■第5話 喪失楽園■

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 五華宴の2日目は紅玉祭。
 黄玉節と並ぶ豊穣の季節の名を冠したこの日は、愛と死を、ひいては生をも掌るとされる星神・朱華に奉じられる。
 主神となる朱華の神性の二面性宛らに、紅玉祭の祭事は昼と夜とでまったく別の顔を見せる事で知られていた。
 光の時間である昼の間、朱華は斎主である瑠璃玻と共に天象神殿内の霊廟に籠り、死せる者の魂を導く祈りを捧げる。
 民もまた、死者を悼み粛々と時を過ごす慣わしだった。
 だが、夕刻になると、メシエの街は一変する。
 街のあちこちに置かれた篝火に炎が灯され、街路には綺羅や天鵞絨に金糸銀糸で縫い取りを施した艶やかな衣装に身を包んだ民が溢れ出す。
 人々の足は、天象神殿前の広場に特設された舞台へと向かっていた。
 やがて、入日の名残りの空に夕星が輝き出す頃、広場に集う民の前に女神が姿を現す。
 仮面を着けた男女が傅く中、自らも黄金の仮面を被った朱華がゆったりとした足取りで壇上へと続く花道を登っていくに従って、広場を埋め尽くしていた喧騒は汐が退くように静まっていった。
 期待に胸を高鳴らせて見守る人々の視線を一身に集めた朱華が、少女の身体に相応しからぬ優雅さで見上げる民を振り返る。
 彼女が纏うのは漆黒のローブ。
 袖の端や裾に向かって描かれた緋色のグラデーションがより一層闇の色を際立たせる神秘的な衣を風に翻して、朱華は空を抱くように両腕を広げる。
 「混沌より生じしもの、すべて時と共に混沌へと帰す。此は万象の理を告げし世界の始まりと終わりの言葉なり」
 高く澄んだ幼い声が語るのはミフルの真理でもあり、生命の真理でもある言の葉だった。
 「この世に生まれ出でし命は、やがて須く死の下に導かれる」
 仮面は個を否定するものではなく、死と生の前の平等を端的に示す為の道具に過ぎない。
 世の理の前に命に貴賤はなく、皆等しく尊いのだと朱華は語る。
 その上で、こう誘うのだ。
 「さればこそ、ミフルの民よ、今このひと時、生の恵みを享受せよ」
 夜は闇の時、愛の快楽に耽り、生を謳歌する悦びの時。
 愛と死の女神、朱華が支配する時間が始まりを告げる。
 舞台の四隅で焚かれる篝火が炎を吹き上げ、囃子方の奏でる横笛の音が宵の空に朗々と響き渡ると、闇に溶け込むようにひっそりと控えていた綾が旋律に導かれて舞台の中央へと進み出た。
 朱華と揃いのローブを脱ぎ捨てた綾は、健康的な赤銅色の肌を惜しげもなく晒して伸びやかに舞い始める。
 確かな律動を刻む鼓、かき鳴らされる胡琴、柔らかく澄んだ笛の音と爪弾かれる竪琴の哀切な音色が交じり合い、踊る綾を取り巻く風となる。
 静から動、動から静へと彼女の所作が切り替わる度に、細い金の輪を重ねた腕輪がしゃらんと涼やかな音を立て、純白の絹のドレスが炎の揺らめきを映して暗赤から淡紅まで様々な彩りを見せた。
 綾の舞は力強く、官能的で美しい。
 軽やかなステップは命の鼓動。
 しなやかに反らされた背は激情。
 差し伸べられる腕は尽きせぬ慈悲を。
 指先の閃きは気まぐれな誘惑を。
 弾む胸が、仰のく喉が、投げられる眼差しが、言葉にならぬ言葉で彼女の内に息衝く命と感情の発露を雄弁に物語る。
 烈しさに魅入られた群集が息を吐くのも忘れて見入る中、たんっと思い切り良く踏み切った綾の体が高々と宙を舞う。
 ふわりと音もなく舞い降りた彼女は、そのまま顔を伏せて舞台の中央に蹲ると一切の動きを止めた。
 一瞬の静寂。
 楽の音が一際華々しく鳴り響き、朱華の足元に跪いていた仮面の男女――ジュナの星辰神殿に仕える星供達が一斉に顔を上げて壇上へと躍り出る。
 打ち鳴らされる鼓のリズムに合わせて躍動的に跳ねる身体で生命の歓びを、時に目の遣り場に困る程妖艶に絡み合う四肢で愛の悦びを謳い上げる彼等の高揚感は、綾の舞に心を奪われていた人々を容易く感化した。
 興奮と陶酔が、瞬く間に広場を支配する。
 橙色に揺らめく炎に照らされて、人々は演奏に合わせて思い思いに体を動かし、踊りの渦に巻き込まれていく。
 豊穣を祝い、授けられた恵みに感謝する歓喜の夜は、狂騒と酩酊の内に更けていった。
 

※  ※  ※


 五華宴3日目の藍玉祭は、前日とは打って変わって静穏の裡に進行する。
 月神・那波が主事を務める祭事は、明け方近くまで続いた紅玉祭の後という事もあって宵の口に差し掛かってから執り行われる運びとなっていた。
 日が落ち、辺りが藍色の闇に染まると、聖都メシエでは街の至る所に香油を満たしたランプが灯される。
 甘やかな香りと蒼白い炎に誘われた人々は、燭台を手に静々と天象神殿を目指した。
 日頃は衛兵が警護している正門が、この夜は民の為に解放される。
 敷地内に足を踏み入れると、其処は石畳の庭園だった。
 中央には水盤に睡蓮を浮かべた噴水が在り、その前に那波が瑠璃玻を伴って佇んでいる。
 白いドレスの上から繊細なレースで縁取られた蒼銀のヴェールを纏った那波と、藍色の糸で斎主の徴である有翼円盤の意匠の縫い取りを施した白衣に身を包んだ瑠璃玻。
 ランプの蒼い光でライトアップされた噴水の飛沫がまるで月光の雫のようにきらきらと降り注ぐ中にあって、2人の姿は夢のように美しい。
 集い来たった人々は、自然彼等の前に膝を折って祭祀の始まりを待った。
 西の空に留まっていた黄昏色が完全に消え失せ、夜の帳が優しく街を包み込む。
 そうして、夢と眠りの時間が訪れる頃、那波は美貌を覆うヴェールを静かに除けた。
 胸の前で祈りの形に手を組み、遠く天を仰いで口を開く。
 彼女の唇から零れたのは、清澄な歌声だった。
 水を張った硝子の器を爪で弾いたかのように細く玲瓏な声音に、瑠璃玻の深みの有る声が重ねられる。
 

 大地に育まれし熱が焔を生み
 燃え盛る炎の息吹が風となる
 天翔る風は雲を運び
 雲は乾いた大地に恵みの雨を降らせる
 其はすべて理に統べられればこそなれば
 我は祈り、感謝を捧げん
 嵐が炎を吹き消さぬように
 焔が大地を灼き尽くさぬように
 大地が河を塞き止めぬように
 霧が風を惑わせぬように
 火の憤怒を鎮め
 風の慟哭を慰め
 土の憂憫を宥め
 水の哀嘆を癒し給う
 万象を統べし理の主
 精霊王が御許に夢を結び
 今は微睡まん、時の至るまで


 精霊王に祈りと感謝を捧げ、世界の痛みを慰撫する歌声は、人々の心の片隅に刻まれた傷に優しく触れる。
 忘却を強いるのではなく在るがままに憎悪や悲哀を受け止めて浄化する救いの声に、人々は只言葉もなく温かな涙を流し続けた。
 那波と瑠璃玻の齎す癒しの力は、時と場所を越え、ミフル全土に及ぶ。
 その夜、積年の苦しみから解放されたミフルの民には、いつになく安らかな眠りが与えられた。