「さぁ、出来たわ」
 ピーターパンとティンカーベルに扮した幼い兄妹を見下ろして、彼女は満足げにそう頷いた。
 それから、膝を折って子供達に目線を合わせると、今晩何度目かになる忠告を口にする。
 「良い?カボチャのランタンが出てないお家にはお邪魔しちゃダメよ?お友達とはぐれたり、人気のない通りに近づいたりしないようにね。特に、町外れの古い桜の木の丘には絶対に近づかない事!」
 「どうして丘に行っちゃいけないの?」
 好奇心が旺盛で何にでも疑問を抱く年頃の息子の問いかけに、彼女はわざと怖い顔を作ってみせた。
 「あそこは妖精の丘なの。ちっちゃい子がうっかり迷い込んだりしたら、悪い妖精に捕まってお家に帰って来れなくなっちゃうかも」
 途端にふぇ、と泣き出しそうになる甘えん坊な娘には、優しい母親の顔でウインクを1つ。
 「大丈夫。案内役のお兄ちゃんやお姉ちゃんについていけば迷子になんてならないわ」
 「うん」
 「それじゃ、行って来ます!」
 機嫌を直した幼い妹の手を引いて駆けて行く息子の後姿を見送りながら、僕はちょっぴり懐かしい気分に浸っていた。



    古い桜の木の丘に



 あれは、僕が7歳の時の事だった。
 その年のハロウィーンは丁度満月と重なってて、月明かりに浮かれた僕は、気がつくと随分遅い時間まで1人で歩き回っていた。
 当然、友達はみんなとっくに家に帰ってしまっていて、心細くなった僕も遅まきながら帰宅の途に就いた。
 町から家に帰るには、古い桜の木が植えられた丘を越えるのが近道だ。
 でも、いつもは遠回りでも、街灯の多い住宅街を通るようにしていた。
 丘を抜ける道は暗いし、おばあちゃんから「あそこは妖精の丘だから夜は近づいちゃいけないよ」って言われてたからだ。
 だけど、その時の僕は、早く家に帰りたい気持ちで一杯だった。
 だから、躊躇う気持ちもあったけど、丘を越える道を選んだんだ。
 月の光だけを頼りにとぼとぼと小道を歩いていくと、丘の上に大きなお屋敷が見えて来た。
 こんなところに誰か住んでたっけ?
 そう不思議に思わないでもなかったけど、取り合えずせっかくだからお菓子をねだりに寄ってみる事にした。
 この辺り、子供って怖いもの知らずだよね。
 「Trick or Treat!」
 玄関に立ってお決まりの声を掛けると、中から若い女の人が出て来る。
 その瞬間、僕は魔法に掛けられた。
 ふわふわした淡い色の髪に鏤められた薄紅色の無数の小花、眸の色は若葉の翠で、透けるように白い肌からは仄かに甘い匂い。
 お伽噺に出て来る妖精そのまんまのイメージの彼女に、僕は一目で恋に落ちたんだ。
 彼女は、僕を見ると「あら」と呟いた。
 軽く目を瞠って立ち尽くす彼女の背後から、今夜の招待客らしき面々が顔を出す。
 猫耳猫目の少女に、背中に鷲の翼を生やした男の子、髭面の小人もいれば、鋭い牙の狼男も、本物の兎耳つきのバニーガールもいる。
 随分と本格的な仮装だなぁなんて子供心に感心して見蕩れていると、そのうちの1人がこんな事を言い出した。
 「おやまぁ、人間の子供じゃないか」
 きょとんとする僕を、彼等は物珍しそうに眺め回す。
 「ほんとだ」
 「何だ?こっちに迷い込んじまったのか?」
 僕が困ってるのを見兼ねたんだろう、最初の彼女は僕の前で膝を折ると、真っ直ぐ僕の目を見てこう切り出した。
 「良い?此処では、あなたの所とはいろいろ流儀が違うの」
 「りゅーぎ?」
 首を傾げて鸚鵡返しにすると、見かけによらず気の良い狼男が解り易く言い直してくれる。
 「約束事ってコト」
 「あたしらのトコじゃ、ハロウィーンの挨拶は「Trick or Treat!」(ご馳走くれなきゃ悪戯するぞ!)じゃなくって「Trick or Treat?」(ご馳走と悪戯、どっちが良い?)なのさ」
 はすっぱなバニーガールの言葉を引き取って、彼女はこう続けた。
 「だから、最初の質問は家の主からするの。「Treat」って応えれば、ご馳走でもてなして貰えるわ」
 「…「Trick」って応えたら?」
 怖いもの見たさも手伝って、僕はおずおずとそう訊いてみる。
 すると、彼女はほっそりとした眉を僅かに顰めて怖い顔をしてみせた。
 「そうね。相手によるけど、それなりの覚悟は必要ね」
 「悪い魔法使いに捕まって帰れなくなったり」
 「獣に化かされたり」
 「自分がご馳走にされちゃったりしてな〜」
 他の面々からも口々に脅されて不安で一杯になってしまった僕は、上目遣いで縋るように彼女を見上げる。
 「僕、食べられちゃうの?」
 悪乗りした友人達をめっと視線で叱って、彼女は半泣きの僕に向き直ると優しく微笑んだ。
 「大丈夫よ。ちゃんとルールを守れば、そんなに怖がる事はないわ」
 「ルール?」
 「ノックは3回。10数えても返事がなかったら、その家は留守か子供の相手をする気がないかどちらかだからしつこくしない事。良いわね?」
 「うん」
 ぐすんと鼻をすすり上げて頷いた僕の頭を撫でて、彼女は悪戯っぽく片目を瞑ってこう口を開く。
 「それじゃ、改めて。「Trick or Treat?」」
 「Treat!」
 それが、忘れられない魔法の夜の始まりだった。
 

◆ ◇ ◆


 夜が明ける頃、僕はたくさんのお土産を抱えて、丘の上のお屋敷を後にした。
 彼女が用意してくれたご馳走は凄く美味しかったし、ちょっと変わった仲間達とも友達になれてご機嫌だった僕は、小走りで家に帰りつくと、意気揚々と玄関の扉を開いた。
 「ただいま!」
 ところが、僕を待っていたのは真っ赤な目をした母さんの本気の怒り顔だった。
 「何処行ってたの!?」
 開口一番そう怒鳴りつけるなり思いっきり僕を抱き締めた母さんの後ろから、こちらも目の下に隈を作った父さんが疲れた様子で声を掛けてくる。
 「何時まで経っても帰って来ないから、みんな心配してたんだぞ」
 それだけで2人がどれだけ僕の事を心配してくれてたかが伝わって来て、僕は正直に昨夜の体験を話そうとした。
 「ごめんなさい。丘の上のお屋敷でご馳走になってたら、遅くなっちゃって…」
 それなのに、母さんは僕の言う事を全然信じてくれなかった。
 「何言ってるの!あの丘にお屋敷なんてないでしょう?」
 「え、でも…」
 頭ごなしに叱る母さんと戸惑いながらも反論しかけた僕と、両方を宥めるように父さんが口を挿む。
 「まぁまぁ、良いじゃないか。こうして無事に戻って来たんだし。大方友達の家にでも上がり込んで、そのまま眠ってしまって夢でも見たんだろう」
 違うよ、あれは夢なんかじゃないよ。だってほら、こんなにいっぱいお土産だって貰って来たのに。
 そう言い返したかったけど、次の日にこっそり桜の木の丘に行ってみると、母さんの言ったとおり其処にあのお屋敷はなかった。
 僕は哀しくなって、家に駆け戻るとおばあちゃんに泣きついた。
 おばあちゃんは、泣きじゃくる僕の頭を撫でながらこう言って慰めてくれた。
 「もしかしたら、おまえは妖精の輪を通り抜けてしまったのかもしれないねぇ」

◆ ◇ ◆


 それから、僕は毎年ハロウィーンの晩になる度に、古木の丘に通い続けた。
 其処には、いつもあのお屋敷が在って、僕が訪れるのを待っててくれた。
 蝙蝠の形の敲き金に手を伸ばして、ノックを3回。
 「Trick or Treat?」の問いかけに約束通り「Treat」と応えれば、彼女の優しい笑顔と料理の匂いと、ちょっと風変わりな友人達が僕を迎え入れてくれる。
 そのお屋敷がハロウィーンの夜にしか存在しない事も、僕には気にならなかった。
 むしろ、だからこそ貴重な時間を逃したくなかった。
 最初の何年かはそれでもご近所を回ってから丘に寄ってたんだけど、そのうちまっすぐ彼女の家に向かうようになって。
 僕が高校に入る頃には、他の客人達はディナーを終えると早めに席を立つようになった。
 今にして思えば、あれは彼等なりに気を遣ってくれてたんじゃないかな。
 僕と彼女が2人っきりの時間を過ごせるようにって。
 そうして、21歳の秋。
 いつものように美味しい料理をご馳走になって、他愛のない会話を楽しんで、その帰り道。
 玄関まで見送ってくれた彼女を振り返って、僕は一世一代の大勝負に打って出た。
 「Trick or Treat?」
 その言葉と共に差し出した右手には、彼女のお気に入りの店で買って来たトリュフチョコ。
 そして、左手に乗せたベルベットの小箱には、まぁるいムーンストーンをあしらった銀のリング。
 そう。僕なりに考えた末のプロポーズってわけ。
 緊張に強張る頬で精一杯微笑んでみせる僕を見つめて、彼女はぱちくりと瞬きを繰り返した。
 驚きに彩られた表情が、やがて、ゆっくりと綻んでいく。
 それを隠すように俯いて、彼女は小さく溜め息を落とした。
 「…私の負けね」
 ほんの少し呆れたような、でも、嬉しそうな笑みを孕んだ声で呟いて、彼女は僕に向かって手を伸ばす。
 そして、熱を帯びた僕の耳元で、彼女は「Trick」と囁いた。

◆ ◇ ◆


 「何にやけてるの」
 子供達を送り出した彼女が、腰に両手を当てて僕の方に向き直る。
 「いや、懐かしいなぁと思って」
 我ながら、たぶんかなり締まりのない顔をしてたんだろう。
 それが解るから、僕は下手に言い繕ったりしないで素直に思ったままを口にした。
 「妖精の丘のお伽噺。おばあちゃんから散々聞かされたなぁって」
 だけど、僕達の結婚を誰より祝福してくれたのもおばあちゃんだった。
 遠い日の思い出に想いを馳せる僕の肩にそっと手を乗せて、僅かに首を傾げた彼女が僕の瞳を覗き込む。
 「後悔してる?」
 「まさか!」
 あの夜、彼女に出逢えた事。その奇跡と魔法に感謝しこそすれ、後悔するなんてあり得ない。
 …ただ、時々不安にはなるけど。
 「君こそ、僕と来た事を悔やんでない?」
 「いいえ」
 上目遣いに尋ねる僕に首を振って、彼女は笑みを含んだ視線を窓の外へと投げかける。
 「だって、ほら、友達なら逢いに来てくれるもの」
 つられるように何やらざわざわとした気配がする方に目をやれば、カーテン越しに見えるのは異形のシルエット。
 噂をすれば、というヤツだ。
 僕は彼女に目配せして、忍び足で玄関に向かう。
 ノックは3回。声をかけるのは家の主から。
 「Trick or Treat?」
 お決まりの挨拶ととびっきりの笑顔で、僕は懐かしい友人達を出迎えた。

















Trick or Treat?