■第4話 精霊の森■
(8)
宿りの大樹の裏手に広がる木立を抜けた先に、槐の言っていた泉はあった。
暖かな水面と冷えた大気との温度差の為だろう。辺りには、泉から立ち上る湯煙が濃い霧となって立ち込めている。
木々の間を縫って射す冬の儚い陽射しが揺らめく靄に反射して、幻惑的な風景を作り出していた。
岸の近くまで来た綾の耳に、ぱしゃんという水音が聞こえてくる。
茂み越しに見渡すと、袖なしの白い湯帷子を身に着けた瑠璃玻が泉の中に半身を沈めているのが見えた。
濡れて深みを増した黒髪が、降り注ぐ木洩れ日を弾いて銀色の艶を帯びる。
瑠璃玻は、掌に湯を掬っては、宙に差し伸べた腕を伝い落ちる雫をその身に浴びていた。
うっとりと心地良さそうに目を閉じて仰のいた横顔からは、見ようによっては恍惚の色さえ感じ取れる。
妙に艶めかしい眺めに目を奪われていた綾は、ここに至ってはたと考え込んでしまった。
華奢な体つきや繊細な美貌に惑わされて失念しがちだが、瑠璃玻は厳密に言うと女性ではない。
では男性なのかというとそうでもない――否、どちらでもある、というべきか――双つの性を持つ半陰陽の身の上なのだ。
綾自身は、瑠璃玻の肌を見るのも瑠璃玻に肌を見せるのも抵抗を感じない。
だが、妙齢の女性としては、異性との混浴となると普通は躊躇いを覚えるものではないだろうか。
だからと言って変に意識するのも今更な気がするし、どうしたものか…などと思い悩んでいるうちに、水音が近づいて来る。
「いつまで其処で覗き見をしているつもりだ?」
からかい混じりに投げかけられた声が、彼女の意識を現実に引き戻した。
「別に、覗いてたわけじゃ…」
慌てて反駁しようと顔を上げかけた綾は、泉から上がって来た瑠璃玻の姿に息を呑む。
髪から滴り落ちる水滴を辿る彼女の視線は、瑠璃玻の胸元に釘付けになった。
「あぁ、これか」
それに気づいた瑠璃玻は、湯帷子の襟元を肌蹴させて左胸を顕にする。
鎖骨の下、丁度心臓のある辺りに、二藍で斎主の徴である有翼円盤が描かれていた。
それだけではない。
水を含んでぴったりと肌に張りついた布越しに透けて見える肌には、いたるところに同様の呪紋の類が見て取れる。
右腕には世界の始まりと終わりの言葉とされる『混沌より生じしもの、すべて時と共に混沌へと帰す』の文言が刻まれ、左手の甲には精霊王の眼と呼ばれる紋様が記されている。
脊椎の下端に当たる腰の窪みには三界法図があり、更に、右足の太腿には相対する理念の融合を表す双頭翼蛇の呪紋が足の付け根にかけてのかなり際どい位置を這っていた。
「これは、刺青ではなく特殊な色素を魔法で焼きつけたものだ」
瑠璃玻は、どぎまぎと目を逸らす綾を面白そうに見遣って、文字の描かれた右腕を差し示す。
「術者本人には容易く消す事の出来る代物だが、こんなもので神殿のお偉方連中が気が済むならとそのままにしている」
日頃手の甲までも覆う服をきっちりと着込んでいるのは、これらの呪紋を人目に触れさせないようにする意図があっての事なのだろう。
思いがけず知った瑠璃玻の苦労に同情の念を抱きつつ、綾は引っ掛かりを覚えた言葉を鸚鵡返しに訊き返す。
「神殿のお偉方って?」
それに対して、瑠璃玻は形の良い唇に皮肉な笑みを閃かせる事で応えた。
「当初の目的では、これらの力有る印によって私の力を削ぐか、せめて制御できるようにと画策されたらしい」
今も昔も変わらない天象神殿上層部の体質に、綾は露骨に柳眉を逆立てる。
同時に、あらぬ疑惑が彼女の胸に沸き起こった。
「お堅いお偉方が考えたにしちゃ、ちょっと目の毒、じゃなくて、大胆に紋様を入れたものね」
綾にしては遠回しに言葉を選んだ表現だったが、当の瑠璃玻はせっかくの気遣いを無に帰す直截な発言をしてのける。
「当時の大神官の中に、色惚け爺がいてな。幼い私の肌に自らの手で彫り物を入れようと目論んだわけだ」
「何よそれっ!!」
綾は、激昂のままに思わず声を荒げた。
瑠璃玻が示唆したそれは、口にするのも憚られるような歪んだ小児性愛に端を発する忌むべき邪な欲望だった。
幼い子供を対象とした虐待は、相手に抵抗する能力がないだけに絶対に許し難いものだと綾は考えている。
それを、事もあろうに民の模範たるべき聖職者である天象神殿の大神官が、己の立場を利用して神聖な斎主に手を出そうとしたというのだ。
嫌悪を顕にする綾を宥めようとしているのか、それとも神経を逆撫でするつもりなのか、瑠璃玻は事も無げに笑ってみせる。
「ただでさえ私を神殿に縛りつけようとする連中の身勝手さを疎んでいたところにその一件が重なったおかげで、熾輝が怒り狂って大変だったぞ」
その時の光景をまざまざと思い浮かべた綾は、熾輝の怒りの烈しさに思いを馳せた事で却って落ち着きを取り戻した。
瑠璃玻は、淡白に先を続ける。
「それでも、魔導としての均衡を慎重に考慮した上で配置された図象だ。安易に手を加えるわけにもいかなくてな」
結局は、熾輝自身が那波の立会いの下、刺青のような消せない傷痕の残る遣り方ではなしに魔法で描くという事で何とか決着を見たのだった。
もちろん、呪紋そのものの効力は瑠璃玻の力を制約するようなものではなく、守護の役割を果たすよう意味合いを書き換えられている。
「ちなみに、現在は煌が呪紋を描く役目を引き継いでいる」
そう言って、瑠璃玻が視線を投げかけた先の木陰から、大判の布を手にした煌が何食わぬ顔で現れた。
2人の間で交わされた会話の内容など、とうにお見通しなのだろう。
それについては一言も触れないまま、煌は広げた布で瑠璃玻の身体を包み込む。
「風邪を引きますよ」
掛けられた声は常と同じく穏やかで、そのまま濡れた髪を拭き始める所作もいつも通り優しく慈しみ深いものだ。
けれど、瑠璃玻に向けられた彼の眼差しには、痛ましげな翳が差していた。
いくら守護の意味合いが込められているとはいえ、瑠璃玻が呪紋を消さずにいる裏には政治的な配慮も存在する。
それが解っているから、煌はどれ程不本意でも瑠璃玻の判断に異を唱えようとしなかった。
ただ、せめて瑠璃玻に害を為す事がないようにと、自らの手で祈りを込めて呪紋を描く事を選んだのだ。
そんな彼の葛藤や心の毅さを思うと、こうして和やかに過ぎていく時間が酷く貴重なものに感じられた。
何となく温泉に浮かれる気分でもなくなってしまった綾は、何の気なしに来た道を振り返る。
すると、白い蝶が1匹、木々の間を縫ってふわりふわりと飛んで来るのが目に留まった。
「こんな季節に蝶?」
訝しげな呟きを聞きつけた煌が、彼女の視線を追って整った眉を顰める。
「導士達の使う識守《シキガミ》ですね」
「…何かあったな」
双眸を眇めて蝶の到着を待つ瑠璃玻の声にも、懸念の色が含まれていた。
![]()