告白





―――円というのは、最も安定したカタチなんだ。


そう言ったのはロイだ。錬金術に差程興味のなかった俺に、「常識的なラインまでは頭に入れておけ」と講義してくれた。複雑な図形の組み合わせ、呪文、公式。軍人になるなら、これから嫌でも錬金術と関わっていくのだから、と。

俺はロイの手許を半分、どこか得意げに話すロイを半分に見ていた。


「しっかし…」


こんなことに気付くために役立てたくはなかった。地図を広げ、内乱の起きた場所をひとつひとつ調べていくうちに、当たって欲しくない危惧が現実味を帯びて来る。どうして今まで誰も気付かなかったのか。それとも気付いた人間は始末でもされてるのか。俺は書庫の天井を仰いだ。これはもう推測を越えている。とんでもないゲームをしている奴がいる。この国を盤にして。


ファイルを抱えて立ち上がると、開け放していた鉄扉が突然閉じて、俺を世界から遮断した。女の形をした闇が其処に立っていた。







「手当てを、中佐…!」


追って来る声に応じる余裕もなく外へ出た。トドメを差した気がしないのは何故だろう。ナイフが額に吸い込まれる寸前、女は避けるのをあえて止めたように見えた。無表情の底で小さく笑ったようにすら。気味の悪い余裕。あれは異常だ。人ではない。自らを喰らう蛇。


その蛇に、会議所を出てからも足下を追われているような言い知れない焦燥。街はもう夜深く、人の絶えた通りの先に電話ボックスの淡緑色の光が見えて来る。此処でいいのか。咄嗟に自問する。士官学校と実戦で叩き込まれた状況判断の再確認。危うい、と思った。夜行に飛び乗って東方司令部まで行きたいぐらいだ。しかしそれでは遅すぎる。無事に彼処へ着ける確率と、この電話が繋がる確率なら、まだ少し――。


本当にいいのか?
ロイに今、伝えてしまっていいのか?


刺された肩が疼くと意識が持っていかれ、自分のしようとしている事に迷いが生じる。あの女だけで済む筈がない。気付いた人間を端から消していこうとしているのであれば、その類をロイにも及ぼすのはまだ早くはないのか。腕の立つ部下が数人いるぐらいで、手向かえる相手では無いのだから。白い、口許を強く引き結んだ横顔。頑迷なまでに上をしか見ていない男。こんな底の知れない企みに巻き込まれて、誰がお前を守り切れる?俺はもう首を突っ込みすぎた。





「お前が戻って来るときまでに、もうちょっとは風通し良くしとくからよ、中央も」


そう俺が言ったとき、お前は何て言ったっけ…。東方へ左遷…いや移動が決まった日、負け惜しみのような口をいつまでも叩いていたお前が、そう言うとしばらくじっと黙って。神妙な顔で俺に頭を下げて――。





「はい、東方司令部」


交換手の声に、回想は途切れた。繋がった。これも天佑かもしれない。思わず周囲を見回してから俺は急いでその名を告げた。


「ロイ…マスタング大佐に繋いでくれ」


御託を並べたりコードを要求する相手に苛立ちながら、早口にがなり立てると、不意に背後に土を軍靴が噛む音がした。何の気配も感じなかった。まるであの女と同じに。掛けられた声は聞き覚えのあるロス少尉の声だった。違う。圧倒的な違和感に覚悟を決めて振り返った。冴えた銃口が俺を正面から見据えていた。





―――時間を稼ごう。


交換手が電話を繋ぐ時間を。俺はやけに冷静だった。少尉の形をした何かは、俺の指摘に笑って顔に泣き黒子を追加してみせた。少尉ではないのだ。ならば殺すことも出来る。消してしまうしかない。


大袈裟に頭を抱えてみせると、楽しそうな声を返してくる。油断しているうちにさっさと片付けた方がいい。受話器は呼び出し音を微かに伝えて来る。さっさと出ろ、まさか今日に限って帰っちまったんじゃねえだろうな。ああクソ、どっちにしろ片付けなきゃ落ち着いて話も出来やしねえ。

痛む肩を軽く竦めて、袖の下からナイフを掌へ滑り落とす。冷えた、純然たる殺意を握って、喋り続ける偽少尉の声に意識を集めた。声の位置、眉間、喉元――眉間でいい。返す腕で銃を払い除け、照準をずらして指を放す。外したことは一度も無かった。発砲されても急所は庇える。どんなに得体のしれない相手であっても、たった一人を相手にこんなところで死ぬわけが無い。



振り返った先に微笑んだ姿が、ほんの一瞬、薙ぎ払う腕から力を失わせた。





衝撃の後に銃声を聞いた。至近距離から叩き込んで、偽者は愉快そうに笑った。靴音が遠くなるのを聞きながら、何度も暗転する意識を必死に掻き集めた。胸から流れる血が温い。


コードの伸びた受話器が目の上で揺れていた。自分がどんな体勢でいるのかも遠かった。耳が熱くて呼び出し音すら聞こえない。息が詰まる。喉を血が塞いでるのか。口を開くと、声の代わりにヒュウと息だけが洩れた。


伝えられないのだ。
もう。




「ヒューズさん」


思ったより軽い絶望に瞼を降ろすと、不意に、先日まで我が家のゲストだった少女の言葉が耳に甦った。


「やっぱり口で言わなきゃ伝わらないこともありますよね」


ははァ、ちょっと今思い出すには辛辣な台詞だぞ、お嬢ちゃん。


俺は伝えられないが。俺の死がきっとあいつに異変を伝えるだろう。 その程度がいいのかもしれない。
それが、ロイにとっては。
知り過ぎて今すぐ消されるよりは。






珍しく俺に頭を下げた姿が浮かんだ。ロイはやけに言い難そうに口を動かした。

「…感謝、する」

ああ、さっきの続きか。
俺は怒ったっけ。

「感謝とか言うんじゃねえよ、お前その上官ヅラ止め!」
「……上官じゃないか」
「言い方があんだろ、もっと普通に言えねえのか」


思い当たってからも、ロイはまた一段と言い難そうに黙っていたが、俺が両手で頬を包むと、観念した顔を上げて、視線を逸らしながら、まるで告白でもするように小さな声で呟いた。


「…ありがとう」


聞こえないフリをしたら真っ赤になって殴った。あんなに照れたロイを見たのは後にも先にもそれっきりだった。でも俺も照れたね、ふざけなきゃやってられないぐらいに。





「――――……ッ、…ズ」


俺より先にくたばったかと思っていた受話器が、耳に馴染んだ声を微かに伝えた。


「……―ヒュ……」


受話器がイカれたのか、耳がイカれたのか、お前の声が切れ切れに聞こえる。遅せえよ、馬鹿。投げ出した指先が、失血の所為か、軽く痙攣し始めた。天国で、お前の好きそうな本でも揃えて待っててやるよ。なるべくゆっくり来い。


「…ヒューズ?」


もし、今、声を出せたら。
俺も「ありがとう」と返せるのに。
お前と会えて楽しかったと言えるのに。
出来ればもう少し、一緒に無茶がしたかったが。



「…いっ、―――ヒューズ!」


一度も言わなかったけど、愛してるよ。
……これは、口で言った方が良かったのかもしんねえな。


怒ったように俺の名を叫ぶ、お前の声が次第に遠くなる。
そんなに必死な声に、もう答えてやれなくなるけれど。
あんまり落ち込むんじゃねえぞ、なあ。



意識を手放すことを自分に許して、不思議と満たされた気持ちに口許が笑った。
俺が残していくすべての愛しいものに、どうか限り無い祝福を。












これを書いた頃、銃弾は眉間に一発だなんて設定がまだ出ておらず…。(涙)(2004.03.16)