■第4話 精霊の森■

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 「私の形が奇矯だと?」
 槐にじろりと睨め上げられた綾は、小さな身体から発される存在感に圧倒されてたじろいだ。
 外見だけなら、槐は神官見習いか巫子修行中のといった風体のあどけない子供に見える。
 何しろ外見年齢の若い星神・朱華より更にふたつみっつ幼い。瑠璃玻に纏わりつく様は、大好きな兄姉に懐くませた末っ子のようだ。
 しかし、冷静になってみると、彼がただの子供でない事は一目瞭然だった。
 人々に畏怖されるこの森を平然と一人歩きする子供など、普通では考えられない。
 それに、瑠璃玻の恭しい態度。
 黙り込んでしまった綾を挑発するように、槐は揶揄する口調で問いかける。
 「王と呼ばれる私が幼子の姿をしているのが気に入らないか?」
 見た目で相手を判断して侮る愚を犯すのかと暗に問われて、綾は咄嗟に強く否定していた。
 「違うわ!」
 だが、幼い姿に戸惑いを覚えたのは事実で、それを自覚するが故に反論する声は尻窄みになる。
 「だって、不思議な色だと思って」
 それでも、綾の言葉に嘘はなかかった。
 槐の纏う色彩は神秘的だ。
 紅紫色の髪に、蒼白な肌。じっと見つめられていると、瞳の紫さえ不可思議な彩に思えてくる。
 当の槐は、綾の反応を面白がるように軽く目を瞠ってみせた。
 「ほぉ、この私が何者かを知った上で、物怖じせずそのような物言いをするか。なるほど、熾輝の気に入りで、瑠璃玻が傍に置くだけの事はある。面白い娘だ」
 それから、額にかかる髪を大人びた仕草でかき上げつつ、綾の疑問に対する答えを口にする。
 「無論、これは自然な色彩ではない。私の霊気を映したものだ」
 「…霊気?」
 言葉の概念を理解できず首を傾げる綾の為に、瑠璃玻は簡潔にその意味を解き明かす。
 「存在の本質にして生命の源。この世のすべてに意義を与えるもの。魔法の理を動かすのも、巫翅人の翅翼を形作るのも霊気に他ならない」
 巫翅人の背に顕れる翼の幻影は、それぞれに色も形も異なる。
 喜見城は御雷と同じ褐色の翼を宿していたし、綾の翼は色合いも形状も朱鷺に近い。
 同じ白でも、白鳥の優美さを持つ瑠璃玻の翼に対し、煌のそれは力強い猛禽類を思わせた。
 それは、各々の霊気が反映された結果である。
 具体的な例を示された事で、綾はおぼろげながら瑠璃玻の言わんとする事を理解した。
 彼女が得心したのを見て取って、槐は解説を再開する。
 「髪や膚は霊気に染まりやすい。私のように霊的存在となれば尚の事。あぁ、眸だけは、この肉体の持ち主のものだが」
 神秘的な髪や肌の色の謎は解けたものの、何気なく付け加えられた一言に綾は厭な引っ掛かりを覚えた。
 「肉体の持ち主?」
 彼女の脳裏に、エンケからの連絡船で耳にした船乗りや商人達の言葉が蘇る。
 彼等は、人間の子供が生贄に捧げられていたと話していなかったか?
 疑心暗鬼に駆られる綾の心を見透かしたように、槐は幼い顔に美しくも兇暴な笑みを浮かべてみせる。
 「そう、これは、私に捧げられた巫覡の身体だ」
 半ば予期していたとはいえ、槐の口から語られた事実は綾に衝撃を齎した。
 嫌悪と拒絶の感情が、灼熱の火花となって綾の身体から放たれる。
 激情を持て余した綾は、半ば恐慌状態に陥っていた。
 そんな彼女を宥めるように、煌の落ち着いた声が昂ぶった精神を包み込む。
 「槐様が望んだ事ではありませんよ」
 瑠璃玻もまた、冷静に槐を擁護した。
 「精霊は万象の中に宿っているが、霊力の低い者にはその声を聞く事も、姿を捉える事も出来ない。意思の疎通に不便を来たすので、槐は現し身の憑り杖を置いていたんだ。巫覡に媒介をさせるといっても言葉の意味が枉げられてしまう惧れがあるし、何よりそう都合よく巫の素質を持つ者が傍に侍っているとは限らないからな」
 2人の声を聞くうちに、綾は幾分落ち着きを取り戻す。
 槐は、彼女の感情になど頓着せぬかのように、淡々と事情を語り始めた。
 「最初は、天寿を全うした獣の身体を借りていた。森に棲む人間は多くはなく、彼等は人ならぬ者にも敬意を払っていたのだ」
 それは原始的な、けれどある意味理想的な信仰の在り様だった。
 槐の独白は続く。
 「そのうち、私を精霊王と崇める人間達――今の導士達の祖にあたる者達がこの地に集うようになると、わざわざ獣の初児を捕らえて捧げるようになり、更には私に人の姿を求めるようにさえなった。己等が神の似姿たる事を望んだのであろう。傲慢な事だ」
 侮蔑的な槐の言葉に、瑠璃玻は憂色を湛えた目を伏せた。
 民の前では精霊王や天空三神の巫子である斎主として超然と振舞う瑠璃玻だが、神々の前ではあくまで人間の側に立つ。
 槐の指摘した人の愚かさを、瑠璃玻は我が事として恥じるのだ。
 煌は、瑠璃玻に寄り添うと、そっと細い肩を抱き寄せた。
 槐も、たおやかな瑠璃玻の手を優しく握り締める。
 あたかも慰め力づけるような彼等の仕草に、瑠璃玻の罪の意識はほんの少し和らいだ。
 一方で、槐は弾劾の手を緩める事はしない。
 「初めは一族の長老が最後の務めとしてその身を差し出していたらしい。だが、次第に見目麗しく力ある若者がその任に当たるようになっていった」
 それもまた、槐を崇めていた民の愚かさと罪深さの結実だったのだろう。
 人は外見に囚われ、容易く物事の真価を見誤る。
 「無論、私は幾度も彼等を諌めた。1度宿れば然程頻繁に憑り杖を移る必要はない、よしんば新たな憑坐が必要になろうともあたら将来有る命を奪うに価しないと、事有る毎にわざわざ申し伝えてやったのだ」
 「…それなのに、遂にこんな幼い子供まで、彼等は殺してしまったのね」
 尋ねる綾の声は重かった。
 そして、槐は更なる悲劇を告げる。
 「私は、巫覡として私に仕えていたこの子供を気に入っていたのだよ」
 大人達と違って打算もなければ、過度の畏怖に縛られる事もない純粋な魂は、人の子の愚かしさに倦み疲れていた槐の心に一片の安らぎを齎した。
 「それを、何を勘違いしたのか、彼奴等はわざわざ私の目の前でこの子供を殺め、貢物だとぬかしたのだ!」
 刹那、槐の髪色が真紅に変わる。
 それは、憤怒の色だった。
 当時の槐の怒りは、今以上に苛烈だった。
 一時、精霊は人間への加護を放棄し、ミフルは大いなる混乱に陥った。
 槐の永遠の巫子であり、彼の寵愛を受ける月神・那波が執り成さなければ、今頃世界はその形を変えていただろう。
 「それ以来、彼等は漸く槐に生贄を捧げる事を止めたというわけだ」
 未だ鎮まらない槐に変わって、瑠璃玻が事の結末を語る。
 「最初は、恐怖からだったのかもしれません。けれど、いつしか彼等にも自分達の犯した過ちが理解できたのでしょう」
 穏やかに付け加えられた煌の言葉に、綾はアイシオンの民を思い返した。
 現在精霊王の導士を統べる常磐――空木は、慈愛に満ちた女性だった。
 確かに、鎮守を専門とするような今の導士達は、無意味に生命を殺めるような愚行は犯さないだろう。
 それでも、槐の胸に悼みの記憶と共に刻みつけられた蟠りが消える事はない。
 「この姿は彼等への戒めだ。2度と同じ過ちを繰り返す事のないようにな」
 嘲るように言われても、綾は反論する気になれなかった。
 人間は愚かだ。
 槐が人間嫌いになるのも仕方ないと、綾は哀しい気分で項垂れた。