■第5話 喪失楽園■
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天象神殿を取り仕切る高位の神官等と騎士団上層部の面々が集う謁見の間は、いつになく尖った空気に包まれていた。
このところの禍事続きの中での緊急の召集とあって、日頃は心を安らげる事を旨とする神官達もさすがに不安を隠せないのだろう。
騎士団員達の多くは、無力感に起因する焦慮からか自然の脅威に怯える己への苛立ちからかやたらと殺気立っている。
壇上に設えられた玉座から彼等を見渡す瑠璃玻の硬質な双眸からは、何の感情も窺い知る事は出来ない。
玉座の背後には、月神・那波を中央に、星神・朱華と太陽神・熾輝の紋象と似姿を描いたタペストリーが掛けられている。
それらに呼応する形で玉座の左右に控える綾と煌の表情もまた、眼前の張り詰めたざわめきとは対照的な静けさを呈している。
ややあって、清浄な一陣の風を伴って那波がその場に降臨すると、居合わせた面々の動揺と戸惑いは一層混迷を極めた。
氷蒼の衣に身を包み、長い銀の髪を翻して舞い降りる那波の冬の月の如き美しさに心を奪われた所為もあろう。
だが、それ以上に彼女が単身現れた事への驚きが大きい。
那波がこういった場に顕現する時には、通常配偶神とされる熾輝が付き従う。
彼女が独りで人々の前に姿を現すというのは、如何に斎主が共に在るとはいえ祭儀以外では異例の事態だった。
そこに特別な意味を見出してあえかな希望を抱く者、畏れ慄く者、それぞれの思惑を胸に、彼等は密かに囁きを交わし合う。
那波は、さざめく声が潮のように退いていくのを、ただ黙して待ち続けた。
やがて、蟠る思いを吐き出す言葉も絶える頃、漸く彼女の口が静々と開かれる。
「遥か昔、まだ斎主として精霊王に仕えるようになる以前から、私はあるひとつの夢を視続けてきました」
那波は先見の姫。未来を夢に視る時と運命の女神である。
その彼女が、今、新たな託宣を齎そうとしている。
謁見の間に集う人々の緊張は、弥が上にも高まった。
ミフルを取り巻く不穏な現状に焦燥を募らせている彼等は、彼女の予言に一縷の望みを掛ける思いなのだろう。
縋るように向けられる多くの視線を一身に集めた那波は、夢見る眼差しのまま陶然と言葉を紡いでいく。
「それは、滅びの夢――大地は裂け、風は吹き荒れ、溢れ出す炎と猛り狂う水が民を、街を飲み込んでいく、終末の光景」
美しく澄んだ声が語る凶兆に、人々は一様に不安そうに顔を見合わせた。
そうして、彼等の不安は現実のものとなる。
「今、その夢が現に結ばれようとしています。ミフルの時が果てようとしているのです」
「運命の司」那波による非情な宣告は、大いなる力を持つ大神官や騎士団長等をも震撼させるに足るものだった。
「我等天空三神は、この時に備えてきました」
言葉もなく呆然と立ち尽くす一同を前に、那波は揺るがぬ声音で語りかける。
「無論、それが世の理である以上、世界の終わりを留める力は我々にはありません。でも、徒に生命が喪われていく様を見過ごす事はできない」
そこには、透けるような白磁の肌そのままに儚く嫋やかな麗姿からは想像し難い毅さが秘められていた。
「民を神殿に集めてください。救いの道は、その先に見出されます」
彼女の真摯な眼差しに、迷いはない。
しかし、怖れに惑い猜疑に駆られた人々に、彼女の言葉は届かなかった。
彼等は、互いに覚束無げな視線を交わしてひそひそと囁き合う。
「総ての神殿が安全な場所に建てられているわけではない。海沿いの集落の民は高台に避難させるべきではないか?」
「それを言うなら、既に先の震災で被害が出ている神殿は如何する?」
「第一、それだけの人数を寝泊りさせるのに足る設備が何処に有るというのだ?」
一様に浮き足立った彼等は、尤もらしい問題点を並べ立てるばかりで行動に移ろうとはしない。
それどころか、神職者にあるまじき暴言を声高に述べる慮外者まで出て来る始末である。
「この期に及んで祈りに縋れというのか?」
「確かに、信仰は魂を救うかも知れん。だが、目前の危機を回避する術を提示出来ねば人心は掴めまい」
「そうだ、今更神頼みなど、民も納得するものか!」
事ここに及んで不甲斐ない高官達に業を煮やした綾が口を開きかけたその時、玉座の瑠璃玻から一言氷のように冷徹な声が投げられた。
「狼狽えるな!」
冷え冷えと響くその声は、苛烈な怒りと侮蔑を持って取り乱す一同の口を噤ませる。
「このような時にこそ、我等神々に仕えし者が民を導かなくて何とする!」
正しくも容赦のない瑠璃玻の指摘は、彼等に職分相応の廉恥心と矜持とを取り戻させた。
しんと静まり返る広間を見渡して、瑠璃玻は斎主としての命を下す。
「各地の神殿に急使を送り、民に最寄の神殿、若しくは神域に身を寄せるよう布告すると共に受け入れの態勢を整えさせよ。但し、私財の持ち込みは各々が携行出来る範囲で当面の衣食を満たす物のみとする。1人でも多くの民を救う為の処置だ。例外は認めぬ。騎士団員は、引き続き神殿と民の警護に当たれ。この機に乗じて魔物達の活動が活性化する惧れがある。無用な混乱を退け、人々を護り援ける事こそ己が使命と心得よ」
犯し難い威厳を持って的確に為すべき事を告げる瑠璃玻に年若い神官等は心酔し、騎士達はその気高さに感銘を受けた。
老獪な神官長達も、さすがに己が不明を恥じる。
各々の職務に勤しむべく動き出した彼等を、那波は愛惜に満ちた表情で見つめていた。
一方、瑠璃玻は事の行く末を見守るまでもなく早々に身を翻す。
「ついて来い」
短くそう言い置いて謁見の間を後にする瑠璃玻を追って、煌もまた踵を返した。
取り残されかけた綾は、慌てて2人の後に続く。
足早に回廊を進む瑠璃玻を追いかけながら、綾は先を行く背中に至極当然な疑問を投げかけた。
「ちょっと、待ってよ瑠璃玻。こんな時に何処に行くって言うの?」
本来なら、自分達は率先して民の憂いと心痛を宥めるべき立場に在る筈だ。
それを、行き先も告げずについて来いと言われて困惑するなという方が無理があるだろう。
だが、瑠璃玻は綾の方を振り返りもせず、端的な言葉を返して遣す。
「方舟を解き放つ」
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