唐の太宗・李世民。中国歴史上で最もお気に入りの人物の一人である。
唐の第二代皇帝であるが、実質的には太宗が唐を建てたといっても過言ではない。
文武共に優れた人物であり、隋末の各地の群雄を討伐して唐の天下統一に導き、皇帝となった後は外は突厥を初めとする近隣諸部族を屈服させ、内では貞観の治と後生称えられる安定した時代をつくり、唐朝300年基礎を作り上げた。 
太宗は決して聖人皇帝ではない。兄弟を殺した玄武門の変は太宗の消すことの出来ない汚点である。また、後年群臣の反対を押し切って高句麗遠征を行い、失敗した上に各地で反乱が起きて、後悔している。彼が常に反面教師としていた隋の煬帝と紙一重のこともやっているのである。しかし、これらのことを加味しても太宗の治世は後世、輝きを失なわず、彼の功績の大きさは何ら変わらない。
太宗の資料を見れば見るほどとても惹かれるものを感じてしまった。
中国の歴史上、最も華やかな時代の一つを築いた太宗は後世、聖人化され、なかなか実像がわかりにくいところが多いが、自分なりに太宗の治世や人となりを紹介していきたい。




■李淵(唐高祖)の二男として
李世民は隋の開皇17年、当時、隋の名門貴族であった李淵と正室の竇氏の間に次子として生まれた。世民は8歳の頃、病弱であったらしく、父親の李淵が大海寺に治癒全快をいのり、また、9歳の時も病気平癒を祈ったことが碑文に残されている。しかし、幼少時より聡明であったようで太宗を旧唐書では
「太宗幼にして臨機果断、小節に拘らず時人よく測るなし」。 と記している。
幼いときから聡明で決断力に富み、小さなことに拘らない性格であったことがうかがわれる。
太宗の名前である世民については次のような逸話が残されている。
太宗が4歳の時、一人の書生が高祖に拝謁して太宗を評して
「龍鳳の姿、天日の表、成人されれば必ずやよく世を救い民を安んじられる ことでしょう」。高祖はこの言葉が漏れるのをおそれ、書生を追いかけて殺させようとしたが、姿をくらませて行方がしれなかった。そこで書生を神と思い、その言葉どおりに、之を世民と名付けた。(「新唐書・太宗本紀」 )



■武将としての名声を得る
李世民が名を知られるようになるのは突厥との戦いからである。大業11年(615年)、煬帝が北方を巡察中に突厥の大軍に襲われ、雁門で包囲されるという事件が起きた。突厥が襲来してきた理由はよくわからない。しかし、当時突厥は軍事力において非常に強大な帝国を築き上げており、隋は建国以来、それに脅威を感じ、内部分裂による勢力の削減を計ったようである。しかし、このことで恨みを持った突厥の始畢可汗が巡行中の煬帝を襲ったというのがどうやら真相のようだ。
包囲され進退窮まった煬帝は各地に参軍を呼びかけた。この呼びかけに応じた軍の中に太宗がいた。当時16歳であった。太宗は形勢を見て将軍の雲定興に旗鼓による偽兵の策を献策した。すなわち
「突厥にせよ何にせよ遊牧民族は騎馬による急襲の戦術は得意としているが、包囲などして持久戦を行うのは得意としない。それが包囲したというのは隋の側に有効な援軍がいないことを知っているからだ。それ故、少数の援軍を使い、旗をわざと見せびらかしたり、鼓を盛んに打ちならすなどして大軍が援軍に着たと思わせれば必ず突厥は引き上げるだろう」。
雲定興はこの策を採用した。はたして突厥は隋の大軍が各地から来援してきたような錯覚にとらわれ、長期にわたり対陣するのを嫌い、引き上げた。

また、次のようなエピソードも「新唐書」に納められている。
 「高祖撃歴山飛、陥其圍中、太宗馳軽騎取之而出、遂奮撃、大破之。」
高祖が隋末混乱する中で歴山飛と称する賊を討伐にでたが逆に包囲されてしまった。太宗はわずかな騎兵で攻撃して父李淵を救い出しついには大破するする事ができた。

以上のように十代の太宗のエピソードは軍事的な才能を示すものばかりである。後に唐の軍事的成功を一手に収め、その名声をほしいままにする片鱗がここに現れている。
太宗はどうやら騎兵の扱いが特に長けていたようである。父の李淵が太源留守という地位につき、対突厥の最前線にいたため、突厥の騎兵戦術に触れる事が多かったためだろう。当時の騎兵は乗り手も馬も甲冑で固だめたいわゆる重装騎兵であった。しかし太宗は馬の本来もつ機動力を最大限に発揮できる軽騎兵戦術を多く用いて敵を打ち破っている。のちに太宗は部下を派遣して強大な遊牧帝国である突厥を騎兵戦で破った。これは中国史上特筆することである。

■お断り(言い訳)
…このページをつくり始めたのは2001年春。それ以来、全然進んでいない(苦笑)。2004年3月に久しぶりに多少更新した。といってもホームページビルダーでつくっていたページをGoLibeで作り変えただけだが。これから先いつ更新できるかなぁ。