Interlude 2
勇者の困惑


 覚醒したフィンが最初に感じたのは、マシンの冷却装置が立てる微かなモーター音だった。
 次いで、病室を思わせる清潔過ぎる空気の匂いと、快適な気温、それから沈み込むように横たわった身体を支えるゲル素材の感触。
 重い瞼を持ち上げると、丸眼鏡を掛けた亜麻色の髪の青年が真上からフィンの顔を覗き込んでいた。
 「素潜りご苦労さん」
 弾むような語尾でかけられた労いの言葉に、人工的な照明に慣れない目を瞬かせつつフィンは疑問を呈する。
 「…なんでジェスさんが知ってるんです?」
 「そりゃ、ログ見てるもん」
 レイの旧友で、今回の件でフィン達4人のサポートを任されている某シンクタンクの技師でもあるジェスは、「そのくらい役得でしょ」とにんまりと微笑んでみせた。
 「で、どうよ、溺れかけた感想は」
 おそらく悪気はないのだろうが、どこか面白がっている風のジェスにフィンは深々と溜め息を吐く。
 「マジで死ぬかと思いました。ったく、何だってよりによって感覚変換タイプのマシン使ってる時にこんな目に遭うかなぁ」
 軽い眩暈と頭痛を感じるのは、仮想現実に馴染んでいた感覚が戻りきらない所為ばかりではないだろう。
 疲労感の滲む調子でぼやくフィンに、ジェスは容赦なく釘を刺して遣す。
 「レイに内緒で全感覚変換のインターフェイスを使いたいって言ったのはキミだからね」
 「解ってます」
 フィンは、小さく肩を竦めると、両手をホールドアップして降参の意を示した。
 そんなフィンの態度にくすりと笑みを零して、ジェスはつい今し方までフィンが使っていたマシンの撤収作業に入る。
 未だにぎこちなさの残る指を閉じたり開いたりしながらフィンがぼんやりと見るとも無しにその様子を眺めていると、ジェスがふと思いついたといった感じでこんな呟きを漏らした。
 「それにしても、勇気があるよなぁ、フィンは」
 マシンに向かったままのジェスの表情も真意もフィンには窺う事が出来ないけれど、ジェスの方はその辺りには頓着していないらしい。
 手際良くキーを叩くついでに、無駄口も叩き続ける。
 「レイの目の前でナナちゃん口説くんだから」
 「ナナって、ミトラの事ですよね?」
 フィンがミトラの本名を知ったのは、『テイル・ナーグ』を始める前にゲーム内で使うハンドルネームに関して一悶着あった所為だ。
 招待状に名指しされたアルとレイは別の名前を使うわけにはいかないし、フィン自身はそもそも普段から自分の名前を使っている。
 『テイル・ナーグ』に挑む4人の中で、唯一ミトラだけが本名とは縁も所縁もないハンドルネームを名乗っていた。
 何らかの事情で緊急事態に陥った場合、咄嗟に反応できるのはやはり本当の名前の方だ。
 しかし、相手の出方が解らない状況で個人情報を用いる事への不安はある。
 結局、C.S.S.の隊員ではない一般人である事に加えて、フィンがミトラの名に慣れていた事、本人も使い慣れた名だから問題ないと主張した事などから、「電脳の賢者」として知られたミトラの名を使う事で意見の一致を見て現在に至っている。
 ひょんな事から知る事になった片恋相手の本名に未だに慣れないのか、躊躇いがちに訊ねるフィンを肩越しに振り返って、ジェスはあっさりと頷いた。
 「そ。「電脳の賢者」にして「機械誑し」レイの最愛の妹のナナちゃん」
 にこにこと微笑むジェスときょとんとした表情で首を傾げたフィンが見つめ合う事しばし。
 耳から入った言葉を漸く理解したフィンは、零れんばかりに目を瞠って驚愕の声を上げた。
 「…えぇっ!?」
 「なんだ、知らなかったの?」
 本人だけでも手強そうなのに、その上あのレイが溺愛してる妹に手を出すなんて、どんな勇者なのかと思ってたのに。
 くすくすと笑いながら告げられたジェスの言葉は、フィンの耳には全く届いていなかった。
 「だって、え、えぇ〜!?」
 両手で頭を抱えて意味を成さない声を発し続けているフィンを尻目に、ジェスは何事もなかったかのように撤収作業を再開する。
 一通り配線をチェックし、電極やヘッドギアを収納し、モニターでフィンの健康状態まで確認し終えたジェスは、元通りに片づいた室内を眺めて満足そうに頷いた。
 それから、部屋を立ち去りがてら、未だ混乱の極みにあるフィンにこう声を掛ける。
 「ま、健闘を祈るよ」
 ひらひらと手を振る彼の後姿がドアの向こうに消えた後には、茫然自失の態のフィンだけが取り残された。


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