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中山道六十九次
日本橋〜巣鴨

2007年2月24日


1.巣鴨

巣鴨駅巣鴨周辺の地図前回(2月3日)より1ヶ月もたたないうちに2回目の中山道です。前回の終着地、巣鴨駅を8:04に出発。国道17号からすぐに分かれて、「おばあちゃんの原宿」として名高い巣鴨地蔵通り商店街へと入っていきます。

巣鴨地蔵通り商店街を入ってすぐには真性寺、入口や奥にには紅白の梅の花が満開でした。

真性寺の梅の花六地蔵真性寺の梅の花

真性寺は江戸六地蔵の1つに数えられ、大きなお地蔵様が鎮座しています。江戸六地蔵は、江戸時代に街道と旅人の安全を祈願して建立されたもので、江戸の主要街道の出発点近くにあります。AkioとMihoの住む江東区には深川に2つあります(現存する1つは知ってましたがもう1つは調べるまで知りませんでした)。

江戸六地蔵
街道 場所
東海道 品川区/品川・品川寺(ほんせんじ)
中山道 豊島区/巣鴨・真性寺
奥州街道 台東区/根岸・東禅寺
水戸街道 江東区/白川・霊巌寺
甲州街道 新宿区/新宿・太宗寺
千葉街道 江東区/富岡・永代寺(廃寺)

とげぬき地蔵の洗い観音「おばあちゃんの原宿」こと地蔵通り商店街もこの時間ではまだまだ店も開いておらず、人通りも少なかったです。閑散とした商店街をちょっと歩くと、シンボルである高岩寺の「とげぬき地蔵」に着きます。門前の屋台を開く作業で慌しい中、バックパックを背負った若者、おじいさん、おばさんなどがお参りに来ていました。私たちもこの中山道の旅の安全を祈願して、洗い観音では悪いところ(頭、顔、…)を磨いてきました。

とげぬき地蔵を後にして、すぐの所にある定食屋「ときわ食堂」で8:30〜9:00まで朝食。Akioはカツカレー、Mihoはオムライスをたいらげてポンポコしていました。それにしても前回もそうでしたが、私たちの旅は、歩き始めるまでに時間がかかります…。

2.庚申塚、板橋

巣鴨地蔵通りを7分ほど歩くともう出口、都電荒川線の庚申塚駅。名前のとおり、ここには「猿田彦大神庚申堂」があり、中には庚申塚があるそうです。都電荒川線の踏切を越え、庚申塚商店街を歩き、明治通りを越えると今度は滝野川銀座商店街を進みます。出口のあたり、板橋駅の手前に新撰組の局長だった近藤勇の墓があるそうです(行きませんでした)。

ここより板橋宿9:25にJR埼京線の板橋駅前を通過、ここから板橋宿に入ります。日本橋より二里二十町九間(10.052km)の距離にあり、一里塚があったという平尾宿、仲宿、上宿の3つをあわせて板橋宿と呼んだのだそうです。なお、江戸に近いので宿泊というよりは歓楽街といったところだったそうですが、今はそんな面影はなく普通の商店街です。

板橋板橋駅から約30分ほど歩くと、宿場の名前の由来となった「板橋」があります。こちらは日本橋より二里二十五町三十三間(10.642km)の地点。石神井川にかかる橋で、これを渡ると「上宿」板橋本町に入ります。



縁切り榎さらにちょっと行くと、「縁切り榎」と呼ばれる榎の木があります。江戸時代は、ここの大榎の下を通ると「不縁」になると言われていたそうで、皇女和宮が降嫁されたときは縁起が悪いと「菰」をかぶせられたのだそうで…。現在の榎は当然ながら当時のものではありませんが、Mihoは悪縁が切れるのを恐れて近寄りませんでした(笑)。

環状七号の立体交差をくぐると、もう板橋宿も終わり。交差点にあったベローチェで一休みしました(10:00〜10:25)。

板橋宿はひたすら道なりに歩くだけなので地図はまったくいりませんでした。

3.志村

板橋泉町交差点10:35、泉町交差点で国道17号線に合流します。国道17号線の上を首都高5号線がずっと走っていましたが、ここで首都高は大きく左に曲がっていきます。中山道は国道17号線と重なり、都営三田線本蓮沼駅を過ぎ、さらに道なり歩いていきます。

しばらく歩くと、10:50頃、志村の一里塚が見えてきます。中山道でも現存する一里塚は数が少ない(2つ?)そうで、そんな一里塚が東京の主要国道沿いに、しかも道の両側に残っているのは大変驚きです。

この志村の一里塚に着いたとき、観光バスで来たツアー一行(お年寄りがほとんど)が一里塚を見物していました。一里塚を見るツアーってなんだろうねと言いつつ、一里塚の周りをぐるりんと回り、志村坂上交差点へと進みました。

志村一里塚志村一里塚

清水坂碑清水坂周辺の地図志村坂上交差点から国道17号線をそれて、細い道に入っていきます。清水坂という丘の斜面をまくような急坂を下りていきました。このあたりは、右富士の見えたところだそうです。中山道は北上する道なので、西にある富士山は本来左手に見えるはずですが、ここだけは丘を巻いているため、右手に富士山が見えたことから「右富士」ということです。東海道には、富士市に「左富士」という唯一左手に富士山が見える場所がありますが、中山道の右富士は江戸に近いので、どちらかというとこちらの方がメジャーだったかもしれません。

下りきった清水坂碑のところから、中山道は大きく曲がり、都営三田線が地上に出てきたガードをくぐって少し登ると再び国道17号線。志村三丁目の環状八号との交差点を歩道橋で越えます。旧道はあるそうですが、環状八号にさえぎられて渡れないのと、道がよくわからなかったので無視し、志村三丁目交差点から環状八号をちょっとだけ歩き、酒屋の角を再び曲がって旧道に戻ります。旧道をしばらく歩くと、11:11に日本チョコレート工業協同組合の工場の前を通過しました。ここで作られた原料チョコレートが「メリーチョコレート」、「モロゾフ」、「ヨックモック」などのお菓子メーカーに卸されてチョコレート菓子に加工されるのだそうです。

Mihoは「チョコレート売ってないかな、落ちてないかな」と目の色を変えていましたが、残念ながら収穫なしでした。普段は組合員の企業しか買えませんが、毎年10月から数量限定で一般人もデラックスミルクチョコレートを買えるんだそうで…。

日本チョコレート工業組合を過ぎ、しばらくすると再び国道17号線に合流します。

4.荒川

志村橋〜荒川河川敷の地図舟渡の板碑再び国道17号線に合流し、蓮根川緑道を過ぎて、11:25に新河岸川にかかる志村橋を渡ります。対岸のパチンコ屋を回り込むように進むと、ちょうど裏手のあたりに「舟渡の板碑」があります。

この「舟渡の板碑」は、供養のためにあったものだそうで、板橋区教育委員会が設置した説明板によると、

「板碑とは、鎌倉・室町時代に親の供養や自分の後生供養などを目的として造られた、石製の卒塔婆です。武蔵地方(東京・埼玉)では荒川上流で採れる緑泥片岩(秩父青石)を使い、最上部を山形に整形し、表面には仏を表す梵字や仏の画像、造立の願文、願主名、年号などを刻みます。」

古いもの(年号が読み取れたもの)で文明九年(1477)のものがあるそうです。最近までは子供のはしかの平癒に効くと信じられていたそうです。

さらにしばらく進むと、東北・上越新幹線と埼京線の高架が見えてきます。高架下をくぐると荒川の土手を登って国道17号の戸田橋を渡ります。昔は荒川の戸田の渡しは舟だったそうですが、東京都側には何も残っていません。


11:40に戸田橋を渡り始め、ぽてぽてと河川敷でサッカーをしている子供達(親の方が多かったかも…)や荒川の川面、通り過ぎていく新幹線を見ながら歩き(約7分)、埼玉県に突入しました。

戸田橋(東京側)埼玉県突入

戸田橋を渡り終え、土手沿いに下るとは戸田の渡しの跡があります。私たちは階段を下りてしまったので碑の裏に出てしまって見られませんでしたが、車道に沿って下りてくるとちゃんと見えるようです。

水神社舟での渡しの祈願のためか、それとも荒れる荒川を鎮めるためか、近くには水神社があります。

戸田公園駅水神社を過ぎ、運河を渡って11:57にさつき通り商店街に入り、国道に戻って川岸三丁目交差点で本日の旅路は実質的に終了。あとはオリンピック通りを歩いて、JR埼京線の戸田公園駅に向かい、12:15にGoalとしました。



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