Interlude 1
英雄の憂鬱
時計の針が日付変更線を越える事2時間余り、アルは漸くその日の仕事から解放された。
一日中装着し続けていたヘッドギアを外すと、凝り固まった身体を解す為に椅子の上で大きく伸びをする。
と、その頭上からからかうような声が投げ掛けられた。
「調子はどうだい、英雄殿?」
首を反らした姿勢のまま見上げるアルの視界に、亜麻色の髪をした青年の顔が逆さまに映し出される。
この数日で見慣れたその顔の主は、今回の任務でアル達が世話になっている某シンクタンクのエンジニアだった。
アルと大して変わらない年の筈だが、縁無しの丸眼鏡越しの若苗色の眸にはやんちゃな少年の煌めきが宿っている。
「マシンの調子は上々だけどな」
アルは、小さく溜め息を吐くと辟易した様子で苦情を申し立てた。
「ジェスっつったっけ?その「英雄」てのは何とかなんないワケ?」
此処の連中ときたら、人の顔を見る度に英雄呼ばわりしやがって…とぶつぶつごちるアルにジェスと呼ばれた青年はしれっとこう応じる。
「しょうがないね。『cubic World』のアルって言ったらウチじゃ憧憬と羨望の的だ。ついでに一部の連中からは猛烈に嫉妬されてもいるね。何せあの「機械誑し」のレイを誑し込んでウチから奪い去った張本人なんだから」
「…何か凄ぇ語弊が有る気がする…」
胡乱な眼差しのアルに恨めしげに睨まれても、ジェスは全く臆する様子はなかった。
アルから見れば胡散臭いことこの上ない愛想の良さで、自慢の友人について語り始める。
「レイはウチの研究所きっての逸材で電脳の寵児だ。変わり者の多い電脳系にしちゃ一見人当たりが良いから気づかないヤツも多いけど、本質的には人に懐かない異端児だったんだよ」
まぁ、その辺は子供の頃から研究の為に施設に入り浸ってた所為もあるだろうけど。
おそらく自身も似たような経歴の持ち主であろうジェスは、それなりに深刻な過去をさらりと流してとんでもない事実を口にした。
「とにかく、一時はブレインメンバーの後継者にって話も出てたくらいでね。おかげで、今でもレイはココのトップのお気に入りだ。じゃなきゃ幾らC.S.S.が警察組織だってウチがすんなり協力するなんて考えられないよ」
「そりゃ、これだけいろいろヤバイもんが有っちゃ、警察なんかとはお近づきにはなりたくないだろうけどなぁ」
アルは、つい今しがたまで自身が使用していたマシンに目を向ける。
レイが古巣であるこのシンクタンクに協力を仰いだ理由のひとつが、アルの言うところの「ヤバイもの」だった。
『テイル・ナーグ』を作ったのが『cubic World』のシステムを作ったのと同じ人間なら、ゲームの参加者が狂ったAIにネットワークを通じて攻撃を受ける可能性も皆無ではない。
そういった事態を防ぐ為に、レイは友人であるジェスの協力を得て全員に安全な接続環境と特殊なマシンを用意したのだ。
「IPアドレスを偽装して追跡を撹乱するだけだって合法ぎりぎりの手だってのに、接続の痕跡を完全に消しちまえるなんざ有り得ないだろ。その上ちょっとでも侵入を試みようもんならえげつないファイアーウォールで容赦なく撃退した挙句、相手サーバにまで侵入して徹底的に反撃するときてる。こんな技術がヤバイ連中の手に渡ったらエライ面倒な事になるだろーよ」
「過激派集団とかテロ組織とか、何処かの国の情報部とか?」
「…情報を制する者は世界を制するって?」
さりげなく国家権力まで危険視するような発言をしてのけるジェスに、アルは探るような視線を向ける。
そこに込められた懸念と非難をものともせずに、ジェスはあっさりと頷いた。
「そ。だから、ウチは何処の権力にも属さずに独立を貫いてるってワケ」
この研究所の創設者は聡明で偉大な電脳オタクだった。
一点集中の天才型で社会性に難の有るタイプが多い技術屋の特性を理解した上で、彼等を庇護し、電脳技術の発展に寄与するだけでなく、彼等の才能が悪用されるのを防ぐ手立てを講じる為にシンクタンクを立ち上げた。
相棒のレイがそんな組織のブレイン候補と目されていたと言われても、アルにはいまいち実感が湧かない。
だから、アルは自分に理解できる範囲で感想を述べるに留まった。
「まぁ、ココがとんでもないトコだってのはこいつを使ってるだけでも解るけどな」
溜め息混じりにそう言って、アルは外したばかりのヘッドギアとサイバーグローブを手に取る。
「一日中ぶっ通しで使ってても脳にかかる負荷も肉体的な疲労も最小限に抑えられてるし、反応速度も申し分ないどころか、日を追う毎に使い易くなってる。こいつ、インターフェイスに学習機能積んでるだろ?」
「あ、やっぱり解る?」
ジェスは、途端に子供のように瞳を輝かせた。
「入力と出力のタイムラグだの演算スピードだのが日々改善されてるのは解るとして、時々こっちの反応を先読みしてんじゃないかって気がするんだけど?」
「そう、蓄積した情報からユーザーの癖を把握した上で、脳や身体の反応から思考の流れを推測して次の行動を予測する最新式のシステムなんだ。まだ試作段階だけど、結構使えるもんだろ?ちなみにハードは俺の担当だけど、ソフトの開発にはレイも携わってる」
嬉々として自作のマシンについて解説するジェスは無邪気な電脳少年そのもので、到底際どい発言を繰り出す危険分子には見えない。
自身もプログラミングを趣味と特技と職業にしているアルは、己と同類のジェスに共感を覚える自分に内心苦笑を漏らす。
そんな彼の心の隙を突くように、ジェスは唐突に話題を戻した。
「そんな訳で、ウチの大事なお宝を攫ってった英雄殿には責任を取ってもらわないとね」
如何にも何か企んでます、といった悪戯っ子の顔でアルの目を覗き込んで、こんな事を告げる。
「レイを頼むよ」
意外なほどに真摯な言葉とは裏腹にどこまでもにこやかで謎めいた笑みを浮かべてみせるジェスの真意を、アルは測り損ねた。