靴が減る

鋼のを送って戻ってきたヒューズは、多忙を極める私の執務室へひょいと顔を出した。


「よ。俺も帰るわ」
「ああ」


マホガニーの木目が見えないほど机に積み上げられた書類に目を落としたまま、お座なりな返事をする。長い間。扉が閉まる気配が無い。


「…何だ、行かないのか」


群青のインクでサインを綴り、出来上がった書類を羊皮紙の封筒へ入れると、机の上で焔を揺らす蝋燭を手に取る。蝋を封へ滴らせ、乾き切る前に指に嵌めた指輪を押し当てる。指輪に彫られた大総統府の紋章が蝋に刻まれる。


「見送りに来ないのか」
「行ける状態に見えるのかね、ヒューズ中佐」


決裁済の箱へ封書を投げ入れながら、扉から半分だけ顔を出したまま構って欲しそうなヒゲ面を上目で睨み付ける。大概の人間に効果があるのだが、コレには効かない。黙らない。


「見えるから誘ってる」
「その口も蝋で閉じてやろうか」


そんな楽しそうな顔で揶揄っても駄目だ。大体構って欲しいというのなら、一晩構ってやったばかりだろうに。昨日サボった分を今日中に片付けなければ中尉に撃たれる。くたびれてきた指で、未決済の書類の山の一番上の束を取る。


「ああ、そうだ、エドから伝言」
「扉を開けたまま喋るな、入るなら入れ」


仕事に戻った私を見れば、浅い溜息で話題を切り変える。そのどこかつまらなそうな、興味を失ったような溜息が、まるで引き止めるような台詞を私の口へ登らせる。扉を閉めた男が大きな歩幅で近付いてくる。


「『絶対テメーより先に死にません、クソ大佐』だとさ。いいねェあの豆、根性座っとるわ」
「は」


短く笑い、ペンを指の中でくるりと回した。「わざわざ見送りに行くこともなかったろうに。お前も忙しいんだろう」だからさっさと帰れ。言外に潜ませて言うと大柄な男は肩を竦めた。陽は落ちはじめている。今から発っても中央に戻れるのは明日の朝だろうか。背にした窓から差す夕陽が、ヒューズの眼鏡のフレームを赫く照らした。昨日、この指で外した細いフレームに。遊ばせていたペンを握りなおし、意識を目の前の書類に振り向ける。


「またいつでも会える」


それは、もう発った錬金術師へか、それとも目の前の男への言葉なのか。ヒューズはその曖昧さをも心得た顔で笑う。「別れた奴に、必ずまた会えるような御時世じゃねえだろう」だからもう少し惜しんでくれてもいいんじゃないのか。薄く笑う唇はそう言っている。


深緑のペン軸を雪花石膏のトレイに置いて顔を上げる。精一杯だ。それ以上の合図は出せない。フレームの端に点ったままの夕陽の赤が寄せられる。焔。眸を伏せて視界を閉ざす。焔、瓦礫、砂塵。捉えられる前に男の制服の袖を握ると、瞬く気配。触れる寸前の唇から子供を甘やかすような吐息。混じる髪の匂い。


親友という言葉はずいぶん広義に使われるものだね、ヒューズ。私たちが繰り越し繰り上げで先延ばしにしてきたことは、こんな書類の山の比では無いようにも思える。――とはいえ、今更どうでもいいが。
熱が唇から引いてから、袖口から手を離した。仕立てのいい軍服の袖はたいした皺にもなっていない。


「重ねて言うが、護衛を付けろよ。独りでふらふら出歩くな」


私の口許を指の背で拭って、常より低い声で念を押す。「厭でも付いてくる」その指を浅く噛むと「そういう言い方するな」と鼻頭を弾かれる。私を何度も瓦礫から掬い上げた掌が、手荒く頭を撫でていく。「いい奴らじゃねえか、安心したね」


あの中尉の蹴りは最高だった。お前の無能ぶりも御承知のようだしな。あれなら大丈夫。笑って背中を向けた男が、執務室の扉を押し開ける。ヒューズはふと忘れ物をした顔で振り返り「で、やっぱり見送りには来んのか」と肩越しに言った。


「面倒だ。靴が減る」


酷え親友もあったもんだ。そう笑う声が扉の向こうに消える。待ち構えたように塵臭い静寂が私を包む。その静けさのなかでようやく気付く。今日の乱戦で、どうして彼が「物陰に隠れてた」のかを。どうして私を援護しなかったのかを。試したのだ、私の部下を。そして私を。


情報処理の遅い自分の頭を掻いて溜息をつく。お節介の足音はもう遠い。

――別れた奴に、必ずまた会えるような御時世じゃねえだろう

耳朶に、嫌な台詞が引っ掛かったまま棘になる。













「ヒューズ!!」


さて、腹ごしらえでもして寝るか。軽食を買って来て座席に戻った途端声がした。時間が遅い所為か、乗客は疎らだ。ベーグルサンドを隣の空席に置いて窓を上げる。


「マース・ヒューズ!」


そんなに呼ばなくても聞こえてる。上げた窓から身を乗り出してホームを見渡す。階段を上がってくる青い軍服。軍服姿のロイは、自分では様になっていると思っているんだろうが、俺の目にはいつまでも服に着られているように映る。サイズがひとつ大きいんだろうか?

発車を告げる割れたベルの音が、俺を探すロイの声を一度かき消した。苛立たしそうな顔、車窓のひとつひとつを覗き込みながら軍服の裾を翻して走るその姿。左右に流れる素直な髪。どこから走ってきたのか、僅かに紅潮した頬。


ずっと見ていたくて、声を掛けるのを一瞬躊躇った。
お前が俺を探すのを、もう少し見ていたくて。
見つからなければ泣き出してしまいそうな、子供のようなその一途さを。


ガクンと車両が揺れてゆっくりと列車がホームを進みだした。


「ヒューズ!」
「ロイ、此処だ」


弾かれたように、ロイは機嫌が最高に悪いときの顔で俺の方を見て、叫んだ。



「勝手に安心して帰るな…!
 私はまだ…、いや、大丈夫、だが…」



あーあ。

これが29の男の台詞だろうか。
嫌になっちまうね、神様。
あんまり可愛くて嫌になっちまうよ。



「ローイ…そんなに走ると、靴が擦り減っちまうぞ」


列車の進行方向に立ち尽くすロイが近付いてくる。怒ったままの片頬を、伸ばした掌で包んだ。まだ速度を上げない列車の横を、ロイが歩き出す。睨んだまま。視線より高い車窓の俺を噛み付くような目で睨み付けたまま。


「…ずっと心配しててやっから、な」


お前が欲しい言葉はこんなんじゃないかもしれないが。それでも触れていた頬が緩む。この国よりもお前を守るよ。とんだ中佐もいたもんだ。公私混同もいいところだ。ほんの少し笑った薄い唇を、親指で端から端まで往復になぞった。返事を促されたと思ったのか、言葉を探しながら唇が開く。


警笛が鳴って、列車が速度を上げ始めた。手が離れた。ロイの唇が言葉を探せないままの形で固まった。その唇の柔らかさが残る指を、自分の唇に押し当てて笑ってみせた。悪戯を咎めるような眸と、少し擽ったそうな口許でロイも笑った。



走り出した列車を、ロイはもう追わなかった。俺は窓から乗り出したまま敬礼を送った。ロイは殊更柔らかく、見愡れるほど優雅に返礼を返した。列車が巻き起こす風が、青い軍服の裾を何度も翻した。俺はその姿が夜に溶けるまで、敬礼を解かずに、目に焼き付けた。









「…ったく、んな上等な見送りされちゃあ、今度どんな顔で会やぁいいのかね」




ようやくベーグルサンドを齧る。指先についたドレッシングを舐めると、指に奴の唇の熱が甦った。それは夜に寄り添う月のようにいつまでも消えず、車内の暖かい灯よりも優しく、俺の短い一人旅を慰めた。










(2004.03.04.)