■第5話 喪失楽園■
(6)
祭りの熱が退くと、後には空虚な倦怠感が残される。
それが、60年に1度の大祭明けともなれば尚の事。
本格的な夏の訪れによる暑さもあって、新年の儀である光の祭祀を終えた天象神殿は常であれば大きな行事のない休閑期に入る。
だが、今年は神官達にとって多忙な年の始まりとなった。
昨今の天災の多発を憂えた那波により、各地の神殿の巡視と警備の強化が命じられたのだ。
ミフルでは、どれほど小さな集落にも必ず精霊王の為の神殿、若しくは聖域が置かれている。
当時斎主だった那波が月神として正式に認められたのを期に、精霊王・槐の名の下、建築や維持管理に掛かる費用は全て天象神殿負担、工事は狩猟や農耕の閑期のみという破格の条件下で十年単位の歳月を費やして行われた一大事業の賜物であるそれらの施設は、信仰の場としてのみでなく、地域の住民に教育や医療を施し、有事の際には避難所としての役割を担う等今尚コミュニティの中心としての機能を果たしている。
不穏な情勢を踏まえ、災禍に備えるのに如くはない。
まして、「運命の司」と呼ばれる那波の命とあれば、神殿内で異を唱える者はなかった。
神官達が不眠不休で働く中、瑠璃玻もまた高位の神官長達の苦言を押し切って自ら現地に足を運んでいた。
煌と綾を伴った瑠璃玻がアウインの町で襲撃を受けたのも、那波と瑠璃玻に所縁の深い彼の地の神殿を訪れた矢先の事だった。
「もうっ!どうにかしてよ!これじゃきりがないじゃない!」
ばさばさっという耳障りな羽音と共に襲い掛かってくる無数の鳥達を振り払いつつ、癇癪を起こした綾が半ば悲鳴じみた声で喚き散らす。
町外れに在る木立の傍を通りかかった瑠璃玻達一行に襲い掛かったのは、巨大な梟に率いられた野鳥の群れだった。
一羽一羽の形は小振りでも、剥き出しの手足や眼球を狙う嘴や爪の鋭さは侮れないし、如何せん数が多過ぎる。
「大半は妖につられているだけの野鳥だ。出来るだけ傷つけずに追い払え」
「そういう無理な注文をっ!」
煌の腕に庇われた状態で冷静に指示を下す瑠璃玻に噛みつきながらも、綾は腰に下げていた【シルフィード】を抜き放つと小さな竜巻を生み出した。
勢い良く渦巻く風に巻き込まれた鳥達が、墜落を恐れて飛び去って行く。
代わって、自然の生態ではありえない大きさの梟が猛烈なスピードで飛び掛って来た。
瑠璃玻目掛けて振り翳された爪を【プロクシェーム】で弾いた煌が、返す刃で凶器と化した翼を薙ぎ払う。
巨体に似合わぬ素早さで空へと舞い上がった怪鳥に、当然剣身は届かない。
だが、光刃の軌跡が描いた真空の刃は、過たず片翼の付け根を斬り裂いた。
痛みと憤怒に奇声を上げて、巨鳥が烈しく身悶える。
巨大な翼から生じる衝撃波が、地上の瑠璃玻達に襲い掛かった。
片手を閃かせる一挙動で築いた障壁でそれを受け止めた瑠璃玻が、咄嗟に身構えた綾を制して前へと進み出る。
手負いの妖がカッと嘴を開いて威嚇してくるのも意に介さず、瑠璃玻は淡々と口を開いた。
「偽りの肉を纏いし彷徨えるものよ。猛き魂を鎮め、仮初めの器より打ち出でて我が腕に来たれ」
静かな声音に相応しい静謐な眼差しを狂った猛鳥に向けて、瑠璃玻は左腕を差し伸べる。
まるで、その腕を傷ついた翼を休める為の止まり木にせよとでもいうように。
その甲に、精霊王の眼と呼ばれる呪紋が淡い燐光を放って浮かび上がる。
僅かな逡巡の後に、梟の体を持つ妖は瑠璃玻の腕に舞い降りた。
薄い布越しに立てられる鋭利な爪は、意図せずして瑠璃玻の柔らかな肌を傷つける。
袖にじわりと滲む血の色に綾は眉を顰めたが、当の瑠璃玻は顔色一つ変えずにその痛みを享受した。
そうして、慈しむように羽を撫でてやりながら、穏やかな顔つきで語りかける。
「良い子だ。怖がる事はない。精霊王がお前の魂を護るだろう。だからもう惑うな。今は安んじて微睡むと良い」
狂気を宿していた瞳を眇め、気持ち良さそうにクルルと喉を鳴らす妖の姿は、いつしか空に溶け込むようにして消えていった。
「まったく、どうかしてるわ」
その様子に、漸く肩の力を抜いた綾が、苛立たしげに疑問を呈する。
「何だってこんなにあちこちで妖が暴れてるわけ?年が明けてからだけでも十指に余る被害が報告されてるのよ。絶対おかしいわ」
妖とは、確たる肉体を持たないが故に異形とされる生き物である。
普通の獣よりも魔力に敏感な彼等は、総じて他の生物との接触を避ける傾向にある。
余程性質の悪いものは別だが――それらは禍つ者、魔物と呼び習わされる――、本来であれば縄張りに踏み込みでもしない限り無闇に人を襲うものではない。
精霊王に仕える巫子として理に通じる瑠璃玻は、頻発する妖の暴走を何らかの凶兆と捉えているようだった。
「妖もミフルに生きるもの。この地に起こりつつある異常の兆しに慄いているのだろう」
その言い分自体には一応納得した綾だったが、気に障る事はもう1つ有る。
「それに、アレも大概どうかと思うんだけど」
不快げに呟く彼女が肩越しに指し示す先には、遠巻きに一行を見つめる人々の姿が在った。
アウインは瑠璃玻と那波の生地として敬虔な民に知られている。
そういった事情も有って、今回の巡視ではわざわざ瑠璃玻自身が派遣されて来たのだ。
だが、妖との戦いぶりに恐れをなしたのか、瑠璃玻達を見る人々の目には、一様に畏怖と忌避の念が込められていた。
そんな彼等の態度を人の情に思い入れがちな綾が面白く思わないのも無理はないと知りながら、瑠璃玻は皮肉っぽく口角を吊り上げる。
「仕方がない。この町の住人は昔から信心深いのが取り柄だからな」
「そうですね。それがたとえ迷信でも」
普段は歯に衣を着せぬ瑠璃玻の発言を取り成す事の多い煌が珍しく辛辣に当て擦るのを意外な思いで見遣っていた綾は、近づいて来た気配に気づくのが遅れた。
「あの」
躊躇いがちに掛けられた声に振り向けば、幼い少女が震える手で麻袋を差し出している。
おずおずと上目遣いに瑠璃玻を見つめる瞳が揺れているのは、ぴりぴりとした雰囲気への怯えと貴人を前にした緊張の為なのだろう。
他の大人達のような恐怖と蔑みを含まぬ純真な眼差しを好意的に受け止めた煌が場を譲ると、少女は強張った表情を幾分和らげてこう切り出した。
「これ…血止めの薬草です。斎主様のお怪我に」
言われて初めて気づいたとでもいうように、瑠璃玻は左腕に目を落とす。
妖の爪に抉られた傷からは、今もじわじわと血が滲み出ている。
とはいえ傷そのものは然程酷いものではないし、そもそも瑠璃玻にしろ煌にしろ神聖魔法のエキスパートだ。止血など薬に頼らずとも容易く行う事が出来る。
だが、心から案じてくれているのであろう少女の気持ちを汲んだ瑠璃玻は、薬草の入った袋を受け取ると柔和な笑みを浮かべて礼を述べた。
「…ありがとう」
煌達にさえ滅多に見せない極上の笑顔にぽおっと頬を染めて見蕩れた少女は、我に返った途端キャッと悲鳴を上げて一目散に駆けて行く。
傍で一部始終を見ていた綾は、呆気に取られて少女を見送る瑠璃玻に深々と溜息を吐いた。
「罪作りねぇ」
「何の事だ?」
本気で理由が解らないらしく不審げに眉を顰めているのがまた瑠璃玻らしいと、今度は言葉にせずに綾は苦笑する。
僅かに和んだ空気は、だが、次の瞬間俄かに緊迫の色を深めた。
瑠璃玻が雷にでも撃たれたかのように天を仰ぎ、煌もまた同じ方を見遣る。
「地の根の柱が――」
戦慄く瑠璃玻の唇から零れた呟きの意味を掴みかねた綾が問い質そうとしたその時、大地が轟いた。
※ ※ ※
同刻、聖都メシエは天象神殿が最奥に在る夢殿にて、鏡のように磨き上げられた大理石の床に身を横たえて瞑想に耽っていた那波が弾かれたように半身を起こした。
那波の髪を梳いていた熾輝も、手を止めて天井に近い場所にある明かり取りの窓を見上げる。
気怠い午後の陽射しの中で、何処から入り込んだものか白い蝶がふわりふわりと円を描いている。
熾輝が無造作に手を伸ばすと、その蝶は花の香りに誘われるかのように指先へと舞い降りた。
剣を握る無骨な指に止まり淡い燐粉を振り撒いて薄い翅を震わせるそれは、導士の遣う識守である。
彼等が蝶の齎した報せを受けるのと時を置かずして、扉の外より直奏の許しを請う声が掛かった。
熾輝が鷹揚に許可を下すのを受けて、年若い神官が口火を切る。
「ユタの導士より急報です。ウルカ砂原にて異常な熱源が発生し、直後に大きな地震が感知されたとの事。方角からして、発生源はおそらく地の根の柱が在る辺りかと」
淡々と告げられる事実に黙って耳を傾けていた熾輝は、神官が立ち去るのを待って重い吐息を落とした。
「始まったか…」
陽気で華やいだ雰囲気を纏う彼には珍しく、その表情は深刻な翳を帯びている。
細く嫋やかな指をきつく握り締めて、那波は何かに縋るようにそっと天を振り仰いだ。
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