■第5話 喪失楽園■
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五華宴は、60年に1度5日間に渡って催されるミフル最大の祭事である。
ミフルの暦は夏至を1年の始まりとし、73日毎に5つの節に区切られている。
晴れ渡った空の青を謂れとする、夏の盛りの青玉節。
色づく木の葉や果実の彩りに由来する、実りの秋ともいうべき紅玉節。
水の恵みへの感謝を込めて深く澄んだ湖水の色から名づけられた冬の雨季、藍玉節。
芽吹いたばかりの若葉の色を採った、花と萌の緑玉節。
黄金の麦穂が風に波打つ様も美しい、小麦やオレンジの収穫時期にあたる黄玉節。
これらは元々地風水火の四大と空という自然界に存在する5つの精霊の力とそれらを統べる精霊王・槐に対する信仰に根ざしたものだが、そのままでは僅かずつではあっても天の星の運行との間に誤差が生じてくる。
その事に気づいた精霊祭殿――後の天象神殿である――の神官達は、6年毎に1日と60年毎に5日を新年祭に当たる光の祭祀の前に置く事によって暦のずれを正そうと新たな祭事を生み出した。
それが、6年に1度精霊王を祭る精銀祭と60年毎に執り行われる五華宴である。
精銀祭は、天象神殿の神官達による祈祷を中心に厳格なしきたりに則って粛々と営まれる祭儀としての色合いが濃い。
一方、五華宴は盛大な祭典として広く一般の民にも親しまれている。
60年ぶりの五華宴が開かれるその日、聖都メシエに在る天象神殿前の広場には夜明け前から多くの人が集まっていた。
朝未きの薄紅に染まる神殿の白い壁とは対照的な青い彩釉煉瓦で装飾された祭壇の上には、顔を伏せて跪く3つの人影が見える。
敬虔な祈りを思わせる彼等の姿に倣って、人々もまた頭を垂れ、静かに朝の訪れを待った。
やがて、メシエの街を囲む外壁の東端から、1日の始まりを告げる光が射す。
真白き曙光は、この日の為に計算され尽くした街並みを抜けて、真っ直ぐに祭壇を照らし出した。
束の間、目映い輝きが壇上を包み、振り仰ぐ群集の眼を灼く。
人々が眩惑から立ち直った時には、壇上の人影は祈りの姿勢を解いて立ち上がっていた。
朝露に洗われた薫風に、純白のマントの裾が翻える。
白は祈りと純潔の色。何者にも侵されない孤高とすべてを受け入れる寛容を併せ持つ聖色である。
その色を纏う彼等は、神と人との仲立ちをする巫覡としてこの場に在った。
向かって右に立つのは、朱鷺色の優雅な双翼を背にした「星神の舞姫」だ。
黒髪の巻き毛に生命力に溢れる赤銅色の肌をした彼女の左腕には星神の神器・相克の環【クラヴィウス】が陽光に煌めき、形の良い胸を覆うケープには鮮やかな深紅の糸で小さな円を囲む六芒星を描いた星神の紋象が刺繍されている。
左側には、銀光を放つ抜き身の片刃剣、太陽神の神器・【プロクシェーム】を携えた「太陽神の剣」と呼ばれる白金髪の聖剣士が従容たる様子で佇んでいる。
彼の背には金粉を塗した雪のように白く猛禽類のそれのように力強い2対の翼が有り、胸元ではためくケープには真円の上下左右の直線とその間に配した正三角形を光輝に見立てた太陽神の紋象が金糸で描かれていた。
そして、3対6枚の白銀の翼を広げて中央から広場を俯瞰しているのが、銀の艶を持つ黒髪の「月神の巫子」たる斎主である。
細い肩を包むケープには望の月を抱く三日月を象った月神の紋象が藍色の糸で縫い取られており、その頭部には両耳を覆う羽根飾りの如き月神の神器・言霊の翼【フィルミクス】が朝の光を受けて皓然と輝いていた。
綾、煌、瑠璃玻――共に天空三神の名を戴く3人の巫翅人が力の証である幻の翼を顕して立つ姿に、人々は陶然と息を呑む。
ある種の神聖ささえ漂わせる沈黙の中、夜明けを報せる時告げの鐘が打ち鳴らされた。
清々しい朝の空に鳴り響く高く清澄な鐘の音は、遠く広場を越えて蒼穹へと吸い込まれていく。
大気を震わせる音色の余韻が消え失せ再び静寂が戻るのを、瑠璃玻は待ち続けた。
風に靡く黒髪の下から、宵闇の藍と月光の銀の異彩眼が露わになる。
神秘的な色彩を帯びる双眸に威光と慈愛を湛えた瑠璃玻は、しんと静まり返る群集を見渡して静かに口を開いた。
「六十(むそ)の路を越え、今再び狭間の時は来たり」
張り上げられるのでもなければ甲走るでもなく、高過ぎも低過ぎもせず男女の別さえ判然としないその声は、不思議と明確に聴衆の耳に届く。
時此処に至って、期待に目を輝かせる民の視線を臆する事無く泰然と受け止める瑠璃玻の口から、大いなる祭典の始まりが宣告された。
「精霊王並びに天空三神に仕えし斎主の名の下に、我、ここに五華宴の開催を告げん」
掌を空に向け、軽く両腕を開いて立つ瑠璃玻の頭上に、ミフルの5つの季節の名と同じ色をした5色の光球が浮かび上がる。
「我が声は精霊王が声、我が言の葉は精霊王が言の葉。恵み深き「地」の黄玉、清浄なる「風」の緑玉、癒しを齎す「水」の藍玉、活ける力を与えし「火」の紅玉、侵し難き理を示す「空」の青玉。精霊王が5つの意思を表す5つの貴石の名を冠せし祝祭を大いに慶び、もってミフルの民の幸いたらん事を」
形良い唇から紡がれる呪力を帯びた言葉は、精霊王・槐への祈念であり、斎主が民へと送る言祝ぎでもあった。
瑠璃玻の宣旨は続く。
「これより5日5夜、ミフルは常ならぬ祭儀に入る。ミフルの民よ、過ぎ行く時に感謝を、来たる時に寿ぎを。精霊王が御許に心を合わせ、祈りを捧げよ」
薄布を幾重にも纏った両腕が天へと掲げられたのを合図に、互いに戯れるようにくるりと円を描いた5つの光球はミフル各地に向かって飛び立った。
同時に、祭殿の上空に無数の炎の華が花開く。
炎の魔法が織り成す光の芸術を、群集は歓呼を持って迎え入れた。
「ミフルに栄えあれ!」
「ミフルに幸いあれ!」
城郭の衛士達が高らかに吹き鳴らす角笛が響き渡り、神殿の正門が開け放たれる。
楽師と巫子の一団を乗せた幾台もの車輿が、色とりどりの花々と青々としたオリーブの葉で飾り立てられて人々の前に曳き出された。
空からは、蝶や花弁を象った光の欠片がちらちらと瞬きながら舞い降りて祭りの始まりに華を添える。
こうして、ミフルの歴史に残る祭典が始まった。
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