■第5話 喪失楽園■
(1)
夏のミフルの空は青が深い。
波打つ麦畑の黄金、木々の緑、甘い香りを放つオレンジの実と風に揺れる小さな白い花――そういった初夏の恵みが豊かな色彩を競う中にあって尚、蒼穹の青は一際鮮やかな彩りを見せる。
青玉節の謂である。
だが、来たる季の名を先取りしたかのようにすっきりと気持ち良く晴れ渡った空とは対照的に、天象神殿の謁見の間で客人と相対する斎主は花の顔(かんばせ)を重く曇らせていた。
「瑠璃玻様におかれましては、些か機嫌を損なわれておられるご様子。憂い顔も大層美しくていらっしゃるが、せっかくなら麗しの笑みを拝謁させて頂きたいものですな」
天空三神の紋章を背負う玉座の前に優雅な所作で片膝をついた男は、開口一番歯の浮くような台詞回しで瑠璃玻を宥めにかかる。
彼の名は六連《ムツラ》、商業都市ナイキで数有る商家の元締めを務める要人だ。
年の頃は四十そこそこと海千山千の商人達の間ではまだまだ若年の部類に入る彼がそのような重職に就いているのは、その辣腕に加え優れた人柄に因るところが大きい。
言葉遣いこそ丁重ながら斎主である瑠璃玻を相手に忌憚なく思ったままを口にしてしまえるのも、彼ならではの事だった。
品の有る燻色の髪に甘く彫りの深い顔立ちで気障な立ち居振る舞いも厭味にならずにこなす伊達男だが、斎主である瑠璃玻に懸想して独り身を貫いていると公言して憚らない変わり者でもある彼に、瑠璃玻もまた気を許しているのだろう。
「あぁ、すこぶる不機嫌だ」
賓客をもてなすには程遠いぞんさいな態度からも、瑠璃玻の六連に対する気安さが窺える。
「聞けば、またお偉方と一悶着あったとか。煌殿が案じておられましたぞ」
「欲の皮の張った業突張り共が!」
窘めるような響きを孕んだ六連の言葉に、瑠璃玻は噛みつくような勢いで反発した。
その剣幕に大体の事情を察したのだろう。
六連は深まる苦笑を隠すようにそっと面を伏せる。
瑠璃玻の不興の原因は、その日の朝議にまで遡る。
その席で、ジュナの星辰神殿より遣わされた急使は、レイタ河の氾濫とそれによって引き起こされた窮状について訴えた。
「此度の氾濫による水害はジュナの一部を含むレイタ河下流の広範囲に及んでおります。特に河沿いに居住する漁師や農民への被害が甚大で、負傷者も多数出ている模様です。これらの被災地では衛生状態も非常に悪化しており、このままでは餓えて弱った民の間で流行病が発生する惧れもあるかと」
「既に、現地には治癒魔道を得手とする神官と薬師を数名ずつ派遣した。精霊王の導士達も協力してくれている。疫病については心配しなくとも良い」
瑠璃玻の端的な、しかし適切な処遇を示唆する発言は、急使の心を僅かなりとも安んじさせる。
彼は、夜通し駆けて来た労を労わる瑠璃玻の言葉を胸に、心身を休めるべくその場を退出した。
問題は、その後の神官達との遣り取りに有る。
きっかけは、派手好きで知られる大神官の1人のこの一言だった。
「この機会に、いっそ大規模な治水工事によりレイタ河の流れを変えてしまっては如何なものか」
「精霊王の巫子として、そのような暴挙は承服しかねる」
大きな事業で名を上げようという魂胆が見え隠れする彼の進言を、瑠璃玻はにべもなく退ける。
だが、瑠璃玻が斎主としての見解を述べたにも拘らず、大神官は自身の言い分を貫こうと言葉を重ねた。
「しかし、放っておけば同じような災害が二度、三度と起こりかねませぬぞ」
居合わせた者の多くが尤もだとばかりに頷くのを見た瑠璃玻は、溜息に疲労の色を滲ませつつ高位の神官等に向かって精霊王・槐の教えを説く。
「そもそも、昨今の水害はミル樹海の無計画な開墾に端を発している。森の樹木は枝葉に雨水を溜めて急激な河川の増水を防ぎ、その根で土を食んで土砂の流出を抑えていた。それらの恩恵を無に帰したのは人の子の欲と傲慢だ。この上河の流れを枉げるなど、精霊王の御心に適うと思うか?歪みはやがて更なる災いを呼ぶだけだと何故解らない?」
「だが…」
「くどい」
それでも更に食い下がろうとする大神官を鋭い一瞥で黙らせて、瑠璃玻はミフルを治める祭祀王としての裁可を下した。
「無論、決壊した堤は早急に修復するし、これ以上人里に害が及ばぬよう遊水地も配する。だが、今は何より被災者の為に食料や衣服等の援助物資を手配する方が先決だ」
そこに、財務を任されている別の大神官がおずおずと口を挿む。
「このところの天候不順や天災の多発により、神殿の備蓄もかなり減少しておりますが…」
確かに、ここ数年、ミフルでは異常気象や大規模な災害が続いていた。
今年に入ってからだけでも、秋口の降雹による果樹への被害に始まりテニヤ山脈で起こった大雪崩にユタの震災、そして今回の氾濫と枚挙に暇がない状況だ。
おかげで、愛と死の女神と謳われる星神・朱華の舞姫として彼女の名代を務める綾などは、休む間も無く慰霊の為に各地を飛び回る羽目に陥っている。
しかし、だからといって現に苦難に遭っている民を捨て置くわけにはいかない。
「既に、今年の麦の収穫は目処が立っている。来期の種苗に充てる分以外の蓄えは全て分け与えよ」
人道的見地に立った妥当な判断に、だが、財務担当の大神官は承諾を渋る素振りを見せた。
「ですが、ここで備蓄を使い果たしてしまっては、来年凶作だった場合の対処に苦慮するのでは…」
「来年の事など――っ」
ぐずぐずと言い募る相手に焦れたのか思わず感情的に声を荒げかけた瑠璃玻が、何かに撃たれたかのようにはっと息を呑む。
ぎりと唇を噛む瑠璃玻に代わって口を開いたのは、ミフルの政を司る太陽神・熾輝だった。
「もう良い。ナイキの商人に連絡を取って、国外から物資を取り寄せさせる。代価には我々天空三神への寄進と瑠璃玻個人の資産を充てる。それなら文句はあるまい?」
剣皇と崇められる傍ら自由と誇りを愛する正義神としての側面も併せ持つ熾輝の侮蔑も露わな問いかけに、大神官達は漸く恥じ入って口を噤む。
瑠璃玻は、今更ながら阿るように協力を申し出る神官達を残して早々に席を立ち、今に至るというわけだ。
「奴等は神殿の財を己が富と思い違いをしているのだ!だから、少しでも目減りするような事態となると途端に厭な顔をする!」
「度重なる災いに加え佞臣への憂慮、ご心痛お察し申し上げます」
表向きは粛々とした態度を保ちつつ、六連は内心では瑠璃玻の義憤に同調する。
商人が富を求め、財を築くのはある意味当然と言えよう。
だが、神に仕え民を導くべき神殿の重鎮等が富や権力に固執するとは何と愚かしい事か。
それに、そもそも一流の商売人は物事の軽重を見定める眼を持ち合わせており、金離れも良いものだ。
己が財に見苦しく執着するのは三流以下、否、なまじ聖者の皮を被っているだけに尚の事性質が悪いと、商いで身を立てる者の矜持を持って六連は断ずる。
「食料については、既に事態を聞き及んだ外つ国からの見舞いの品が港に届いております。加えて、旅の商人等とも連携して各国が抱えている余剰な在庫を安く仕入れられるよう手配いたしました。そちらも、もう間も無く納入できる予定です」
顔を上げ、殊更に心強い口調で確約を示す六連に、瑠璃玻はここに来て初めて僅かながらも愁眉を解いた。
「すまない、六連。恩に着る」
「何、月夜の君の御為とあらばこの程度の事、何程もありませぬ」
心から礼を告げる瑠璃玻の手をとった六連は、熱の篭った眼差しを瑠璃玻に向けて芝居がかった台詞を口にする。
柔らかな月明かりを思わせる象牙の肌に夜の闇の如き漆黒の髪、宵闇の藍と月光の銀の異彩眼を持つ瑠璃玻に似合いの二つ名は、六連の曽祖父で同じくナイキの豪商だった八尋が好んで呼んでいたものだった。
束の間蘇った記憶に淡く微笑む瑠璃玻を満足そうに見遣って、六連は握っていた繊手を放す。
そうして、何処からか風に運ばれて来る楽の音にふと目を細めた彼は、誘われるまま窓辺へと歩み寄った。
「あぁ、もうすぐ五華宴ですな」
つられて、瑠璃玻の視線が窓の外の青い空へと向けられる。
「祭りによって精霊が慰撫され、死者の魂が鎮められれば、民の心にも喜びと慰めが齎されましょう。どうか、瑠璃玻様も余り思い詰め過ぎませぬよう」
「…そうだな」
六連の衷心からの気遣いに、瑠璃玻は曖昧に頷く事で応えた。
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