あなたがたの生は義務とやるべき仕事の連続だろうか? それとも祭りだろうか?
生が仕事であるとき、あるいはひとつの義務であるとき、
それは重荷となり、足かせとなり、私たちは沈んだ気持ちでそれをすることになる。
クリシュナは生を仕事や義務とはとらえない。彼はそれを祭り、祝祭としてとらえる。
生は実際大きな祝宴であり、至福に満ちた祭りだ。
それは宿題でもなければ、やるべき仕事でもない。
ある人が生を祭りととらえたとしても、働くことをやめることにはならない。
その人は無論働くだろう。だが、その仕事は祝祭の一部となり、祭りの性質を帯びるようになる。
その仕事からは歌や踊りが起こる。
たしかに働き過ぎはなくなるだろう。
仕事量は減るだろう。
だが仕事の質ははるかに勝る。
あなたがたも気づいているに違いない。
仕事漬けの人々がどのようにしてあらゆる物事を仕事に変え、生を緊張の連続に変えてしまうかを。
人生のあらゆる苦悩は仕事の虫たちの仕業だ。
彼らのモットーは「やるか、やられるか」だ。
彼らは言う、「生きている限り何かをやり続けろ。何もできなくなった時は死だ」と。
仕事以外にはいかなる生のヴィジョンもない。
しかも仕事に対する正しい見方さえも知らない。
何のために働くのか?
なぜ人間は働くのか?
人が働くのは生きるためだ。では、生きるとは何を意味するのだろう?
それは生を祝うことを意味する。
私たちは生に踊りの瞬間を持ち込むために働くのだ。
実のところ、仕事は生を祝うための一手段にすぎない。
OSHO(本文より)
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