飛行機を、目を細めて気持ちよさそうに眺めているヒューズの横顔を見てそう思った。子供と遊ぶのが上手そうだ。


「しょーがねェなあ、考え過ぎなんだよお前は。
 ホラ、教えてやっから言う通りに折れ」


もしかして、上手に遊んで貰っている俺が子供か?

「翼のココんとこに折り返しを入れるとな、良く飛ぶんだ」

言われた通りに作った6号は、なぜか5号より遠くへ飛んだ。







「…あんたねえ…」


漸く出来上がったらしい書類を片手に、邪魔なぐらい大柄な男が私を見下ろしている。手許が暗いじゃないか。影になりながら顔も上げずに静かに返す。


「誰に向かって口をきいているのかな、少尉」
「じゃあ、あんたさん」
「大して変わらないどころか余計にムカつくんだが」
「仕事を邪魔しにきて、更に紙飛行機なんざ折ってるあんたにムカついてもいいですかね、俺」


文句を無視して、出来上がった飛行機の尾翼を少し上へ折り曲げた。座ったまま椅子を半転させ、開け放した窓へと向く。緩く風が流れて、飛行機の翼を震わせる。「力は入れずに風に乗せるんだ」、確かそうも言った気がする。つい、と手許を離れた白い飛行機は、ゆったりと上昇気流に乗り、見下ろす司令部の敷地を横切って、広い路を跨いで、その向こうの煉瓦色の屋根が並ぶ一角へ吸い込まれていった。


「…うわあ、何であんなに飛ぶんですか?!」


横目で見ていたらしい曹長が、思わずといった様子で立ち上がり窓辺へ貼付いて軌跡を追った。その驚く顔に気を良くして思わず口が緩む。


「あー…、コツがあるんだ」


曹長は早速記録しようと手帳を出して広げる。とても言い難くなる。


「…折りながらー…、気持ち、…気…キ
 機体の羽根を折り返すんだ…」


「ああ、俺も羽根の後ろ折り返し派だった」
「お前、ホントそういう遊び似合うガキだったんだろな…」
「折り返したら余計くるくる回りませんか」

ごちゃごちゃ言う三人を気にせず、曹長は笑顔で私が使ったのと同じ報告用紙を手にする。

「へえ、試してみてもいいですか?」


駄目だとも言えずに頷くと、曹長は自分オリジナルの飛行機を折りはじめた。何やら少し寸胴だ。横から「不格好…」とか「その折り方、違うんじゃねえの」とか口を挟んでいた三人も、見ているだけでは我慢できなくなったのか、席へ戻って折りはじめた。私は子供のような部下達に肩を竦めて、いつか寄宿舎の窓から眺めたような陽射しに溢れた空を眺める。





「まあまあ合格点かな…。ガキが出来たら、折ってやれよ」



そんな事を言ったってヒューズ。
どうせお前に折らせるつもりで、俺はちゃんと聞いていなかった。
もう教えて貰えもしない。
手を離れた飛行機のように、お前は戻って来ないのだから。





「出来た!!」「俺も!」

嬉々として出来上がった飛行機を手に四人が窓辺にひしめき合う。私は椅子を引いて、スターターとして片手を上げる。真剣な表情で構える面々。この真剣さが仕事中にもっと欲しいところだ。お誂え向きな風が流れて、私がさっと腕を降ろした途端。



扉が開いて、ホークアイ中尉が御帰還遊ばされた。


どう見ても。


どこから見ても豪快にサボっている私達を見て、その目が凍て付く波動を放った。全員の手から、紙飛行機が力無く離れて落ち、枯葉のように風に攫われていった。



「……ハハハ、皆、子供で困るよ中尉…」


横から一斉に非難の目が向けられるのを気にせず乾いた声で笑うと、中尉は目に剣呑な光を宿したまま唇だけで微笑んだ。母親が馬鹿な子供の耳を抓るような声が低く響いた。


「いちばん子供なのは貴方です、大佐」











(2004.03.30)