■第5話 喪失楽園■

(7)

 「…本当に、もうどうしようもないのか?」
 天象神殿、夢殿。
 月神・那波の浄室で、瑠璃玻は部屋の主に沈痛な問いを投げかける。
 「私の力を総て捧げても、手の施しようがないと…」
 瑠璃玻達がアイシオンで襲撃を受けたあの日、ミフルではユタの町を筆頭に各地で連鎖的な震災に見舞われた。
 震源はウルカ砂原からアイシオンの東の内海を通ってレイタ河上流の山岳地帯へと抜ける直線上に集中しており、近隣の町や村では地割れや建物の崩落等の被害も報告されている。
 加えて、聖都メシエに戻った彼等の許には他にも多くの異変が伝えられて来ていた。
 曰く、エンケの海が色を変えた。
 アイシオンの北方に聳える山の頂から噴煙が立ち上っているらしい。
 ヒナ湖の水位が急激に下がっている――。
 それらの異変が語る意味を、瑠璃玻は知っている。
 知っているからこそ、その先に来る事態を何とか回避する術は無いかと問わずにはいられないのだ。
 叶う事はないと知りつつ儚い希望を見出そうと足掻く瑠璃玻の願いを、だが、熾輝は冷徹に切り伏せた。
 「解っていた筈だ。那波の夢は枉げられない。ミフルの時は尽きる」
 傷心を撃ち抜く無慈悲な宣告に宙を仰いだ瑠璃玻は、せつなく眉を寄せて目を閉じる。
 掌に爪が食い込むほどにきつく握られた拳を震わせるのは、己の無力への悲嘆か、声にならない慟哭か。
 束の間の瞑目にどれほどの想いが秘められていたのかは知る由も無い。
 ただ、再び瞼を開いた瑠璃玻の瞳には、毅い意志の輝きが宿っていた。
 「ならば、私は私に出来る事をするまでだな」
 不遜なまでの昂然さでそう言いきって、瑠璃玻は身を翻す。
 最早嘆き哀しむ弱さを己に許す事はないのだと語る華奢な後姿を、那波は深い憐哀の情を持って見送った。

 
 

※  ※  ※

 
 一方、夢殿の外に張り巡らされた回廊では、綾が癇癪を起こしていた。
 「一体どうなってるのよ!?」
 夢殿の扉に背を預けた煌の落ち着き払った態度が尚更彼女を苛立たせるらしい。
 ほとんど掴みかからんばかりの勢いで煌に詰め寄った綾は、次々に言葉を投げつける。
 「あちこちで地震が続いてて、山崩れや高波もあって!その上、エンケじゃ海の色がおかしくなったって漁師達が騒いでる!こんなに災害が集中して起きるなんて普通じゃないわ!しかも、メシエに戻って来た途端瑠璃玻は深刻な顔で夢殿に篭りきり!いい加減何があったのか話してくれても良いじゃない」
 最後のくだりがやや力なく呟かれたのは、それが彼女の最も言いたい本音だからなのだろう。
 彼女の気持ちが解るだけに応えられない煌は哀れみとも取れる曖昧な眼差しを返す以外になく、それがまた一層綾に歯痒さを感じさせる。
 膠着した状況を打開したのは、庭園にたゆとう蓮花と同じ淡紅色の衣を纏って降臨した少女神の思いがけない一言だった。
 「ミフルの時が終わろうとしているのよ」
 「朱華」
 短く名を呼ぶ煌の咎めるような声音も意に介さず、星神・朱華は己の舞姫にひたと視線を据える。
 唐突な彼女の出現よりも言われた内容に虚を突かれた綾は、あからさまに怪訝そうな顔でおずおずと問い返した。
 「…どういう事…?」
 「言葉通りの意味よ」
 言葉の意味が解らないのではなくて、ただ理解したくないと理性が拒んでいる事を知りながら、朱華は綾を冷たく突き放す。
 「「混沌より生じしもの、すべて時と共に混沌へと帰す」。世界の始まりと終わりを示すこの理は、何も人の子や生きとし生けるものに限ったものではないわ。もうすぐミフルは終末の時を迎えるの」
 「そ、んな…」
 素っ気無く告げられた事実は、綾に強い衝撃を齎した。
 確かに、真実を知りたいと望んだのは彼女自身だ。
 だが、こんな風に容赦のない現実を突きつけられるとは思わなかった。
 蒼白な唇を震わせて立ち尽くす綾を、煌が痛ましげに見遣る。
 朱華は、深緑の瞳に哀憫を湛えて淡々と言葉を紡ぎ続けた。
 「瑠璃玻は、あの通り鋭敏な感覚の持ち主だから、那波の夢にも共鳴してしまったのね。可哀想に、幼くして天象神殿に連れて来られてすぐに、あの子はミフルの滅びを知ってしまった」
 朱華が目を伏せると同時に、刹那、綾の脳裏に「運命の司」那波が夢に見たミフルの終わりの光景が描き出される。
 炎を帯びて飛来する石礫、熱風に煽られて燃え落ちる木々、逃げ惑う人々ごと大地は海に呑まれ、瓦礫と化した街並みに白い灰が降り積もる――凄惨な、けれどどこか詩的で美しくさえある光景を前に、言葉をなくした綾の双眸から涙が溢れ出す。
 どうしてこんな運命を知りながら、那波は、瑠璃玻は、あんなに毅く生きて来られたのだろう。
 いつだってミフルを愛し、民を慈しむ彼女達の姿を、綾は敬愛の念を持って見て来た。
 愛するものの最期を…それも、こんなに惨い結末を見せつけられて、いつ来るとも知れぬその時を待つ生を余儀なくされる事がどれほど残酷な仕打ちか。
 自分だったら到底耐えられないと綾は思う。
 絶望から自暴自棄になるか、或いは刹那的な快楽に逃げるか…どちらも許されないというのなら、いっそ気が触れてしまうだろう。
 秘められた瑠璃玻の苦悩に思いを馳せていた綾は、ふと静かに佇む煌へと視線を移す。
 「煌、も…?」
 瞳を揺らす綾に優しく頷く煌の目許には、いつもと変わらぬ柔らかな微笑みが浮かんでいた。
 「瑠璃玻の護り人として初めてアイシオンの地を訪れた際に、槐に訊かれました。世界の終わりを見る覚悟はあるか、と」
 眇められた紅茶色の瞳の先に浮かぶのは、遠い日の景色なのだろうか。
 凪いだ湖面のようにどこまでも静謐で穏やかな表情で、煌は語る。
 「もしも終末を受容する毅さを持たぬのなら、すぐにでも命を絶つと――いつの日にか苦しみ嘆く俺を救おうと瑠璃玻が手を下す前に、槐自ら命を奪ってやると」
 瑠璃玻の心を護る為に、憎まれる事を承知で瑠璃玻の愛する煌を排する…それもまた、なんと壮絶な愛し方か。
 愛しいものの為、護りたいものの為に、彼等は斯くも熾しく生きて来た。
 自分独りが何も知らずにのうのうと過ごして来た事を恥じる思いで、綾は寂しく項垂れる。
 そんな彼女の胸の裡を読んだかのように、朱華は声を和らげるとこう言い添えた。
 「あなたが巫翅人になったのは事故みたいなものだった。あの子はあなたを生を歪めてしまった事をずっと悔やんでいたわ。だからせめて、過酷な未来を伏せておきたかったの。あなたが、憂いの無い日々を過ごせるように…その心が、哀しみに翳ってしまわぬように」
 天空三神や瑠璃玻達には及ばぬものの、綾とて人並み以上の時を生きる身である。
 元々の生まれや育ちの所為もあって世の中の汚い部分もいろいろと見知っているから少々ひねた物言いもするし、理想が時に綺麗事でしかない事も思い知らされている。
 間違っても無邪気で天真爛漫だなどとは言えたものではない。
 それでも、感情のままにころころと表情を変える綾の心の豊かさや情の深さを、瑠璃玻は好ましく思っているのだと朱華は言う。
 それは、己の為し得なかった生き様への淡い憧憬であったのかもしれない。
 「バカな瑠璃玻」
 ややあって小さく呟かれた声は涙に濡れて、か細く震えていた。
 けれど、力強く面を上げた綾は、果敢に笑みを浮かべてみせる。
 「あたしが巫翅人になったのも、世界が滅びるのも、瑠璃玻の所為じゃないのに…そうやって何でも全部背負い込むから、いっつも不機嫌な顰めっ面なのよ。せっかくの綺麗な顔が台無しじゃない」
 未だ、衝撃は醒め遣らない。避けられぬ破滅に慄く気持ちもある。
 けれど、ここでただ打ち拉がれて終わったら、それこそ「星神の舞姫」の名折れというものだ。
 ともすれば折れそうになる心を叱咤するように、綾は敢えて普段通りの構えを貫く事を選んだ。
 「ここまで付き合ったんだもの。あたしにだって最後まで見届ける権利は有る筈だわ」
 義務ではなく権利なのだと言ってのける綾の勝気な眼差しを、煌は眩げに受け止める。
 朱華は、重さを感じさせない足取りで綾の前へと歩み寄ると、涙の跡の残る頬に小さな手を伸ばした。
 そうして、あどけない少女の面差しに似合わぬ哀しげな、けれどどこか幸せそうな笑顔でこう囁く。
 「あたしは、あなたを誇りに思うわ」