■第5話 喪失楽園■

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 五華宴4日目、萌え出たばかりの新緑と花々の薫る季節に由来する緑玉祭では、精霊王・槐を讃える祭祀が天象神殿の最高位の神官によって執り行われる運びとなっていた。
 此度の祭りでは、前回同様斎主である瑠璃玻がその役を担う。
 日頃中性的な衣服を好む瑠璃玻には珍しく、この日の出で立ちは植物的な曲線を多用し柔らかな色彩でまとめられた女性らしい品だった。
 咲き初める花を意識したものか、純白の上衣の裾からは淡い紅梅色に染め上げられた紗羅の長衣が覗き見える。
 あえかなその色彩は、【フィルミクス】の両翼から腰まで垂れるヴェールの仄かな若緑色と相俟って春めいた雰囲気を醸し出している。
 初夏という季節柄、細かなドレープを寄せた幅広の袖にも同じ淡紅の薄物の布が用いられており、限りなく露出を抑えた禁欲的な装束の中にあって微かに象牙の肌が透けるのが悩ましくも涼しげだった。
 膝裏丈のマントの胸元を覆う大きな襟には、白い絹に同色の糸で細やかな花唐草の文様が刺繍されており、こちらも花と緑の季の名に相応しい意匠となっている。
 風にヴェールを揺らし、幾重にも重なり合う裾を曳いて静々と歩を進める姿は、花嫁衣裳を纏ったうら若き乙女を思わせる。
 事実、一身を賭して神に仕えるという意味に於いて、精霊王の巫子である斎主は神の花嫁、或いは花婿と言えなくもない立場に在る。
 そんな瑠璃玻の向かう先は、天象神殿前の広場の一画を占める小さな果樹園だった。
 蔓の生い茂った葡萄棚を潜り、白く可憐なオレンジの花が咲き誇る小道を抜けると、しっとりとした土が剥き出しになった空き地に出る。
 其処だけぽっかりと開いた空から降り注ぐ陽射しの下で足を止めた瑠璃玻は、巫翅人の証である3対6枚の白銀の翼を広げると、衣の裾を広げて大地に跪いた。
 「万象に宿りし精霊が王にして我が主たる槐に、斎主より新たな生命を捧げます」
 付き従って来た民や神官達が見守る中、厳かに口上を述べる瑠璃玻の透徹した視線の先に精霊王・槐の姿はない。
 だが、天に向かって差し伸べる腕(かいな)にオリーブの苗木を掲げて、瑠璃玻は目に見えない何者かに語りかける。
 それは、精霊王・槐に供物を奉納する祭儀の一環だった。
 槐は、犠牲(いけにえ)という概念を忌む。
 生きとし生けるものは総て精霊王が御許に帰すもの。それを殺めて贄と称し祈願の代償として捧げるなど本末転倒の極みであり、言語道断の愚行に他ならない。
 それ故、斎主がミフルの民に代わって奉じる供物は、いつからか種子や苗など新しい生を象徴する品とされてきた。
 こうして緑玉祭の日に斎主が手ずから大切に育てた若木の苗を植樹するのも、そうした慣習に則ったものだ。
 「願わくば、我等に与えられし加護と恩寵とが、この幼き生命にも等しく与えられん事を」
 新たに育まれるであろう生命への庇護を乞う言葉で与えられた恩寵に感謝し変わらぬ加護を願って、瑠璃玻は粛然と頭を垂れる。
 本来であれば、この後アイシオンにて精霊の森を鎮守する導士の長常磐の名代として派遣された巫覡に苗木を手渡して、儀式は終了する筈だった。
 しかし、唐突に響き渡った子供特有の高い声が、祭儀の進行を妨げる。
 「その願い、君の想いと共にしかと聞き届けよう」
 はっと面を上げた瑠璃玻の前で、木漏れ日に包まれた景色が刹那陽炎のように不安定な揺らぎを見せる。
 次の瞬間、其処には思いもかけぬ者の姿が在った。
 年の頃だけなら10歳にも満たぬ幼い少年…だが、その身の内から溢れ出る威厳は子供のものとは到底思えない。
 自然のものでは有り得ない藤色の髪。深い紅紫の双眸には、年端も行かぬ童子にはけして持ち得ぬ深慮遠謀と高貴さとが窺える。
 一目で高級な品と見て取れる繻子織のローブの上から金糸で刺繍の施された深紅の天鵞絨の肩掛けを羽織り、絢爛な金襴緞子の帯を締めた姿は、いっそ神々しくすらある。
 何より、只其処に在るだけで周囲を圧する存在感が、少年が人ならぬ身である事を如実に物語っていた。
 「槐」
 一瞬銀と藍の異彩眼を瞠った瑠璃玻が、彼の正体を見極めて蕾が綻ぶように破顔する。
 形の良い唇から零れたその名は、居合わせた人々に衝撃を齎した。
 「槐様?」
 「槐様だと!?」
 祭祀という常ならぬ場に感化されていた人々の心は、予期せぬ神の訪れに容易く高揚する。
 「精霊王が降臨なされたのか!?」
 「まさか!如何に五華宴と云えど、槐様が気安く民の前に姿を現すなど、かつてない事だぞ!」
 「長きミフルの記録を紐解いてもこのような事は…」
 「奇蹟だ!瑠璃玻様が奇蹟を起こされたのだ!」
 気を昂ぶらせてざわめく人々を尻目に、槐は稚い指先で愛しげに瑠璃玻の頬に触れると嬉しそうに目を細めた。
 「こうして君に触れるのは前回の五華宴の前に逢った時以来だ。60年ぶりだな、瑠璃玻。【フィルミクス】は君の黒髪に良く映える」
 大衆の眼前でこれ見よがしに尊大な口調とは不釣合いな睦言めいた言葉を投げかける槐の傍若無人な振る舞いに、傍に控えていた煌がひっそりと微苦笑する。
 槐といい熾輝といい、寵愛を示す事で瑠璃玻を護るにしても、その可愛がり様は聊か度が過ぎてはいまいか――瑠璃玻を想う事にかけては人後に落ちない自覚があるだけに、ある意味同志とでも言うべき彼等の言動が煌には気恥ずかしくも微笑ましく映るのだ。
 おそらくは煌のそんな想いに気づいているだろう槐は、彼だけに見えるように唇の端を僅かに吊り上げてみせた。
 それから、瑠璃玻の頬を両手で包み込むようにして上向かせると、額に刻まれた三日月形の傷痕に柔らかな口づけを落とす。
 「愛しているよ、私の斎主。たとえ人の子がどれほど愚かで罪深くとも、君が望むなら私は彼等を救う為に力を尽くそう」
 従順に瞼を伏せて精霊王からの誓いの口づけを受ける瑠璃玻の姿に心を打たれた人々は、一心に祈りの言葉を唱えて地に伏せた。
 彼等は、この出来事を精霊王からの祝福の証として語り継ぐだろう。
 魔法の時間が尽き、槐の姿がゆらりと空に解けていく。
 その手には、瑠璃玻より贈られたオリーブの苗が携えられていた。
 去り際、槐は瑠璃玻の耳許に先刻の続きを囁きかける。
 「だから、独りで苦しむのではないよ。たとえ厄災は避けられずとも、救いの道はあるのだから」
 応えず俯く瑠璃玻の横顔を、煌はただ愛おしむように見つめていた。

 
 

※  ※  ※


 五華宴の最終日は黄玉祭。
 豊かな恵みを喜び、感謝を捧げるこの祭日は、神々ではなく人の子の為のものだ。
 天象神殿の主催する公的な祭儀のないこの日は、それ故最も祭りらしい1日となるのが常だった。
 何処からか聞こえてくる軽快な楽曲、街路に立ち並ぶ露店、無邪気にはしゃぐ子供達と束の間の祝祭を愉しむ大人達。
 人々の行き交う目抜き通りでは、ナイキの商人達が手配した楽団や異国渡りの旅芸人等も加わったパレードが、深更を告げる鐘の音と共に五華宴の終わりが宣言されるまで華々しく繰り広げられる。
 このところの天災続きで漠然と不安を抱えていた人々も、この日ばかりは日頃の憂さを忘れて快楽を享受するのだ。
 五華宴の初日に当たる青玉祭に勝るとも劣らない賑わいを見せるメシエの街の様子を遠く時告げの塔から眺めていた綾は、羨望交じりの溜息と共にこう呟いた。
 「楽しそうねぇ」
 陽気な楽の音が、芸妓としての血を騒がせるのだろう。
 彼女の視線の先には、星辰神殿の星供達が踊る姿が見える。
 「綾も交じりたいのでしょう?」
 「まぁね」
 胸の裡を見透かすかのような煌の問いに、綾は小さく肩を竦めてみせた。
 「でも、今日は神殿からの干渉無しの無礼講だもの。あたしが出てく訳にはいかないわ」
 それでも、本当は彼等と一緒になって祭りを祝いたいのだと言外に匂わせる綾を、煌が気軽に誘惑する。
 「「華焔」としてなら構わないのでは?」
 「そうだな」
 普段なら綾を諌める筈の瑠璃玻までやけにあっさりと頷くのを見て、綾は困惑しつつも心が揺らぐのを抑えきれなかった。
 瑠璃玻は、綾の戸惑いを気に留めるでもなく淡々と続ける。
 「「星神の舞姫」が参加するとなれば祭りの景気づけにもなる。たまには羽目を外すのも良いだろう」
 「そうかな。それじゃ、ちょっと顔出して来ようかな」
 あくまで2人に促されたのだという風を装いつつ、綾はうきうきと足取りも軽く階段を駆け下りていった。
 後に残された2人は、しばし遠くの喧騒に耳を傾ける。
 窓枠に腰掛けた瑠璃玻の後姿は、祭りの余韻に浸っているにしてはどこか物憂く儚げだった。
 煌は、静かに瑠璃玻の傍まで歩み寄ると、背中から腕を回して華奢な身体を抱き締める。
 「良い祭りでしたね」
 ひっそりと呟く煌の声は優しい。
 頷く瑠璃玻の声も、また。
 「…あぁ」
 温かな腕を振り解くでも身を任せるでもない瑠璃玻の瞳には、暮れゆくミフルの空が映っていた。