■第5話 喪失楽園■
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「熾輝と朱華の封印は無事解かれたようだな」
月神・那波の為の浄室とも言うべき夢殿、その磨き上げられた床に嵌め込まれた鏡の上に雪花石膏の彫像のような趣で佇んでいた瑠璃玻が、静かに呟いて伏せていた双眸を開く。
鏡は遠見の水鏡であり、方舟の封印でもあった。
そして、天象神殿の隠れた聖堂に続く扉でもある。
開放され、月神の紋象の形に光を放つ鏡の上で、言霊の翼【フィルミクス】を頭上に冠した瑠璃玻は華奢なその背に3対6枚の白銀の翼を広げると徐に口を開いた。
「聴け、ミフルの民よ。我が名は瑠璃玻、精霊王が巫子にして天空三神に仕えし斎主なり。我が声は精霊王が声にして、我が言の葉は精霊王が言の葉なれば、謹みて耳を傾けよ」
神々への言祝ぎを謳い上げるが如き厳かさをもって、瑠璃玻は高らかに語りかける。
細い頤を心持ち仰のけ、月光の蒼銀と宵闇の藍の瞳でひたと宙を見据える姿は、祭祀王たるに相応しく犯し難い威厳と美しさを備えていた。
「今まさにミフルの時が果てんとするこの危難にあたり、天空三神は我等に救いの道を示された。我が声を聴きしミフルの民よ、神殿へ、神々の聖域へと集い、祈りを捧げよ」
神々しいまでに気高いその姿は、凛然とした声が紡ぐ言葉と共に那波によってミフルのすべての民に伝えられる。
それは、方舟の封印を解くにあたって瑠璃玻が望んだ事だった。
方舟に掛けられた転位の魔法は、1度発動してしまえば遣り直しは利かない。
それ故、ミフル崩壊の瞬間までに1人でも多くの民を各地に在る神殿に――方舟に続く転位の門に導く事が不可欠なのだ。
民への宣旨を終えた瑠璃玻は、高められた魔力の余波で金属的な光沢を帯びた瞳を傍に控えていた那波に向けて、眼差しだけで感謝の意を告げる。
那波は、哀しげに柳眉を寄せて瑠璃玻に手を差し伸べた。
「ごめんなさい、瑠璃玻」
ほっそりとした指先が、愛惜しむように瑠璃玻の頬を辿る。
「私の我儘の所為で、貴方には辛い思いをさせてしまう」
足下の鏡が発する蒼白い光の中で、瑠璃玻は淡く微笑んだ。
「私がしたくてする事だ。那波が気に病む事はない」
悲嘆も、いつもの皮肉っぽさもない柔らかな笑みは儚げで、けれど透明感のある毅さを感じさせる。
鏡から溢れる白光の中に掻き消える瑠璃玻の姿を哀切な表情で見送った那波は、猛る焔を鎮める為に再び祈祷に戻った。
※ ※ ※
ミフル北部・ノルド地方に聳えるテニヤ山脈の麓の町ユークレースでは、凶暴化した妖の襲撃を受けていた。
「臆するな!」
覇気に満ちた声と共に鉤のついた広刃の穂先が一閃し、逃げ惑う民に迫る魔手を断ち落とす。
鮮やかな槍の使い手は、「隻眼の白鷹」の異名を持つ女騎士緋だった。
「相手は所詮は烏合の衆、我等の敵ではない!瑠璃玻様のお言葉に応える為にも、九鬼の家の誇りにかけて人々を無事神殿まで送り届けるのだ!」
武門の家柄として名高い九鬼の家を統べる長でもある彼女は、白金の長髪を翻して敢然と妖に立ち向かう。
九鬼の戦士は勇猛果敢、一騎当千の強者揃いだ。平時であれば妖や魔物如きに引けを取るものではない。
しかし、如何せん状況が悪かった。
度重なる地震で不安定になった岩肌は僅かの衝撃にも崩れ落ち、倒壊した木々があちこちで道を塞いでいる。
その上襲って来る敵の数が多いとあって、力弱き民を護りながらの行軍は彼等をして苦戦を強いられるものだった。
「くそっ、こんな時に!」
「妖や魔物とてミフルに生きる物、この大事に混乱を来たすのも無理はないが――」
次から次へと現れる妖のきりのなさに歯噛みする側近が漏らした呟きに、緋の意識がふと戦いから逸れる。
その一瞬の隙を衝いて、彼等の背後から強靭な爪を持つ妖が襲い掛かった。
「長!」
咄嗟に槍を構えて振り返った彼女の目の前で光刃が閃き、巨大な妖の体躯が真っ二つに叩き斬られる。
「助太刀するぜ、緋」
気安い調子でそう言って男臭い笑みを浮かべてみせる意外な人物を、緋は驚愕と歓喜の表情で迎え入れた。
「熾輝様!」
慌てて姿勢を正す一同の恐縮振りに頓着するでもなく、熾輝は気負わぬ口調でこう告げる。
「槐や那波も頑張ってるが、そろそろ限界が近い。此処は俺に任せてお前等も神殿に急げ」
幼い頃から煌を通じて天象神殿と馴染みの深かった緋は、面子に拘って退きどころを誤るような蛮勇の持ち主ではない。
「かたじけない」
誠意を込めて一礼した彼女は、同胞と民を率いて身を翻した。
ひょいと【カルサムス】を肩に担ぎ上げた熾輝は、彼等の殿後を護るように妖の集団の前に立ち塞がる。
「瑠璃玻が命懸けで護ろうって民に手出しはさせらんねぇからな」
気のない風を装う言葉尻とは裏腹に、その眸には熾しい戦意が宿っていた。
※ ※ ※
ミフル最大の商業都市であるナイキの港では、商家の元締めを務める六連が船の手配に奔走していた。
「食料や薬の積み残しはないか?余裕があれば酒も積み込め。布や毛皮も多い方が良い」
矢継ぎ早に指示を下す彼の許に、配下の商人がお伺いを立てに来る。
「美術品や宝玉の類はどうされますか?」
「残念だが、置いていくしかなかろう。金銀財宝じゃ命は繋げまい?」
「勿体無い話ですな」
商売人らしい感想に苦笑しておいて、六連は「あぁ」と思い出したようにこう言い添えた。
「食料を入れる壺や衣類の函は、どれほど高価な品でも構わんぞ?」
なるほど、と喜色を浮かべて走り去る部下を見送る六連の表情には、拭いきれない疲労感が滲む。
それでももう一仕事と歩き出そうとした彼を、幼さの残る少女の声が呼び止めた。
「潮時よ、六連。船を出しなさい」
「おや、朱華様」
軽く目を瞠った六連は、それでも突然降臨した女神に優雅に一礼してみせる。
「星神自ら我等に忠告される為にお越しいただくとは何とも恐れ多い事ですな」
こんな時にも諧謔を忘れない六連に呆れ交じりの溜息を吐いた朱華は、手にしていた品を無造作に彼の眼前に突きつけた。
「瑠璃玻からあなたへの贈り物を預かって来たわ」
「これは…!」
余裕綽々な態度が売りの伊達男で通る六連が、それを目にした途端思わず息を呑む。
一見すると何の変哲も飾り気もない藍銅鉱の玉でしかないその品を、六連はかつて瑠璃玻の私室で見た事があった。
震える手で玉を受け取る彼が知っている事を承知で、朱華は淡々とその謂れを語る。
「潮満《シオミツ》の珠。潮の満ち干きを操る海の秘宝よ。猛り狂う海にどれほど効果があるかは謎だけど、我が身を顧みず船を出すあなたにとって僅かなりとも護りとなればというのがあの子の願いよ」
確かに届けたわ、とだけ言い残して、朱華は現れた時と同じ唐突さで姿を消した。
束の間、感慨深げに掌中の珠を見つめた六連は、改めて威勢良く商人達に呼びかける。
「良いか!民の命は斎主様が護ってくださる。我々商人の役目は、生き残った人々が1日でも早く快適な暮らしを送れるように手助けする事だ。海が荒れようが嵐に遭おうが、何が何でも新天地に積荷を届けるぞ!」
※ ※ ※
神秘の島アイシオンの、精霊王の森の奥深く、宿りの大樹と呼ばれる欅の巨木に穿たれた虚の中で、常磐の名を継ぐ導士の長は静かに瞑想に耽っていた。
宿りの大樹が立つ空き地は、もともと柔らかな木漏れ日が降り注ぐ天然の庭園だった。
生い繁る枝葉の屋根の下、小鳥達の声を聴きつつ精霊王と語らう日々を、彼はこよなく愛していた。
だが、島の北部にある火山が火を噴いて以来、舞い上がる噴煙が空を覆い、アイシオンの地から光を奪ってしまった。
かつては獣達の息吹に満ち溢れていたこの森も、今は闇に閉ざされひっそりと静まり返っている。
うっすらと霧が漂う薄暗がりに、不意にふわりと灯が点った。
否、仄かな灯りと見えたのは、白い蝶である。
蝶は、きらきらと煌めく鱗粉を振り撒きつつ空き地を横切ると結跏趺坐する常磐の膝の上に舞い降りた。
かそけく翅が震えると同時に、何処からともなく人の声が聞こえて来る。
「常磐様、各地の地脈の要への導士達の配置が完了いたしました。これで今しばらくは時を稼ぐ事が出来ましょう」
それは、導士の使う識守だった。
「ありがとう」
常磐は、深い皺の刻まれた目許を綻ばせて労いの言葉をかける。
穏和な彼の表情には、哀惜の翳が落ちていた。
「皆には、苦い選択を強いてしまいました」
沈痛な響きの独白に、思いがけず闊達な声が返る。
「何の。我等精霊王に仕えし導士は与えられし力の総てを槐様に捧げると誓っております。ミフルの地に生まれ育まれし我が命なれば、この身共々ミフルの地へと還る事に何の異存がありましょう」
「…そうですね」
識守の主である導士の語る言葉は、常磐自身の偽らざる想いでもあった。
先代の常磐も、先々代も、それ以前からずっと、導士の長は巫翅人にも匹敵する力を総て槐に捧げ、ミフルを守る精霊を慰撫する事に費やしてきたのだ。
たとえ先に在るのが滅びであろうとも、ミフルの地への思い入れは誰よりも強い。
「後の事は斎主様と民自身に委ね、我々は精霊王が御許へと還りましょう」
誰にともなくそう呟いて、常磐は遥かなる地で孤独な闘いに身を投じた精霊王の巫子に想いを馳せる。
「瑠璃玻様、愛(かな)しき斎主。貴方が民に殉じるように、私達は世界に殉じましょう」
※ ※ ※
方舟の核となる魔法陣に身を置く瑠璃玻は、ミフル全土の出来事を、其処に息づく人々の想いを、すべて身近に感じていた。
天空三神の祭壇を擁する天象神殿前広場の地下に築かれたこの聖堂には、外部からの入り口は存在しない。
夢殿に在る鏡の扉を開く力を持つ者だけが、聖堂に足を踏み入れる事を許されるのだ。
煌と綾がそれぞれの封印を解いた今、此処を訪れる者はいない筈だった。
閉ざされたこの空間で、瑠璃玻はただ独りその時を待つ。
一際大きな地響きが、聖堂の壁を軋ませる。
目を閉じ、天を仰いだ瑠璃玻は、大地が苦痛に身悶えるように激しく波打つ様を脳裏に見て取った。
次の瞬間、我が身を引き裂かれるような痛みが瑠璃玻を襲う。
激痛の最中、瑠璃玻はミフルの大地に無数の罅が走るのを視た。
大地の殻を突き破って焔が噴き出し、裂けた陸地に荒れ狂う海の水が怒涛となって流れ込む。
衝撃に聖堂が崩れ落ちる直前、瑠璃玻は方舟の魔法を解き放った。
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