■第5話 喪失楽園■

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 目が眩むような光の洪水に、綾はぎゅっと瞼を瞑る。
 次に目を開いた時、其処は純白の異世界だった。
 まるであらゆる方向から光で照らされているかのように壁も床も天井も区別なく何処までも白い空間は上下左右の感覚を狂わせ、足許さえ覚束無い気分にさせられる。
 魔導の素養がない人間であれば、途方に暮れて立ち尽くすしかなかったろう。
 綾の巫翅人として培われて来た直感が、其処が転位の魔法の媒介となる亜空間だと告げる。
 だから、彼女の後を追うようにミフル各地の神殿から人々が送られて来た時も、綾は冷静に対処する事が出来た。
 とりあえず、治癒魔法が使える神官や魔導士に怪我人の治療に当たるよう指示を出し、各地を統べる立場に在る者を集めて騎士団員と協力して民を鎮めるよう要請する。
 転位の魔法は、運ぶ物の状態から転送先の場に与える影響まで細心の注意を要する繊細な魔導だ。
 まして、これだけの規模での発動である。
 動揺する民の心は、亜空間に置かれた方舟の場を不安定にさせ、正常な運行の妨げになる惧れがあった。
 幸い、年若い神官達や日頃から良く統率されている騎士団員らは、率先して綾の指示に従って動いてくれている。
 当面の責務は果たせたとほっと息を吐いた綾は、おずおずとした声に呼び止められた。
 「あの、」
 振り返れば、最近斎主付きになったばかりの神官見習いの少女が遠慮がちに綾を見つめている。
 綾が言葉を促すように微笑みかけてやると、少女は縋るような眼差しでこう問いかけて来た。
 「瑠璃玻様を見かけられませんでしたか?」
 瑠璃玻の不在。
 それは、綾自身も気づいていた事だった。
 方舟全体に、瑠璃玻の振るう力の気配を感じる事は出来る。
 けれど、その姿はない。そして、煌の姿も。
 綾には、それが何を意味するのか推し量る事が出来た。
 出来る事なら外れていて欲しい推測だが、おそらく違える事はないだろう。
 2人の周囲では、人々が秘かに聞き耳を立てている。
 彼等に及ぼす衝撃を思って、綾は返す言葉に詰まった。
 そんな彼女の躊躇いを断ち切るかのように、迷いのない声が容赦なく事実を告げる。
 「瑠璃玻は此処には来ない」
 「槐様!?」
 馴染みのある声の主を探して視線を巡らせる綾の前に降臨したのは、ミフルに君臨する精霊王・槐だった。
 普通の人間にはけしてあり得ない深い紅紫の髪に葡萄色の瞳。細い肩には大きな鷲が1羽止まっている。
 10歳にも満たない童子の姿でありながら、身の裡から溢れ出る霊気の強さと輝きはその場に居合わせた人々を圧倒した。
 慌てて膝を突き、頭を垂れる人々を見渡して、槐は無慈悲な現実を突きつける。
 「おまえ達を救う為、瑠璃玻は滅び行くミフルの地に残る道を択んだのだ」
 声音の幼さに反して、槐の言葉は重い。
 その重さは真実の持つ重さであり、槐の嘆きの重さでもあった。
 「彼の地で、瑠璃玻は今も祈り続けている。人の子等の想いを縒り合わせ、それでも足りない力を己が身を持って補う事で、天空三神が心血を注いで造り上げたこの魔導器を御する為に」
 身を賭し自らを犠牲にしてまでミフルの民を護らんとする瑠璃玻の崇高な志に心を打たれた人々は、ある者は跪いて涙を流し、またある者は天を仰いで瞑目する。
 しかし、槐の関心は、最早哀嘆に暮れる人々には向けられていなかった。
 半ば呆然と立ち尽くす綾に向き直った彼は、一転して穏やかな調子で口を開く。
 「星の娘、おまえに御雷を返しておこう」
 言葉の意味を理解できるのか、槐の肩で寛いでいた鷲は一声高く鳴くと綾の腕へと飛び移った。
 綾は、思いも寄らぬ申し出に戸惑いつつも懐かしい重みを受け止める。
 再会を喜ぶ1人と1羽をどこか父性を感じさせる表情で見守りながら、槐は静かに綾に語りかけた。
 「私は行かねばならない。如何に瑠璃玻といえど、独りで方舟の魔法を支えるのは荷が重い。故に私は方舟を安定させる為に力を尽くそうと思う」
 はっと撃たれたように顔を上げた綾の怯えを孕んだ視線を真っ直ぐに受け止めて、槐は続ける。
 「多くの精霊が力を使い果たすだろう。おそらく、彼等の姿が人の子の目に再び触れる事はあるまい」
 それは、精霊と魔法に護られた世界の終末を意味していた。
 重なる別離と喪失に打ち拉がれる綾の頬に手を添えて、槐は力強い口調でこう言い聞かせる。
 「だが、忘れるな。我等精霊は万物に宿り、森羅万象を統べる理の許、おまえ達を見守っているのだという事を」
 「…忘れないわ」
 滲む涙を懸命に堪えて、綾は笑顔でそう頷いた。


 

※  ※  ※


 崩れ落ちた屋根の向こうに見える灰色の空を、瑠璃玻はぼんやりと眺め遣る。
 壁面に走る亀裂は、大地が震える度に広がっている。
 滔々と流れ込む水は、地震によって寸断されたレイタ河の流れが溢れ出たものだろう。
 魔法陣が描かれた壇上の床だけはかろうじて残っているが、それもいつまで持つか。
 押し寄せる水に呑み込まれるか、聖堂そのものの倒壊に巻き込まれるか…瑠璃玻は、身近に迫る危機にどこか他人事のように想いを巡らせる。
 何れにせよ、方舟を動かす為に魔力を使い果たした今の瑠璃玻に、早晩訪れるであろう最期の時を回避するだけの力など残されていないのだ。
 幾度目かの大きな揺れに、力の抜けた身体がぐらりと傾ぐ。
 そのまま倒れ込む瑠璃玻を、腰に回された腕が背後から抱き止めた。
 「何故此処にいる」
 力強い腕にその身を委ねたまま、瑠璃玻は不機嫌に眉を顰める。
 「方舟に移れと言ったろう」
 咎める言葉を並べるばかりでけして自分を振り返ろうとはしない瑠璃玻に、腕の主は…煌は、ひっそりと微笑んだ。
 華奢な身体を抱き竦める腕に力を込めて、頑是無い幼子をあやすように耳許へと囁きかける。
 「何があっても、あなたを遺して逝ったりしない。ずっとあなたと共に在って、あなたを護り続ける。世界が終わってもあなたの傍にいるという誓いを違えるつもりは、俺にはありません」
 「…そんなものは覚えてない」
 甘く情熱的な訴えにも絆されず、瑠璃玻は頑なにつれない態度を貫こうとする。
 だが、煌は素気無い返答に堪えた様子も見せず、あっさりと切り返した。
 「瑠璃玻が覚えていなくても、俺が覚えてますから」
 返す言葉を失って、瑠璃玻は悔しそうに唇を噛む。
 そんな子供じみた仕草さえ愛しむように眸を細めて、煌は瑠璃玻の心が解れるのを待ち続けた。
 やがて、根負けした瑠璃玻が消え入りそうな声で呟く。
 「…おまえは莫迦だ」
 微かに濡れた響きを持つその声に、煌は応えようとはしなかった。
 大人しく腕の中に納まった瑠璃玻を抱いた煌が、冷えた石の床の上に腰を下ろす。
 静かだった。
 時折響く大地の悲鳴と流れ落ちる水音以外、聞こえるものといえば互いの鼓動と息遣いのみという静寂の中で身を寄せ合う2人の表情は、不思議と落ち着いている。
 遠い空から降る灰が瓦礫に積もり、視界を白く染めていく。
 雪のように、或いは花弁のように白い灰がひらひらと舞い落ちる景色は、何故だか酷く美しく感じられた。
 世界が終わろうとしている。
 ミフルの崩壊は止まらない。
 溢れる水は、もう2人の足許まで迫っている。
 小さく身動いだ瑠璃玻が、煌の胸に顔を埋めるように頬を摺り寄せる。
 縋るように背に回された腕に同じだけの強さで応えて、煌はそっと瑠璃玻の額に口づけを落とした。
 向き合う2人の背中に、幻の翼が現れる。
 お互いを包み込むように広がる翼の下で、瑠璃玻と煌は静かに目を閉じた。

 
 

※  ※  ※


 玻璃細工の卵のような透明の球体が、天象神殿を呑み込んだ水の中をゆらゆらと揺蕩っている。
 揺れる光越しに透かして見れば、互いを護る為に最後の力を振り絞って張られた結界の中で抱き合って眠る2つの人影が見て取れた。
 稚い寝顔を覗き込んだ青年が、場違いに陽気な笑みを孕んだ呟きを漏らす。
 「幸せそうな顔しちゃって」
 「ほんと、人の気も知らないで」
 溜息交じりに苦言を呈する少女の声は、それでもどこか柔らかい。
 微笑を湛えた清らかな声が、眠る2人に優しく語りかける。
 「おやすみなさい、瑠璃玻。どうか、安らかな夢を」
 そして、世界は眩い閃光に包まれた。