■第4話 精霊の森■

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 識守の蝶は、木の下闇に白い燐粉を振り撒きつつ、優雅な動きに似合わぬ素早さで泉へと飛来した。
 手早く湯帷子を脱ぎ捨て衣服を纏った瑠璃玻は、忙しなく頭上を舞う蝶に向かって手を差し伸べる。
 「空木か?」
 白い蝶は、ほっそりとした指先に止まるとはたはたと翅を震わせた。
 「お寛ぎのところをお邪魔する無粋をお許しくださいませ」
 蝶が翅を動かすのに合わせて、聞き覚えのある空木の声がそう応える。
 「つい先程、衛司よりアイシオンの地への魔物の侵入が確認されたとの報告がございましたので、念の為お知らせに上がりました」
 「魔物?妖ではなく?」
 不審気に眉を顰める瑠璃玻の問いに、空木の識守は冷静に感情を排した口調で答えた。
 「妖とは故なく彷徨うものと心得ております。此度の侵入者の動きは明らかに作為的なもの。その身に宿す禍つ気から見ても、魔の物に間違いないかと」
 「魔物が精霊王の領域を侵すか」
 瑠璃玻は、難しい表情で唇を噛む。
 それまで2人の会話に口を挿まずにいた綾だったが、瑠璃玻の憂悩の意味を図りかねて煌にそっと問いかけた。
 「どういうこと?」
 「アイシオンは精霊王の聖域ですから、魔物の類は滅多な事では近づけない筈なんですよ」
 気遣わしげに瑠璃玻を見守る視線はそのままに、煌もまた思わし気に眉根を寄せる。
 彼等の疑問に対する答えは、空木の口から告げられた。
 「侵入者には、加護の魔法がかけられた痕跡があるとの事」
 「魔物に加護の魔法ですって!?」
 横で聞き耳を立てていた綾が、思わず声を上げる。
 加護の魔法は祝福と聖別を授ける神聖魔法のひとつだった。
 当然、在野の魔導士に使える呪文ではない。
 それが魔物にかけられていたという事は、すなわち、この件の裏に神殿関係者の存在が隠されている事を意味していた。
 空木は、言わずもがなの事を遠慮がちに言い添える。
 「さすがにこの森に足を踏み入れる事は叶わぬようですが、何者かが襲撃を企てた可能性も考えられます。御身に何か在っては大事になりましょう。どうぞお気をつけくださいませ」
 「…解った」
 しばしの逡巡の後に、瑠璃玻は決然と面を上げて口を開いた。
 「空木は、導士達に警戒を促してくれ」
 瑠璃玻の指示を了解した証に大きく翅を羽ばたかせた空木の識守は、指先から飛び立つと宙に解けて姿を消す。
 それと入れ替わりに、槐が音もなく木々の間から姿を現した。
 「槐」
 「事情は承知している」
 我知らず心許無げな眼差しを向けた瑠璃玻が何か言うより早く、槐は力強く頷いてみせる。
 そうして、立ち尽くす彼等の横を通って泉の辺へと歩み寄ると、徐にその場に膝をついた。
 「これを返しておこう」
 彼が泉の水に手を浸すと、見えない力に曳かれるように水底から仄かな光が浮かび上がってくる。
 「本当は、ギリギリまで仕舞っておいて君の滞在を1日でも引き伸ばすつもりだったのだが」
 そう言って槐が引き上げた掌の上、ぽうっと淡い燐光を放つ球体の中に、それは在った。
 月神・那波の神器、言霊の翼【フィルミクス】。
 斎主の王冠とされるそれは、冠と呼ぶには些か変わった形状をしていた。
 細かな魔法文字の象嵌が施された半円状の銀環の両端が曲げられていて、首の後ろから耳に掛ける仕様になっている。
 鉤状になった部分には、装着者の両耳を覆うように鳥の翼を象った装飾が施されていた。
 その名の由来となったと思しき羽飾り以外には宝玉が嵌め込まれているでもなし、然程高価なものとは思えない…どちらかといえば簡素に過ぎる品を、槐は恭しい手つきで瑠璃玻に差し出す。
 「那波から、熾輝の阿呆が余計な発言で謀反の兆しがある輩を煽った事は聞いていたからな。神殿に裏切り者がいるとしたら、其奴等の狙いは十中八九【フィルミクス】だろう。それなら、君が持っていた方が良い」
 口には出さなかったものの、槐は【フィルミクス】だけでなく瑠璃玻の命が狙われている可能性をも危惧していた。
 その上で、【フィルミクス】が瑠璃玻を護る力になり得るという点を考慮して、予定より早く手放す事を決めたのだ。
 槐の思惑に気づいた瑠璃玻は、【フィルミクス】を受け取りつつ躊躇いがちに口を開きかける。
 その時、突如として森の外縁部から声にならない悲鳴が湧き上がった。
 弾かれたように視線を上げて周囲を見渡す瑠璃玻達の耳に、導士達が交わす念波が飛び込んでくる。
 「樹が!」
 「魔物が森に火を!」
 槐の結界に阻まれた魔物の群れの中に、火炎属性の生物が混じっていたのだろう。
 単なる腹いせか、或いは何者かの導きによるものか、それらが森の木々に火を放ったらしい。
 静寂に包まれていた森に、混乱した導士達の思念と木々の苦鳴が木霊する。
 頭蓋が割れそうな音声に耳を塞いでいた綾は、瑠璃玻の呟きを聞き漏らした。
 「私の所為だ」
 「瑠璃玻?」
 訝しげに訊き返す綾の声に、応えはなかった。
 「導士達の護りとこの森の魔法を過信した。此処でなら【フィルミクス】も安全だろうと高を括っていた。危険を運ぶ可能性を考えるべきだったのに…」
 俯き加減で悔悟の言葉を紡ぎ続ける瑠璃玻の只ならぬ様子を、槐は危ぶむ。
 「君の所為ではない、瑠璃玻。悪いのは容易く堕落する人間共と、その思惑に踊らされた魔物達だ。君が自分を責める必要はない」
 だが、言葉を尽くしての慰めも、今の瑠璃玻には届かなかった。
 「私が、この地に災いを齎した!」
 血を吐くような叫びと共に、瑠璃玻の背に白銀の翼が現れる。
 同時に、解き放たれた力が風の壁となって周囲を圧倒した。
 「何をするっ!?」
 槐が伸ばした手を振り解いて、瑠璃玻は自ら【フィルミクス】を身に着ける。
 顔を上げ、空を抱くように両腕を広げた瑠璃玻の口から、凛とした声が響き渡った。
 「今ぞ、起て精霊よ!我が求めに応じ、疾く馳せ参じよ!」
 「止せ!!」
 瑠璃玻の意図を悟った槐は、必死の形相で制止の声を放つ。
 しかし、それさえも瑠璃玻の詠唱を止める事は出来なかった。
 「万物を象るものよ!精霊王が御許に集いし始原の諸力よ!汝らの宿りし杜を蝕む暴虐の焔を、偉大なる御業持て滅却せよ!」
 呪詞の完結と同時に、突風が渦を巻いて辺りを薙ぎ払う。
 精霊の森に、時ならぬ嵐が訪れようとしていた。