■第5話 喪失楽園■

(9)

 「方舟を動かすのね」
 星神・朱華に捧げられた霊廟の扉に手を掛けた綾は、静かなその声に動きを止めた。
 見れば、他ならぬ朱華自身が扉の脇に背を預けて佇んでいる。
 彼女は、綾の方を振り返ろうとはしないままこう問いかけた。
 「多くの民の命運を預かるからには、それに相応しい責任を負わねばならないわ。あなたには、その覚悟があるの?」
 覚悟という言葉に、綾は瑠璃玻達との遣り取りを思い出す。
 謁見の間を後にした瑠璃玻は、行き先を問う綾に「方舟を解き放つ」と告げた。
 「方舟?ミフルの総ての民が乗れるような大きな船が有るっていうの?」
 つい先刻まで、綾は天空三神までもが係わるこの遠大な謀に関しては完全に蚊帳の外に置かれていた。
 それ故、未だに知らない事、理解出来ない事も多い。
 素直にそれを口にする綾を疎ましがるでもなく、煌は律儀に解説を加える。
 「いいえ、違います。便宜上方舟と呼んでますが、実際には天空三神が肉の身に換えて得た力を注いでこの日の為に築き上げた空間転位の為の魔導器です」
 「天象神殿内に、三神それぞれの神器を鍵とする封印が置かれている。私独りで解くつもりだったが、時間が惜しい」
 「解ったわ。あたし達で手分けして封印を解くのね」
 煌の後を引き取った瑠璃玻の考えを先回りした綾は、そこで新たに湧き出した疑問に首を捻った。
 「でも、なんでわざわざ封印なんてしたのかしら?こんな非常時にいちいち解呪して回らなきゃならないなんて効率が悪いったらないじゃない」
 それは特に答えを期待した訳ではない独り言のような呟きだったのだが、意外にも先を行く瑠璃玻から応えが返る。
 「人という種が、慈悲深い那波をもってしても救い難い存在だからさ」
 黙っていれば清雅な美少女といった趣の秀麗な面に皮肉な笑みを刷いた瑠璃玻の瞳には、夜の深淵を思わせる昏い翳が宿っていた。
 「愚かな人の子の所業は、ミフルの民を救う為に方舟を造った三神をも悩ませた。混沌への回帰は万物に課された定めだ。その大いなる理に背いてまで、人は生き延びる価値があるのか?滅びを受け入れるべきではないのか?…封印は、我等の真価を質す試練といったところだ」
 それは、おそらく人の身でありながらその業の深さを憂えずにはいられない瑠璃玻自身の懊悩でもあるのだろう。
 突き放すような言動の奥に秘められた痛みを誰より深く知る煌は、敢えてそこには触れずに淡々と話を進める。
 「その封印を解こうという以上、相応の覚悟を持って臨まないといけませんね」
 「そういう事だ」
 同じく感情を窺わせない表情で素っ気無く返した瑠璃玻は、此処に来て漸く足を止めて煌達へと向き直った。
 「封印は三神所縁の場に在る。煌は奉剣場、綾は朱華の霊廟に向かえ」
 神妙に頷く煌と綾に、瑠璃玻は更なる指示を下す。 
 「封印を解いた先に転位の門が在る。お前達は其処から方舟に移れ」
 瑠璃玻の言葉に僅かな引っ掛かりを覚えた綾だったが、その正体を見極める時間は与えられなかった。
 本当は、煌や朱華の言う「覚悟」が何を意味するのかさえ解っていないのかもしれない。
 朱華の問いに応える事が出来ないのも、答えを出すだけの条件が綾の中に揃っていない所為だ。
 それでも、と綾は思う。
 今は一刻でも早く封印を解き、方舟を稼動させる事が先決だ。思い悩むのはそれからでも遅くはない。
 そう自分に言い聞かせ、扉に掛けた手に力を込める綾の背に、朱華が重々しくも気遣わしげな警告を投げかける。
 「気をつけなさい。この扉の先には、人の心の闇が巣食っているわ」

 
 

※  ※  ※

 
 朱華の霊廟には窓がない。
 室内を照らすのは、燭台に灯された蝋燭の火のみだ。
 橙色に揺らめく炎が生み出す陰影は、平時であれば死者の魂を祀るのに相応しい神秘的な雰囲気を醸し出す舞台装置としての役割を担う。
 だが、方舟の封印を解く為に足を踏み入れた綾を出迎えたのは、血の色にも似た焔の緋色を映して禍々しく渦巻く闇の澱だった。
 腐敗した卵がどろりと溶け出すように辺りを侵食するそれは、死者の想念が凝った亡霊である。
 死の直前に魂に刻まれた強い負の感情――その多くは恐怖や無念であり、怨嗟である――が半ば実体化したその存在は、「愛と死の女神」朱華の名の下に鎮魂と慰霊の儀式を執り行う綾には馴染み深いものだった。
 「痛い」
 「苦しいよ」
 「助けて、助けて」
 おそらくはこのところの災禍で命を落とした者達がほとんどなのだろう。
 苦悶の表情で助けを求める彼等の悲痛な叫びは心を動かしはするものの、慣れた綾の足を止めるには至らない。
 しかし、個々の想いなど判別がつかない程に溶け合い交じり合って蠢く闇の中から、1つの強烈な思念が立ち現れる。
 明確に人の形を成したそれは、先を急ぐ綾の道行きを妨げる意志を持って彼女の前に立ち塞がった。
 「民を救おうというのね。立派だわ、綾」
 緩く編み上げられた波打つブルネットの髪、豊満な肢体を強調するカメリア色のドレス。
 毒々しいまでに鮮烈な色の紅を刷いた唇に艶かしい笑みを浮かべたその人物は、南国に咲く花のようにくどい程に甘く蠱惑的な口調で馴れ馴れしく綾に語りかける。
 「…日向…!」
 驚愕に目を瞠る綾の口から零れたその名は、数十年も前に反逆の廉で処刑されたかつてのジュナの星辰神殿の神官長のものだった。
 とうに祓われた彼女の念が何故この期に及んで残っているのかは定かではないが、自身の生き様に深く関わった彼女を綾が見間違う筈がない。
 複雑な想いに揺れる綾の心など知らぬ気に、日向は艶然と微笑みかける。
 「でも、どうして彼等は救われなかったのかしら?」
 何気ない調子で放たれたその一言は、綾の胸を鋭く抉った。
 「これまでにも、多くの罪のない人々が命を落としてきたわ。彼等に救いは齎されなかった。彼等と、貴女が救おうとしている民との間に、どんな違いがあって?」
 それは、綾が意識して考えないようにしてきた事だった。
 彼等を救えなかった無力感と自責の念、彼等には与えられなかった救難の手を理に背いてまで他の民に差し伸べようとしている事への後ろ暗さ――それらは、今も綾の良心を責め苛んでいる。
 猜疑心は躊躇いを生む。
 躊躇する気持ちは足枷となる。
 だからこそ、綾は自分を信じて進む事を己に課した。
 自己正当化に逃げるのかと嘲る自身の声に耳を塞ぎ、良心の呵責から目を背ける道を択んだのだ。
 そんな彼女の罪の意識を暴くかのように、日向は毒の滴る言葉を耳元で囁く。
 「所詮貴女のしようとしている事は自己満足の為の行いに過ぎないのよ。偽善と欺瞞に満ちたヒロイズムに酔うのはさぞ心地良いのでしょう?」
 ねっとりと纏わりつくような日向の声に引き摺られて、瘴気を帯びた闇が深まった。
 為す術もなく立ち尽くす綾に、死者の怨念が触手と化して絡みつく。
 だが、綾が身も心も囚われかけたその時、一陣の風が彼女を取り巻く闇を薙ぎ払った。
 「惑うな」
 闇を断った刃と同じだけの強さで叱咤する声に顔を上げた綾は、其処に意外な人物の姿を見出して目を瞬かせる。
 「喜見城…?」
 おずおずと名を呼ぶ声には振り向かず、男は擦り切れたマントの裾を翻して彎刀を振るい続ける。
 三日月を思わせる刀身が一閃する度に、綾に迫る妄執は確実に断ち斬られていった。
 「進むも引き返すも己が意志次第。だが、躊躇えば死の顎がお前を捉えるぞ」
 生前と寸分違わぬ無愛想で実直な、けれど突き放す冷たさではなく信頼に裏打ちされた端的さで、喜見城は綾に問う。
 「迷わぬ心が標となる。炎の舞姫、お前は何を望む?」
 「あたしは…」
 自身を取り巻く危機的状況も忘れて、綾は静かに思いを巡らせる。
 罪悪感は有る。
 神々が救済を迷う理由も、瑠璃玻の憂いも、哀しい事に理解出来てしまう。
 でも、だからといって、救える筈の命まで見放す事など出来ない。
 「あたし達は非力だわ。たとえ那波様達でも、槐様でさえも万能じゃない。でも、出来る事があるなら、最後まで力を尽くすわ。運命にだって抗ってみせる」
 それが、那波達の、瑠璃玻の、そして綾自身の出した答えだった。
 敢然と闇を見据える綾の隣で、華やかに笑う気配が在る。
 「あの子達が気に入る筈ね」
 場違いなまでに明るい笑みを孕んだその声の主は、綾の知らぬ美しい女性だった。
 長い白金の髪を背に流して嫣然と微笑む淑やかな容貌とは裏腹に、優しく眇められた紅茶色の双眸には闘う者の毅さが秘められている。
 嫋やかと称しても良い彼女の手には、細身の刀身を持つ片刃の剣が握られていた。
 戸惑う綾の目の前で、女性は剣を持つ腕をしなやかに閃かせる。
 蟠る闇を易々と斬り裂いたその剣は、綾に進むべき道を指し示した。
 闇の切れ間から洩れる光の先に、祈祷の間へと続く扉が見て取れる。
 そして、死者の呪縛から解き放たれた綾には、その扉の向こう、メシエ以外の地に在る霊廟ならば朱華の神像が置かれている台座の奥に、相克の環【クラヴィウス】と呼応する封印の存在を感じ取る事が出来た。
 「いきなさい」
 穏やかな女性の声は、「行きなさい」とも「生きなさい」とも取れる響きでもって綾を促す。
 その声と自分に向けられた喜見城の眼差しに頷いて、綾は光の溢れる方へと力強い一歩を踏み出した。