MAZURKA











 親愛なるグレイシア


 そちらではそろそろ秋の収穫も終わって市場が賑わう頃だろうか。こちらは緑も少なく、見渡すかぎり赤土の荒れ地だ。ヒューズも私も、日々そちらを恋しく想う。

 ヒューズから写真を見せてもらった。自慢げに顔に押し付けられたといった方がいいだろうか。君からの手紙は奴にとって何よりの励みだ。また書いてやって欲しい。書けば書くほどあんなに長い返信が送られてくる思うと、私ならうんざりするが。ヒューズは元気だ。相変わらず鬱陶しいぐらいに。怪我ひとつしていないし呆れるほどよく食べる。もしかして少し太ったかもしれない。そう言うと「逞しくなったと言え」と口を尖らせて言い返してくるが、どうだか。

 元気そうで何よりだ。それからあの猫、随分と大きくなっていたので驚いた。仔猫が大きくなるのは早いな。面倒を押し付けてすまないが、困るなら戻ったときに引き取りに行くからそれまで宜しく。世話をしてくれてありがとう。

 ヒューズがどうしても「お前も一枚書け」と言うのでペンをとってみたが、こういう物をろくに書いたことが無いので、何を書いたらいいのか分からない。つまらない手紙ですまない。報告書や論文なら幾らでも書けるくせにと、今も隣から覗き込んで文句をつけてくるが、戦況について書くわけにはいかないし、君の近況を根掘り葉掘り訊くわけにもいかないし、思わず綴りたくなるような風景にも出会わないし……。あいつが何をそんなに毎日書いているのか知りたいぐらいだ。(筆跡の違う太い字が割り込み、「溢れ出る愛」と書き添えている)←らしい、結婚式には是非出席させてもらうよ。花婿殿は遠からず帰郷できると思う。あまり心配せずに待っていて欲しい。それではまた。


                             ロイ・マスタング







***


ヒューズが猫にこっそりと餌をやっているのを、一度だけ見たことがあった。

旧校舎の裏に母猫が住み着いて、いつの間にか出産していた。仔猫は五匹ぐらいいたと思う。ヒューズはどう工面したものか肉らしき物を手に入れて、猫の親子から少し離れて座りこみ餌を放っていた。猫が可愛くて、というよりも、考えごとのついでにといったぼんやりした手付きだった。母猫はヒューズをじろじろ見て値踏みしてから、そう悪い奴じゃなさそうだと判断したらしく、寄越された餌を慇懃に咥えた。仔猫たちは母親に纏わりつき、乳をねだって鳴いた。

私達は卒業を目前にしていたし、卒業後すぐに戦地へ遣られることも決まっていた。国軍が優勢とは聞いていたが、戦死の報も日々届く。いつ死ぬか分からない身がちいさな命を見たとき、幾許の感傷に浸るのも仕方ないだろう。だから私は声をかけずに部屋へ戻った。


一度きりの気紛れかと思っていたが、ヒューズはそれからも二度三度と餌をやってしまい、やはり情が移ったらしい。卒業式も終え、出発を三日後に控えたある夜。悪い予感はしていたが、案の定、真顔で切り出された。

「母猫が仔猫を一匹置いたまま戻ってこねえんだ」

私はすかさず嫌な顔をしてみせ、「だから何だ」と突き放すように答えた。ヒューズは全く動じず「一匹じゃ死んじまうだろ」と言う。この辺は食堂から出る残飯狙いの鴉もいる。だからって私達が面倒を見れるはずもない。前線で猫を飼う馬鹿がいるか?

「いちばんちっこい奴だったから、親に追いつけなかったのかなあ」

育たないと思って母親が置いていったのかもしれない。私は悄気たヒューズを眺めてそんなことを意地悪く思った。弱肉強食は自然の摂理だ。なんて言ったところで、そんなのは嫌というほど分かっていて、こいつはどうしても助けたいらしい。言い争うのは体力と時間の無駄だ。一緒に暮らした数年間、こいつはなんだかんだいったって一度も折れたことがない。理屈は此方が絶対に正しいときでさえ。

「お前の実家にでも連れていけばいい」

それしか無いだろうと思って言うと、ヒューズは「時間が無えよ」と答えた。出発までの数日、確かに予定は隙無く埋まっていた。ヒューズの家は列車を乗り継いで半日以上かかる。下級生に頼むか、寮で働く誰かにあたるか。運良くすぐ貰い手が見つかればいいが。

「可愛いやつなんだ。真っ白でもこもこして毛玉みてえ」

猫なんて白か黒か茶色じゃないか。犬猫に興味のない私が怪訝そうに見ると、ヒューズはベッドへ座ったまま私を手招いた。そろそろ荷物の整理をしないといけない。猫に構ってる暇なんか無いのに。しかし話を聞いてやらないと、拗ねて騒いで、発情期の猫より面倒なことになる。仕方ないので呼ばれるままに目の前へ立つと、ヒューズは私の手を引っ張って隣へ座らせ、いきなり白いちいさなものを目の前へ突き出した。両手にこんもりと、ふわふわ動く綿毛……に見えたのは、やはりつれてきた仔猫だった。てのひらの上で立とうと手足を突っ張るが、すぐにころりと転がってしまう。まだ鳴き声も舌足らず、にゃあではなくてみぃ。

「……どうする気だ」

可愛いどころか面倒だとしか感じなかった。眉間に皺を寄せて睨んだが、ヒューズは全く動じず、自信たっぷりに提案してきた。

「グレイシアに頼んでみようと思う」
「思い付きで人に迷惑をかけるな。仔猫は手がかかるんだ、それに」

だいたい彼女は猫が好きなのか?アパート暮らしなのに大家が許可するのか?つらつらと文句を言うのを聞き流し、ヒューズは仔猫を抱き上げ、鼻を擦り合わせながら歌うように節をつけて答えた。

「大丈ー夫。俺の面倒も見てくれるー、天使のような人だからー」
「まあ、お前ほどには手がかからないだろうがな」

まあ、確かにグレイシアなら、このいたいけな猫を放っておけないだろう。自分で飼うなり、飼い主を探すなりしてくれそうだ。彼女の家ならここからそう遠くない。ヒューズは相談を持ちかけておいて勝手に自己完結し、仔猫を私の膝へ乗せると、自分の身体へ毛布を巻き付けてベッドへ寝転がった。

「おい、これどうすればいいんだ」

慌てて訊けば、ヒューズは欠伸混じりに「母親代わりに添い寝でもしてやってくれ」と馬鹿を言う。猫は私の膝の上をもじもじと這い上がり、脚の付け根あたりへ頬を擦り付け、丸くなって目を閉じてしまった。口許がふにゃんと笑っているような可愛い顔だ。閉じた目も半月。思わずつられて笑い、まだくしゃっとした耳を撫でてやると、ぷっと小さく噴き出す声がして、見れば寝たはずのヒューズが薄目をあけて此方を眺めニヤニヤしていた。

「な、可愛いだろ」

私は黙って枕をつかみ、してやったりな顔へしたたかに投げ付けた。




***


翌日、揃って所用を済ませ、寮へ戻るともう陽は傾いていた。一日だけと頼み込んで世話をして貰った下級生から猫を受け取り、ヒューズは恋人に長い電話をかけてから部屋へ戻ってきた。私は邪魔が入らないこの好機に整頓を済ませようと、本を机へ積みはじめたところだった。

「なあ、お前も行こうぜ。着替えろよ」

ヒューズは士官学校の制服を脱いで、着用を許された軍服へ袖を通した。その姿をグレイシアへ見せてやりたいんだろう。私は浮かれた様子に苦笑して首を横へ振った。猫を渡すぐらいひとりでやれ。それに、おそらく出発前に二人で過ごす最後の時間だ。そこへ顔を出すほど野暮じゃない。

「外泊届け、出してきた。お前の分も」

気がきくだろうと言わんばかりだから、さすがに呆れ、追い払うように手を振った。

「ひとりで行け。私は用がある」
「用ってどうせその本を図書館へ返すだけだろ?それなら明日俺も手伝ってやるからさ。お前ひとりでやったって、どうせ途中で読み出しちまって片付きゃしねえよ」

ヒューズは失礼なことを言いながら、スカートを腰に巻いた。少し頼りないが、いっぱしの軍人がそこにいた。見慣れなさと可笑しさが入り交じって、思わず頬が笑ってしまう。ヒューズはそれを盛大に勘違いして自慢げに胸を反らし、「いきなり似合っちゃう俺にうっとりかあ?ほらほら、お前も着替えろよ、グレイシアもお前に会いたいってよ」と、捲し立てて急かした。最後に一目だけ彼女に会っておくのもいいかもしれない。ありがとうと元気でを言って、すぐに帰ってこよう。そう思って、ヒューズが放って寄越す私の軍服を受け取った。留め具の多さに手こずっていると、ヒューズはベッドに寝そべりながら

「お前ほんと似合わねえなあ」

と、自分を棚に上げてほざいた。




***


グレイシアの家は、セントラルの郊外、寮からトラムで七駅先にあった。イエローヒルと呼ばれる古い街。薄闇が降りた駅からメインストリートの石畳を歩き、幾つめかの路地へ折れ、急な坂を上りきると白壁のアパートメントが見えて来る。蔦の絡むアーチをくぐれば、黒い帯金のついた木の扉が迎えてくれる。

「ちょっと持っててくれ」

ヒューズは両手で抱いていた仔猫を、私の前襟をひっぱって胸元へ突っ込んだ。そして呼び鈴を押すと、軽やかな足音が近付いてきて扉が外へ開いた。淡いグリーンのシンプルなワンピースに白いカーディガン。思わず笑み返してしまう優しい瞳と金色の髪。ライバルもさぞや多かっただろうに、どうして彼女はヒューズを選んだんだろうか。謎だ。

グレイシアはヒューズの軍服姿に「わあ…!素敵」と短い歓声をあげ、ヒューズは自慢げに背筋を伸ばした。後ろから見ててもこんなに有頂天じゃ、前から見たら一体どんなだらしない顔で笑ってるんだか。ヒューズはすぐに後ろを振り返って、私をグレイシアの前へ引っ張り出した。

「ようこそ……、あ…、可愛い!」

ヒューズには素敵で私には可愛い?ヒューズが揶揄って言うのは聞き飽きたが、女性に言われるとなると話は別だ。軽いショックに硬直し、口を開いたまま言葉を探していると、ぷっと噴き出すヒューズの横をすり抜けて、グレイシアの華奢な手が私の胸に触れた。みゃうと鳴き声がして、その手は私の襟元から白い仔猫を抱き上げる。あ、ああ、そうか、猫がか。グレイシアはその胸に仔猫を抱いてから、黙って突っ立つ私ににっこりと笑ってみせた。

「軍服、とてもよくお似合いです」

これは案外、わざとかもしれない。だってこの女性はヒューズの選んだ人なのだ。






グレイシアが借りているのは、この建物の二階の一室だ。扉の奥はホールになっていて、その向こうに螺旋階段がある。階段の手摺は唐草模様の鉄細工、オークの床は磨き上げられ飴色に光っている。年季の入った、しかし手入れのいいアパートメント。

「元々は一軒家だったの。だから部屋は全部間取りが違うのよ」

グレイシアは物珍しげな私にそう説明しながら、おとなしく抱かれている仔猫の鼻をつついて階段を上がった。そして階段から二つ目の部屋、203と刻まれたプレートが掛かる扉を開ける。外で会った(というかヒューズに引き摺られて会わされたというか)ことは何度かあったが、部屋を訪ねるのははじめてだった。白い壁と、青錆色の窓枠。椅子が三脚置かれたダイニングテーブルには、ミントグリーンに白い水玉模様のクロスと、グラスに挿されたクリーム色の薔薇。チェストの上には家族のポートレイトが並ぶ。隅々まで優しい気配で満たされた、それでいて整い過ぎていない居心地のいい部屋だ。部屋を見れば主人が分かるというが、まさにその通り。

「こんなのしかなかったの。明日ちゃんとしたのを…」

グレイシアは床へ寝かせておいた旅行用のトランクをパチンと開けて、そのなかへ仔猫をそっと置いた。革のトランクの底には白い膝掛けが敷いてある。猫はほわほわした背中を向け、はじめて与えられた自分の場所をもこもこと歩き回り、納得がいくとすぐに転がって眠ってしまった。寝返りをうって目の上を掻くような仕種が可愛くて、三人とも床に膝をついて寝床を覗き込む。「白に白で、どこにいるか分からないわね」とグレイシアが笑った。

「何を食べるの?」
「ああ、肉とか魚とか…、もう何でも食ってたけど」
「大家さんに聞いてみるわ。猫飼ってるから」
「厄介かけてすまん」

ヒューズは殊勝に頭を下げ、そのままトランクの横へ寝転んだ。そして頬杖をついて猫のひたいを撫で、耳がぴるぴる震えるのを飽きずに眺めた。

「紅茶でいい?」

グレイシアはキッチンへ立ち、私へダイニングの椅子を勧めてくれた。テーブルの上の薔薇はやや開ききっているが、それでも甘い香りをたたえている。紅茶をカップへ注ぐ彼女の爪は艶のある桜色だった。きらり、きらりと、天井の灯りを映してちいさく光る。その細い指先は、錬成陣を描きはしないけれど、きっとどんな術より人を幸せにできるだろう。

「お砂糖はひとつよね」

薄い口紅をひいた唇がそう訊ねた。グレイシアはシュガーポットを私のカップの横へ置いてから、向かいの椅子へ座った。ヒューズはラグの上へねそべったまま猫と遊んでいる。恋人というよりも、もうこの二人は家族のようなものだな。カップへおとした角砂糖がほろりと崩れた。甘さに似た優しい感情が、私の胸にも広がった。

「出発前に、顔を出してくれてありがとう」

先に「ありがとう」を言われてしまって、私は慌てて首を振り「こちらこそ」と返した。その一言ではとても足りない気がして、「本当に、ありがとう」と言い足した。私の誕生日にも焼いてくれたアップルパイ。度々デートに乱入してしまった(させられた)ときも嫌な顔ひとつせず…。そういえば、あの寮の外にいるセントラルの知人といえば、彼女しかいないんじゃないだろうか。…いや、いきつけの本屋の……、あの店主を知人と呼んでいいなら二人か。

とにかく礼は言えたから、このカップを空けたら邪魔者は退散しよう。急いで飲み干すと、グレイシアは「気に入った?ね、このお茶美味しいでしょ」と嬉しそうな笑顔で、間髪を入れずにティーポットを傾け、またカップを琥珀色の波で満たした。彼女は楚々と控えめに見えて、こういうところはヒューズに似ている。私は笑顔に逆らえず、浮かせかけた腰を下ろした。

「もし予定がないなら、まだ帰らないで。あの人と二人にされても退屈だし」

指差す先を振り返れば、呆れたことにヒューズはラグにつっぷして寝こけていた。家に来た途端寝てしまう恋人ってどうだろう。可愛いと思ってくれる母性本能が豊かな女性でも、これからしばらく会えなくなる最後の夜なら話は違うんじゃないか。私の心配をよそに、ヒューズはいびきまでかきはじめた。

「一度寝ちゃうと、朝まで起きないの」

グレイシアはくすくす笑い、自分のカップへ砂糖を二つ入れた。私もそれはよく知っている。しかし、今夜ぐらいは…。そう思ったところへ、さああと雨の音がした。開いた窓の外には絹のような雨。グレイシアは立ち上がり、窓を閉めると、いいことを思い付いた顔で振り向いた。

「ね、足元も悪いし、泊まっていって?ベッドもソファもあるし、あの人は床でいいみたいだから」

私は少し迷ってから、こいつが目を覚ましたら帰ろうと心に決めて頷いた。




***


グレイシアは焼いておいたというクッキーを出して、それから「クッキーと紅茶なんて時間でもないわよね」と茶目っ気を見せて笑うと、ワインとチーズ、魚のマリネにクラッカーをテーブルへ並べた。ありがたく饗応を受けながら、私はヒューズの悪事を面白可笑しく話した。いかに門限をごまかして寮を抜け出したか。いかに効率良く演習で点数を稼いだか。いかに嫌いな教官を解任させたか。悪事といっても寮のなかでは武勇伝に入るような逸話を。グレイシアは聞き上手で笑いながらまぜっかえしたりするから、そう話上手でもない私もぺらぺらと舌がまわった。話題の主は寝返りを打って腹など掻いて起きそうにない。その隣で猫もころりと寝返りを打つ。雨の匂い、水の気配に閉じ込められる心地良さ。やがて仔猫が目を覚まし、ちいさな声で鳴きだした。

私とグレイシアは顔を見合わせてから席を立って、ヒューズを避けてラグへ座り、鞄のなかでころころ転がる仔猫を覗き込んだ。猫は彼女が差し入れたマリネの切れ端を鼻をぴくぴくさせて嗅ぎ、一口ずつ味わうようにゆっくりと食べる。のら猫にしては行儀がいい。感心してよく見れば瞳は薄い碧だった。

「同じ色ね」

私の思いを読むように彼女が言った。私は静かに笑い返して頷いた。雨の繭につつまれて、私達は密やかに何かを共有していた。こんなに長く話したのは初めてだというのに、何故か短いひとことで互いに分かりあえるような気がした。

「ヒューズの代わりに、可愛がってくれないか。迷惑なら…帰ってきたら引き取るから」

そう言うと、グレイシアは「大丈夫よ」と笑った。

「昼間は大家さんが預ってくれるって。私もきっと…寂しいのがこの子のおかげでまぎれるわ」

ヒューズがそこまで考えて、仔猫を彼女に預けたのかどうか。日頃の鈍感ぶりを間近で見ている私にはよく分からなかった。仔猫ばかり構われて悔しいのか、ヒューズがグレイシアの後ろで寝返りを打った。寝てる癖に拗ねるんだからどうしようもない。半分こちらを向いた阿呆づら。グレイシアは片手を仔猫に預けたまま、もう片手で、歪みそうな眼鏡をそこから外してやった。そんな些細な仕種にさえ、彼女の愛情が滲んで見える。口許は仔猫をあいてにするときと同じように微笑んでいる。穏やかな、穏やかすぎるほどの優しい顔。

「……起こして、話さなくていいのか」

どうしてそんなに平静でいられるんだろう。まるで運命を全部かみさまに委ねてしまった修道女みたいだ。口にしてしまってからとんだ愚問だと気付き、恥ずしくてたまらなくなった。私がここに居るから、そう出来ないのだ。グレイシアはきょとんとしてから淡いブルーの瞳を細めて笑った。

「わたしがマースを委ねてるのは、かみさまじゃないわ。あなたよ」

驚いて、吸った息を吐くのも忘れた。
かみさまだなんて、冗談じゃない。
それどころか、私はイシュヴァールの神を焼き払いに行くのだ。
錬金術師として動員されるからは、この焔を使わずにはいられないだろう。それはきっと未曾有の殺戮になるだろう。決してこの身が購えないほど。

私は君の大切なものを預ったりできない。
自分自身の正気を保てるかすら危ういのだから。

グレイシアは膝の上へ置いた眼鏡を、優しい指で撫でながら続けた。

「この人だって…神様に祈ったりしない人だけれど」

小さく笑った口許につられて、私も思わず頬を緩めた。この人は本当に、ヒューズのことを理解している。

「もし、何かを信じてるとすれば、あなたよ」

まっすぐに向けられた水色の瞳から、目を逸らせなかった。

「煩わしいかもしれないけど、この人の神様でいてあげて。お願い」

そう言って、彼女はヒューズの眼鏡をかけて戯けた。奴のフレームは大きすぎて、すぐに鼻の上までずり落ちた。あまりにも似合っていなくて笑おうと思ったのに、彼女の微笑みは潤んでぼやけた。照れ笑いを浮かべてフレームを持ち上げる桜色の爪。ああ、女性というのは本当に凄い。不安や怖れを微笑みだけで押し流す。彼女は蜂蜜色の睫毛をゆっくりとまばたき、唇の前へ人さし指を立て、悪戯な笑みを浮かべて言った。

「一緒にいないと駄目になっちゃうのは、あなたじゃなくて、この人の方なの」









 ロイくんへ


 お手紙ありがとう。お元気そうで安心しました。こちらは今いちばんいい季節、あなた達には申し訳ないような穏やかな毎日です。

 私も猫も元気です。猫は手に乗るほどちいさかったのに、今では膝にあがって来ると少し重いぐらい。私のほうは大丈夫。迷惑なんてしていないから安心して。あなたが仔猫をつれてきたときは驚いたけど。

 私ね、常々あの軍服の胸のところの襟って、どうしてあるんだろうって不思議だったの。でもあの夜、訪ねて来たマースの後ろから遠慮がちに顔を覗かせた貴方の、その胸元からもっと遠慮がちに仔猫が顔を出したときの可愛さったらなかったわ。私、あのデザインを見直したもの。

 仔猫を囲んで3人で寝た夜のこと覚えてる?夜に雨が降りだすと、いつもあの夜のことを思い出すの。思い出すと幸せな気持ちになる。この先のどんな幸せだって、あの夜には替え難いと思うほど。どうぞまた遊びにきてね。猫といっしょに待っています。

 私も実は手紙を書くのが苦手なの。面白いことが書けなくてごめんなさい。マースが手紙に書いているのは、ほとんどあなたのことよ。寝起きが悪いだの、寝癖がひどいだの、こんな暢気な寝言を言っただの。だからある意味、「溢れ出る愛」は間違ってはいないわね。鬱陶しいこともあると思うけど、我慢して相手してあげてください。よろしくお願いします。幸運がいつもあなたと共にありますように。


                             グレイシア







***


「あなたが猫を好きなんて知らなかったわ」

気がついたら眠ってしまったらしい。ラグの上、私の身体には毛布が掛けられていた。丸めた背中の後ろからグレイシアの声がする。ランプの灯が部屋の壁をゆらゆらと橙色に照らして、私の影は目の前の床へ長く伸びている。何時だろう。懐中時計を探ろうとしたとき、同じ方からヒューズの声が聴こえた。

「俺も知らなかった」

動けばふたりの話を途切れさせると思い、伸ばしかけた手を止めた。視線だけ窓の外へ向ければ、空はまだ暗い。雨粒が窓硝子の上をちろちろと滑る。どちらがあやしているのか、仔猫の鳴き声がした。

「でもこいつ、ロイみたいだろ?態度デカくて。ロイだと思って可愛が…、っ痛」

どこかを噛まれたらしい、ヒューズの声が裏返る。眠い頭でざまあみろと思った。ふたりの声はぼそぼそと小さい。多分、私を起こさないように。グレイシアは笑い声も押し殺しながら言った。

「あなた達って本当に同じこと言うのね」
「は?『ロイみたいだ』ってのが?」

もしかして、これは盗み聞きなんだろうか。いかん、寝てしまおうと私は目を閉じた。ヒューズが目を覚ましてるのなら、寝過ごさない程度に起こしてくれるだろう。瞑った目蓋の内で、ランプの灯の残像が揺れる。長い赤い尾を引いて、右へ、左へ。そして暗闇へ吸い込まれる。短い戦場の予見。

「あなた達はふたりとも嘘つき」

甘い声が、私達を優しく断罪した。ヒューズは何も答えなかった。きっとあの食えない笑みでも浮かべてるんだろう。キシと床板が軋んで、グレイシアの声が近くなった。

「あなたの嘘は情けないけど、ロイくんの嘘は綺麗ね」

驚くほど細い指先が、私の横顔へ触れた。くすぐったさに耐えていると、指はすっと耳の上へ掛かった。それから何度も、髪を耳へかけて梳きながした。子供を寝付かせるように優しく繰り返される、ゆるやかなリズム、甘い温み。

「でも、綺麗なままじゃ、神様にはなれても王様にはなれないわ」

お伽噺を語るような声。睡魔が、細波のように寄せては返す。意味を半分ぐらいつかみ損ねる言葉。自分が連れて来られた猫のような気がする。眠りに落ちる前の、埒のない想い。

「だからあなたがついていくのね?」

ヒューズはまた答えなかった。でも顎を引いて頷くのが、瞑った目に浮かんだ。だからって何だ。話がさっぱり見えない。それにしても恋人達の会話らしくない。そんなことはいいから、もっと将来の約束を交すとか。私のことは気にしないで、猫だと思ってくれて構わないから。霞みがかった頭のなかで、私はもやもやと文句を言った。

「前線でも一緒だなんて、今でさえややこしいのに、余計ややこしくなっちゃうわね」
「ややこしくなりたくて一緒に行くんだ」

呆れた即答にさすがに目が覚めた。目は開けなかったけれど。グレイシアが深い溜息をつくのが聴こえた。ふう、と長く、でもどこか可笑しそうに。

「嫌なひと」
「全くだ」

ふたりは忍び笑いを漏らした。愉しい秘密を分かち合うみたいに。みゃあ、と仔猫が混じりたさそうに鳴いた。ギシ、と床が軋んで、ヒューズの声も近くなった。話の中身はさておき、声だけは睦言みたいに甘い。

「ホントはロイは何処でもひとりで、立派にやってけるんだ。前線でも」
「そう?」
「そ。カワイイは最大の防御って言うだろ」
「言わないわよ」

いい加減、私をネタにするのは止めろ。跳ね起きてやろうかと思ったとき、不意に私の身体へ…上にした腕へ、やわらかい感触がふれた。何だろうと思う間もなく、頬へちいさな温みが落ちてきた。少し遅れて白い薔薇の匂い。 

「あ、狡ィ」

ヒューズがそう言うから、触れた柔らかさが何か確信した。グレイシアの唇が、私の頬を啄みながら綻ぶ。軽くふれて離れるたび、くすぐったい波紋が広がる。

「おまじないよ。無事に帰ってきてくださいって」
「俺には?」
「イヤ」

彼女の唇から、微かにワインの香りがした。ヒューズが起きてから二人で飲んだんだろう。酔っているんだ、だから。いや、案外素面なのかもしれない。唇が触れるたび、私にも酒気が移る気がした。混乱していく。この人は手に負えない。ああ、いっそすごい修羅場に巻き込まれた方がマシだ。

「じゃ、俺もおまじないする」

ギシ、ギシ、とヒューズが腕で這いずるような音で床を鳴らし、私の頭の上あたりへ陣取った。まさかそんなと思う間もなく、バカでかい手で前髪を上げられ、晒したこめかみに嫌な感触がふれた。こいつは酔ってない、絶対に素面だ。死ね死ね死ねと三回罵った。冗談でも恋人の前で男にキスする馬鹿がいるか。

横臥する私の頭上で、短い沈黙が流れた。ついにヒューズに引導が渡されるときが来たか。私は悪くない、私の所為にするなよ。

「帰ってくるわよね?」

グレイシアの声から甘さが消えた。凛と響く、偽りを許さない声。

「帰る」

とっくに決まっていることのようにヒューズは静かに誓約した。まだ借り物のような軍服姿で、よくそんな大口が叩ける。薄目をひらくと、床の上へ投げ出した私の手へグレイシアのちいさな指が、桜色の爪が、そっと触れるのが見えた。

「一緒によ。約束して」
「勿論」

私とグレイシアの手の傍へ、見慣れた武骨な手が添えられた。その厚かましい手のひらは、グレイシアの指先と私の指を一緒に掴んだ。

「君がいないと死ぬ」

笑い出したいぐらい、情けない告白だった。笑い出さずにすんだのは、ヒューズの声が馬鹿みたいにシリアスだったからだ。そうだ、精々しがみついておけ。これ以上の人なんて、もう絶対あらわれない。なのに、ヒューズは一呼吸置いて、馬鹿な戯言を付け加えた。

「んで、こいつが俺の生き甲斐」

勝手に人を生き甲斐にするな。生き甲斐なんて年寄り臭い言葉、退役してからロッキングチェアにでも座って口にしろ。迷惑だ迷惑だ迷惑だ。お前が一生傍にいるなら、私はどんなに心強いことでしょう。握られている指先が燻られるように熱くなった。

「贅沢ね」

グレイシアの声は優しいままで、指先の熱さが目頭へ飛び火した。何でこんな台詞で涙腺が弛むんだろう。贅沢なんてささやかな物じゃない。横暴だ傲慢だ強欲だ。でもお前が分をわきまえる真っ当な人間でなかったことは、私にとっての幸いである。

「足手纏いになって、ロイくんに捨てられなきゃいいけど…」

彼女の喉の奥を鳴らすような笑い声は不意に途切れた。ヒューズから“おまじない”の急襲を受けた彼女は、今度は優しくお返しをしてあげた。床に伸びたふたりの影を見ながら、私はさっさと二度寝することにした。ヒューズが、今夜のところはグレイシアに捨てられなかったことを安堵しながら。(私にどうかはさて置いて)






翌朝、私より寝こけているヒューズを叩き起こした。時間に追われ、挨拶もそこそこに揃って彼女の部屋を飛び出す。雨は上がり、澄み渡った空がどこまでも高い。石畳の坂はまだひんやりと濡れている。アパートの下から見上げると、二階の窓が開き、グレイシアが仔猫を抱いて見送ってくれた。

「すまないが、宜しく」

何を、とは言わなかったのに、彼女は空と同じ色の瞳を細めて笑った。

「大丈夫よ、任せて」

猫はまだ眠いのか、グレイシアの腕のなかで半目になっている。寝癖を直す間すらなかったヒューズは、軍靴の紐を結んだり、恋人に手を振ったりと落ち着かない。

「でも、そっちの大きい方はひとりじゃ無理よ」

思わず笑い、それから彼女に敬礼を送った。グレイシアは猫を抱いたまま、軽くふんわりと膝を折る。謁見する王女様みたいに優雅な会釈。「何だ、何ソレ、それどういう意味、グレイシア」。おろおろと騒ぐヒューズを後に、私は坂を下りはじめた。街路樹の下で振り返ると、釈然としない顔のまま私を追い掛けてくるヒューズと、その向こうに、まだ窓から見送ってくれているグレイシアが見えた。私はもう一度、軍帽の鍔を下げて目礼した。母国に守りたいと思える人がいるというのはいいものだ。大人しく私に守られてくれるような人ではないが。何度も振り向くかと思ったヒューズは、一度も振り返らなかった。前を向いたその目には、もう戦場で成すべきことだけが映っていた。









 グレイシアへ


 重大かつ至急のお願いがあります。君の写真を濁流に落としてしまったのです。ポケットなんかに入れてるお前がアホなんだ、大事なモンは前線に持って行くなと言われたけど、俺にとっちゃ十字架みたいなもんです。愛と勇気の元を失った迷える子羊のため、どうかまた写真を送ってやってください。できれば七種類ぐらいお願い。

 一週間ほど返事が空いてしまった。君に手紙を書けずにいるあいだ、いろんな事があって、いろんな事をした。俺はからっぽで、極めて人間らしく、自棄になり、簡単に忘れ去り、卑怯で、殴り飛ばされたり、ときどき褒められたり、変わらずロイと一緒にいて、君を愛している。不満が無いとは言わないけれど、自分がこの戦場にいることに大方満足している。

 ロイはよく「等価交換」って言うけど、俺はその理屈が好きじゃなかった。枠に押し込まれるみたいで面白く無いと思ってた。でもこいつはまだ、こんな不条理な前線で「等価交換」を信じてる。因果とか摂理とか世界とか、この世の根底を信じてる。あんまり一途だから俺なんかときどき泣けてきちゃう。こいつが錬金術を信じられなくなる前に、俺は戦争を終わらせる。一日でも一時間でも早く。

 君のおまじないが効力を失う前に、ロイを連れて帰ります。


                             マース・ヒューズ


 追伸 林檎の季節ですね。君の焼いたパイが食べたい。












(2005.10.05)