■第4話 精霊の森■
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精霊王・槐は、意気消沈した綾には見向きもしなかった。
彼にとって人間の愚かさなど今に始まったものではなく、そこから生じる雑多な感情も、それがたとえ良心の呵責であっても煩わしいだけで取るに足りないものなのだろう。
それより、と傍に控えた瑠璃玻を振り仰いだ槐は、直前までの憤懣が嘘のような屈託のなさでこう問いかけた。
「これだけ無沙汰をしておいて、よもや形ばかり顔を合わせただけで立ち去る心積もりではあるまいな?」
質問の形を取ってはいても否定の返事など欠片も想定していない様子からは、外見相応に子供じみた強引さが窺える。
「高位の神官等は、私が神殿を離れる事を快く思っておりません」
「くだらん。そのような頭の固い莫迦共の戯言など捨て置け。そもそも、我が無聊を慰めるのも巫子たる斎主の務めだぞ」
僅かに視線を伏せて言い淀んだ瑠璃玻の言い分を、槐は王者の傲慢さで一刀両断してのけた。
それに対して、瑠璃玻は一転してにっこりと微笑んでみせる。
「が、那波からは、ゆっくりして来るよう言われております」
一瞬虚を突かれた槐は、次の瞬間には満足げに相好を崩した。
「さすがは私の那波、話が解る」
機嫌良く頷く表情には、素直な喜びが表れている。
「そうと決まれば、閨を確保せねばなるまいな。私と違って生身の君を落ち葉と下草の褥で眠らせるわけにはいかぬだろう?」
口を挿む間もあらばこそ、槐はいそいそと瑠璃玻の手を引いて森の奥へと歩き出した。
普段は自分こそが傅かれている瑠璃玻が子供相手に敬語を遣い恭しく接する姿に戸惑っていた綾は、その動きに出遅れる。
慌てて2人の後を追いながら、綾はゆったりとした足取りでついてくる煌を肩越しに振り返った。
ほんの少し迷って、それから、躊躇いがちに口を開く。
「…良いの?」
「何がです?」
問われた煌は、常と変わらぬおっとりとした口調でそう問い返してきた。
そのあまりに普段通りの反応に、綾の方が逆に返答に窮してしまう。
彼女の疑問は、「何」と具体的に言葉に出来る類のものではなかった。
ただ、瑠璃玻の隣に煌が存在しない事、彼以外の人間が瑠璃玻の手を引いている事に、漠然とした違和感を覚えるのだ。
当惑する綾とは対照的に、槐は迷いのない足取りで深い森の中を進んで行った。
けして歩き易いとは言えない自然のままの大地にも、足をとられる事もない。
それはそうだろう。
槐は精霊王。この世の万象を統べる者。
森の生命もまた、彼に従いこそすれその行く手を妨げる事など有り得ない。
緩やかな勾配の上り坂になっているらしい道を行くうちに、次第に周囲に大きな木が目立つようになってきた。
精霊王の森は主に常緑の高木から成るが、この辺りにはちらほらと落葉樹も混じっているようだ。
地面を埋め尽くす色とりどりの枯れ葉は目に美しいが、夜露に濡れた所為で湿って滑り易くなっている。
自然と足許に注意を奪われていた綾は、不意に立ち止まった槐に危うく衝突しそうになった。
何事かと顔を上げた彼女は、眼前の光景に目を瞠る。
彼等の目の前、僅かばかり開けた土地に、大きな欅の樹が1本根を下ろしていた。
それは軽く齢千年を超えようかという巨木で、その幹にはこれまた巨大な虚が口を開けている。
巨木の周りでは、真っ直ぐ天を衝く大木の幹が柱列を、複雑に絡み合うように生い繁った枝葉がルーフを形作り、天然のアーケードの様相を呈していた。
「宿りの大樹だ」
立ち尽くす綾に向けてそう告げた槐は、先に立って虚の中へと足を踏み入れる。
瑠璃玻と煌がそれに続き、綾も恐る恐る後に従った。
入ってみると、虚の中は意外に広い空間になっていて、何処から運び込んだものか葡萄酒の樽や塩漬け肉に乾燥果実といった食料の他、衣類や毛布、簡素な寝台まで二組も置かれている。
それらの備品は、槐1人の為に用意されたと考えるには明らかに数が合わなかった。
まるで、予め宿泊施設として使用する事を前提に整えられているかのようだ。
不審に思う綾の心を見透かした槐は、簡潔な説明を加える。
「導士達が設えた品だ。私には必要のないものばかりなので、常磐を始めとする客人を迎える時くらいしか使っていないがな。森に滞在している間は、此処に寝泊りすると良いだろう」
※ ※ ※
宿りの大樹の付近を散策して戻った綾は、瑠璃玻の姿が見えない事に気付いて首を捻った。
いつもならけして瑠璃玻の傍を離れない煌は、虚の中で寝台の支度をしている。
精霊王のお膝元だけに安心しているのかもしれないけれど…と思いつつ腑に落ちない様子できょろきょろと辺りを見回していると、槐が声をかけてきた。
「瑠璃玻なら沐浴中だぞ」
「沐浴!?この寒いのに!?」
相変わらず今ひとつ態度の改まらない綾を、槐は面白がる事にしたらしい。
感情に任せて訊き返す綾の不敬を咎めるどころか、応える義務のない疑問の答えまで口の端に乗せる。
「この近くに、清流とは別に湯の湧き出る泉がある」
それを聞いた途端、綾の表情が一変した。
「温泉?ほんと?何処何処?」
きらきらと瞳を輝かせる綾の勢いに圧されて、槐は泉の方角を指し示す。
「あたしも行って来ようっと」
そう言って、綾はうきうきとした足取りで槐の示した方向へと駆けて行った。
呆気に取られてその後姿を見守っていた槐が、丁度虚の中から出て来た煌に訝しげに問いかける。
「…良いのか?」
「何がです?」
それに対して、煌はつい先刻綾に返したのとそっくり同じ反応を返した。
不機嫌に眉を顰めて、槐は苛立たしげに問いを重ねる。
「瑠璃玻が沐浴中なのだぞ?あの娘、一緒に湯浴みするつもりか?」
だが、煌はあくまでも悠長な構えを崩そうとはしなかった。
「あぁ、本人が構わなければ良いんじゃないですか?」
槐は、尚も言い募る。
「だが、瑠璃玻の肌のあれを目にしたらまずかろうに」
瑠璃玻と綾、おそらくはその双方を気遣っているのだろう槐の発言に、煌は目許を綻ばせた。
そうして、柔らかな笑みを湛えた瞳で彼女の去った方を見遣って言葉を紡ぐ。
「彼女には、包み隠さず真実を知らせるべきだと思うのです」
その声からは、限りない優しさと綾への信頼が伝わってきた。
しかし、続く煌の行動に、槐は呆れ顔になる。
「で?何処へ行くつもりだ?」
「こんな所で、瑠璃玻に風邪をひかせるわけにはいきませんから」
大きな布を手に泉に向かいかけていた煌は、胡乱気に尋ねる槐ににこやかにそう応えた。
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