(2024年1月14日作成)
2023年12月に開催された、中部大学創発学術院主催の「第38回JST数学キャラバン」というイベントに登壇した際に、「数学者への質問」と銘打って参加者から集められた質問に対する回答を寄稿しました。 折角なので(主催者からの了承を得て)その質問と私の回答をここにも掲載します。 なお、数学キャラバンは主に高校生を対象としたイベントのため、ここでの回答も高校生相手という想定で考えたものです。
(2023年10月4日作成)
例えば、ある人と知り合って、その人との接点が多くなるにつれて、ある食べ物や娯楽作品や人物などのことをその人が好むかどうかを、本人から直接知らされたことがなくても何となく推測できるようになってくると思います。 同様に、その人から直接聞いたことのない言葉であっても、その人がその言葉を発している声をありありと想像できるようになったりもすると思います。 そして、その人に対する理解が深まれば深まるほど、自身の中に形成されるその人の「像」が明確になり、それに伴って「推測」や「想像」の精度が高くなっていくことでしょう。
数学の「理解」もこれに似ていると私は感じています。
(雑に言えば)形式的な体系としての数学は定義と定理と証明から成り立っていますが、多くの数学者は(少なくとも私自身は)数学を「定義と定理と証明のリスト」として理解しているわけではない*1というのが私の認識です。
ある数学的命題が正しい(正しそう)かを判断するとき、数学者は(「知識として知っていた」場合を除いて)まず自己の内面に結ばれている数学の「像」が「この命題に対してどう振る舞うか」を観測している*2のだと思います。
この「像」の挙動が実際の数学の挙動とどれだけ一致するかが数学の理解度の現れである、ということになります。
なお、この数学の「像」の見た目は人それぞれのはずです。
かのラマヌジャンの「女神様」の逸話や、より近代では加藤和也氏の「鶴の恩返し」の逸話はその顕著な例と思います*3。
そこまで独特でないにしても、数学の理解のあり方が人それぞれであることによって、数学の研究に個性が発生し、また異なる個性をもつ数学者の共同研究によって相乗効果が生じてさらに独創性の高い研究が生まれることになるのだと思います。
自己の内面にある数学の「像」をより明確にするには、実際の数学で起きている現象をよく観察することが重要です。
よく「(理工系の多くの分野と異なり)数学には実験がない」などと言われますが、実際には、いわゆる「手を動かす」と表現されるような、定義を自分の言葉で書き下してみる、定義や定理の簡単な例を作ってみる、定理の証明の省略された細部を自分で埋めてみる、定理の証明を自力で再構成してみる、定理のどの仮定が証明のどこに寄与しているかを分析して、その仮定を省くと真偽がどう変わるのかを調べてみる、といった種々の営みがすべて、数学の世界で起きる現象を観測する「実験」の役目を果たしているのだと私は理解しています。
数学を習得する上では、このような「実験」を通じて数学の世界をよく観察し、自身の内面に数学的な直観を育む姿勢が重要と思います。
(余談ですが、大学院入試のような試験問題(あるいは講義のレポート課題)に対しても、できれば「問題で与えられた状況をよく(手を動かして)観察することで状況の理解を育み、その理解に従って解答を導き出す」という「数学」の方法論で取り組んでもらいたいと思います。
実際には、特に入試のような時間制限のある場面だと中々そうも言っていられないのでしょうが…。)
なお、これまで数学の直観的な理解の重要性を説いてきましたが、直観が必ずしも伴わない形式的な数学ももちろん重要なものです。
数学における「正しさ」を他者と共有する手段としての「証明」の重要性は改めて言うまでもないでしょうが、それだけではありません。
上記のような数学の直観的な理解に至るまでの段階では、直観が必ずしも伴わない形式的な手順(「全体としてどのような方針でその証明が得られるのかはよくわからないが、とりあえず与えられた証明の各ステップが正しいことを確認する」など)によって、数学の世界で起きている現象を正しく知ることが必要となります。
直観的な理解のみに頼るようになってしまうと、自身の直観がまだ及ばない数学の領域を探検して(自身にとって)新しい現象を知ることができずに、結局は自身の数学的な直観をそれ以上研ぎ澄ますこともできなくなるでしょう。
数学の習得においては、直観的な理解と非直観的、形式的な手順のどちらも軽視することなく、バランスの良い上達の仕方を意識するのが望ましいと考えます。
(*1) もし数学者が「定義と定理と証明のリスト」としてしか数学を理解していないのであれば、ある命題を数学者が「見た瞬間に自明と感じる」(実際に懇切丁寧に証明すると数十ステップはかかるような命題であっても)という現象や、「証明のある部分に選択公理が用いられていることに気付かない」(つまり、推論に用いた公理や推論規則を明確に認識していない)という現象の説明が付かないと考えています。
(*2) この数学の「像」の観測は実際には無意識に行われていると想像しています。 なお、漫画家の方々はしばしば「自分の創作したキャラクターが勝手に動き出す」といった現象を語ることがありますが、数学において「自己の内面の「数学」が勝手に動き出す」境地に達すると素晴らしい定理を生み出せるようになるのかもしれません(私は中々その境地には至れませんが)。
(*3) ラマヌジャンご本人に聞かれたら「内面の存在ではなく本物の女神様に教えてもらったんだ」と怒られそうですが…。 あと、ラマヌジャンは既に「歴史上の人物」という印象なので敬称を省くのがしっくりきますが、加藤和也氏は直接お会いした(正確には、学生時代に氏の講義を受けた)ことがあることもあって敬称を完全に省くのはちょっとやりにくいです。
(2024年7月31日作成)