■武将としての名声を得る |
李世民が名を知られるようになるのは突厥との戦いからである。大業11年(615年)、煬帝が北方を巡察中に突厥の大軍に襲われ、雁門で包囲されるという事件が起きた。突厥が襲来してきた理由はよくわからない。しかし、当時突厥は軍事力において非常に強大な帝国を築き上げており、隋は建国以来、それに脅威を感じ、内部分裂による勢力の削減を計ったようである。しかし、このことで恨みを持った突厥の始畢可汗が巡行中の煬帝を襲ったというのがどうやら真相のようだ。
包囲され進退窮まった煬帝は各地に参軍を呼びかけた。この呼びかけに応じた軍の中に太宗がいた。当時16歳であった。太宗は形勢を見て将軍の雲定興に旗鼓による偽兵の策を献策した。すなわち
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「突厥にせよ何にせよ遊牧民族は騎馬による急襲の戦術は得意としているが、包囲などして持久戦を行うのは得意としない。それが包囲したというのは隋の側に有効な援軍がいないことを知っているからだ。それ故、少数の援軍を使い、旗をわざと見せびらかしたり、鼓を盛んに打ちならすなどして大軍が援軍に着たと思わせれば必ず突厥は引き上げるだろう」。 |
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雲定興はこの策を採用した。はたして突厥は隋の大軍が各地から来援してきたような錯覚にとらわれ、長期にわたり対陣するのを嫌い、引き上げた。
また、次のようなエピソードも「新唐書」に納められている。
「高祖撃歴山飛、陥其圍中、太宗馳軽騎取之而出、遂奮撃、大破之。」
高祖が隋末混乱する中で歴山飛と称する賊を討伐にでたが逆に包囲されてしまった。太宗はわずかな騎兵で攻撃して父李淵を救い出しついには大破するする事ができた。
以上のように十代の太宗のエピソードは軍事的な才能を示すものばかりである。後に唐の軍事的成功を一手に収め、その名声をほしいままにする片鱗がここに現れている。
太宗はどうやら騎兵の扱いが特に長けていたようである。父の李淵が太源留守という地位につき、対突厥の最前線にいたため、突厥の騎兵戦術に触れる事が多かったためだろう。当時の騎兵は乗り手も馬も甲冑で固だめたいわゆる重装騎兵であった。しかし太宗は馬の本来もつ機動力を最大限に発揮できる軽騎兵戦術を多く用いて敵を打ち破っている。のちに太宗は部下を派遣して強大な遊牧帝国である突厥を騎兵戦で破った。これは中国史上特筆することである。
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