■第5話 喪失楽園■
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太陽神・熾輝の奉剣場は、天象神殿の中でも本殿からはやや離れた一画を占める木立の先に在る。
平時には騎士団の演習にも使用される施設だが、祭事にあっては剣皇に捧げられる御前試合や奉納試合の舞台となる場所だけに、その造りは無骨一辺倒の練兵場とは程遠い。
円形の闘技場を取り囲む壁面には優雅な彫刻を施した勾欄を備えた階段状の観覧席が廻らされ、入り口の正面の壁に掲げられた太陽神の紋象の真上には天蓋を備えた貴賓席が置かれている。
高い丸天井は贅沢にも一面青金石に埋め尽くされていて、その金粉を塗したかのような深い青は見上げる者に晴れ渡った蒼穹を思い起こさせた。
数十組の剣士が一斉に手合わせを行うのにも充分な広さを誇る闘技場の床には白い大理石が敷き詰められており、こちらも瑠璃と黄金で太陽神の紋章が描かれている。
その広壮な空間で、熾輝は悠然と煌の訪れを待ち受けていた。
「よぉ、来たな」
思いつめた表情で扉を押し開く煌に、熾輝は壁に凭れ掛かったまま気安くそう声を掛ける。
「まぁ、【プロクシェーム】がお前の手に在る以上、こうなるとは思ってたけどな」
煌が腰に佩く片刃の長剣にちらりと目を遣って、熾輝は抜き身の大剣【カルサムス】を肩に担ぐとひょいと体を起こした。
そのままゆったりとした足取りで歩み寄る熾輝を、煌は奉剣場の中央で待つ。
だが、熾輝が煌の面前に立つ直前、不意にぶんと風を切って【カルサムス】が唸った。
煌は、反射的に抜き放った【プロクシェーム】の刃元で突然の攻撃を受け止める。
【カルサムス】の鋭利な切っ先は、煌の頸をぴたりと捕らえていた。
「大きな事を為そうとすれば、それ相応の試練が待ち構えてる――なんてな」
完全に虚を衝かれた状態にも拘らず身動ぎひとつせずに見つめ返してくる煌に、熾輝は悪びれた風もなくにやりと口角を上げてみせる。
性質の悪いその笑顔は、魅力的でどこか憎めないものだった。
「お前とは、1度本気で戦ってみたかったんだ」
まるで友人を遊びに誘う少年のような悪戯っぽい碧い眼の奥に苛烈な戦士の性を滲ませて、彼は煌を挑発する。
「来いよ、煌。お前の覚悟を見せてみろ」
【カルサムス】は、柄まで含めれば大柄な熾輝の身の丈程もある諸刃の大剣だ。
硬度が高く軽量なこの世で最強の金属氷煉鋼を用いているとはいえ、幅広で長大な刀身を持つだけにその重さも尋常ではない。
その長大な【カルサムス】を、熾輝は揺るぎなく肩の高さで水平に掲げる。
好戦的な目をして笑う彼の本気を悟った煌は、ふっと体の力を抜いて剣を下ろした。
瞼を伏せ、左半身をやや引いて静かに右斜め正眼の構えを取る。
再び顔を上げた煌の視線が熾輝のそれと交わるのが、開戦の合図となった。
強健な腕で【カルサムス】振りかぶった熾輝が、体重を乗せた一撃を振り下ろす。
膂力で劣る煌は、重厚な斬撃を真っ向から受け止める愚を犯さなかった。
敏捷な身ごなしで飛び退く煌を追って、熾輝は【カルサムス】を閃かせる。
彼が剣を横に薙ぎ、或いは袈裟懸けに振り下ろす度、斬撃から生じる衝撃波が煌の膚や衣服を切り裂いた。
煌は、傍目にはしなやかな、その実かなり際どいタイミングで攻撃を躱しつつ、隙を突いて反撃に転じる。
彼の愛剣である【プロクシェーム】は、【カルサムス】とは対照的な印象の片刃の長剣だ。
祭儀の際に斎主や神官等が扱う事を意識して作られた為に剣身は細く、装飾的な鍔や護拳は一見華奢にすら見える。
だが、剣皇と謳われる熾輝の手によって生み出した剣だけに、実際には充分実戦に耐え得る強度を持つ逸品だった。
両手でも扱えるよう長めに拵えられた柄を右手で握り、左手を軽く添えて、煌は己の腕の延長のように【プロクシェーム】を振るう。
滑らかに弧を描く優美な剣の動きは舞の所作のようで、それでいて闘技として理に適うものだった。
剣身が銀色の扇状にしか見えない程の速さで、彼の繰る剣は風を斬り宙を裂く。
最初の内こそ熾輝に剣を向ける事に躊躇いを覚えていた煌だったが、その身に流れる九鬼の血はその場を支配する闘気に感応する。
戦いを楽しむかのように息の合った動きで刃を交える2人の太刀筋は、徐々に鋭さを増していった。
斬りかかる。受け流す。刃を返す。払い除ける。刺突する。弾き返す。
目まぐるしく位置を変え、攻守を入れ替える彼等の動きにはまったく無駄がない。
それは、この闘いが青玉祭の御前試合の時のような魅せる為の剣技ではなく、殺傷を目的とした本気の斬り合いだという事を表していた。
立ち回りそのものはけして大きくはなく、派手さも華やかさもない。
だが、武道の心得の有るものならば我知らず息を呑んで視線を奪われる――そんな、研ぎ澄まされた美しさがそこには在った。
元々流儀は違っても実力の伯仲する剣の使い手同士だ。
その上、稽古と称して頻繁に手合わせをしてきた彼等は、互いの手の内も知り尽くしている。
2人の勝負は、永遠に続くかに思われた。
勢い良く打ちつけられた剣を鍔でがっちりと受け止めた煌が、毅い眼差しをひたと熾輝に据えて口を開く。
「訊きたい事があります」
「何だ?」
「此処に来たのが瑠璃玻でも、あなたは剣を向けましたか?」
「…いいや」
ふっと頬を緩めた熾輝は、力尽くで煌を突き飛ばすと苦い笑みを浮かべてこう応えた。
「あいつの覚悟は、厭って程解ってるからな。今更試すまでもないさ」
その上で、再び間合いを詰めると、斬りつけざまに逆に問いを投げかける。
「おまえは、方舟の動かし方を知ってるか?」
彼の精悍な顔に刻まれた見覚えの有る表情に、煌は微かに胸騒ぎを覚えた。
父性にも似た慈しみと痛ましさの入り混じった沈痛な面持ちは、瑠璃玻を案じ無茶を嘆く時のそれではなかったか?
「あれは、人々の想いの力を糧に動く魔導器だ」
動揺する煌とは裏腹に、切り結ぶ剣は些かたりとも緩めぬまま、熾輝は淡々と続ける。
「想う心は、時に人に強い力を与える。愛する者を護る為、夢を、理想を叶える為に、或いは欲望を満たす為に…人は思わぬ力を発揮する」
自身もそうして巫翅人となり、神と呼ばれる身となった彼の言葉には、真実を語るに足る深さと重みが有った。
何故今になってそんな事を語るのか、彼の真意が掴めないまま、煌は神妙に熾輝の話に耳を傾ける。
「尤も、魔法に疎い普通の人間には思念を魔力に変える術なんてないからな。だから俺達は、ミフル全土に神殿を築かせ、神官達を配した。人々の祈りを神官達が束ねる事で、初めて魔導に供するに足る状態になるって筋書きだ」
「なるほど」
剣を弾いて距離を取った煌は、呼吸を整えつつ低く呟いた。
「それで、民を神殿に集めているんですね」
「そーゆー事」
教師が出来の良い生徒を褒めるように、熾輝はにっこりと破顔する。
「危難に当たって、人々が心をひとつにして救いを希うなら良し、私利私欲に走り狂乱状態に陥るならそれまでってわけだ。祈りに応えて奇跡が起きる、なんて劇的だろ?」
おどけるように片目を瞑ってみせた彼は、だが、唇の端を皮肉っぽく歪めると声の調子を落として忌々しげにこう吐き捨てた。
「だが、権力は人心を腐敗させる。残念ながら神職者連中も無私の心で神に仕える人格者ばかりじゃない」
正義神である熾輝にとって、自分達に仕える神官達の堕落は許し難いものに違いない。
「どれほど恵まれた魔力の持ち主だろうと、それを磨こうともせず、神殿の威を借り己が地位に驕って慢心し、私腹を肥やす事に夢中になってるような輩には祈りを力に換える事なんざできやしない。必然的に、方舟を動かす力は不足する」
突き放した口調で厳然とした事実を告げた熾輝は、険しい顔つきで煌を見据えて重大な秘密を口にする。
「瑠璃玻は、足りない力を自らの魔力で補うつもりだ。だが、いくら瑠璃玻でもミフルの民総てを転位させる程の魔法は荷が重い。本来なら人間独りの力でどうにか出来るもんじゃないんだ。魔導器の力を最大限まで引き出そうと思ったら、方舟の中枢を成す魔法陣から離れるわけにはいかないだろう」
つまり、瑠璃玻は最期までミフルに留まるつもりなのだと…命を懸けて民を護る瑠璃玻の覚悟を語る彼の言葉は、しかし、最後まで紡がれる事はなかった。
「おわっ!!」
掬い上げるように振り抜かれた【プロクシェーム】が、咄嗟に身を退いた熾輝の鼻先を掠める。
それまで無意識の内に加減されていた煌の力が、瑠璃玻への想いによって解き放たれたのだろう。
雷光の如き迅さで繰り出される剣が断ち切った熾輝の髪が、黄金の雨となってはらはらと舞い落ちる。
「ほんっとに解り易いヤツだな!」
内に秘めた熾しさのままに容赦なく攻め立ててくる煌に圧されて次第に壁際へと追い詰められていた熾輝は、苦笑混じりにそう言い捨てると起死回生を狙って【カルサムス】を一閃させる。
会心の一撃は、それでも煌ならぎりぎりで躱せる筈のものだった。
だが、煌は熾輝の予想を大きく裏切る行動に出た。
振り下ろされる剣の軌跡に、自ら飛び込んで来たのだ。
「っ!!」
間一髪で剣を留めた熾輝の顔の脇を、蒼白い刃光が走る。
ガッという鈍い音と共に、【プロクシェーム】の切先は壁に飾られた太陽神の紋象に突き立てられた。
「っぶねぇな!ほんとに斬っちまったらどうするんだ!?」
「あなたなら、俺を斬り殺す前に剣を止められると思ってましたから」
肝を潰す思いを味わった反動で思わずがなり立てる熾輝をあっさりといなして、煌は【プロクシェーム】に力を注ぎ込む。
煌の狙いは熾輝ではなく、彼が背にした紋象の方だった。
罅割れた彩釉煉瓦の隙間から眩い光が溢れ出す。
「あーあ、見つけちまったか」
頬を伝う血を無造作に拭った熾輝は、芝居がかった仕草で額に落ちかかる髪を掻き揚げつつ溜息を吐く。
「こいつが俺の分の封印だ。って言っても、もう解放されちまってるけどな」
闘気に反応して高められた煌の意志の力が【プロクシェーム】を介して封印と共鳴し、彼にその在り処と解放する術を報せた。
最初から、そのつもりで、熾輝はこの一騎打ちを仕掛けたのだ。
光の洪水は既に薄れ、今は毀れた壁の上に淡い燐光が太陽神の紋象を象っている。
煌は、その中心に突き立てた【プロクシェーム】を引き抜くと、当然のように封印に背を向けて歩き出した。
「おーい、何処に行くつもりだ?」
方舟への転位の門は、封印の先に在る。
奉剣場の入り口に向かう彼の歩みは、その真逆を行くものだ。
のんびりとした調子で呼び止める熾輝を肩越しに振り返って、煌はただ一言端的な答えを返す。
「瑠璃玻の傍に」
それきり足早に歩み去る後姿を見送って、熾輝は深々と嘆息した。
「やれやれ、しょーがねーな」
「仕方ないわ。あの子は、昔から瑠璃玻の事になると結構見境なくなるもの」
大袈裟に肩を竦める熾輝の隣に、燃え立つような橙赤の髪を揺らして朱華がふわりと降り立つ。
幼さの残る声に相応しからぬ諦観の滲む寸評に「あぁ確かに」と頷いて、熾輝はうんと大きく体を伸ばした。
「さて、と。そんじゃ、こっちはこっちで務めを果たすとするか」
「そうね」
素っ気無い答えを残して、朱華の姿が再び掻き消える。
大儀そうに【カルサムス】を肩に担ぎ上げて、熾輝もまたその場を後にした。
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