■第4話 精霊の森■

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 まだ藍玉節に入って間もないにも拘らず、アイシオンの森は早くも冬の装いを帯びつつあった。
 吐息は白く踊り、霜の降りた大地は、足を踏み出す毎にさくりさくりと音を立てる。
 顔を上げれば、鮮やかな緑を保ったままの木の葉に結んだ凍露が早朝の陽射しにきらきらと輝く様が目に入った。
 瑠璃玻が提げている灯りを頼りに、一行は深い霧に包まれた森の中を進んで行く。
 「これを」
 そう言って、導士の村を発つ瑠璃玻達に空木が差し出したのは、玻璃球の中で蒼白い炎が燃える角灯だった。
 「精霊王様は、ひとつところに留まる事をなさらぬ方。いつも森の中をあちらこちらと逍遙しておられます。ですが、この灯りを手にしていれば、王の方があなた方を見出されるでしょう」
 蒼い火の灯ったランプは、どういう仕掛けか、炎が揺らめく度にりぃぃんと澄んだ音をたてる。
 この何とも不可思議な音色が、精霊王に呼びかけるのだろう。
 同時に、それは、瑠璃玻達にとっても森を行く上での標となるものだった。
 精霊王の森は魔法に護られた聖域だ。招かれざる者が許可なく迷い込めば、永遠に彷徨う破目になる。
 現に、今も漂う霧は朝靄と呼ぶには不自然な濃厚さで視界を閉ざしていた。
 木々に囲まれた空間に目印となるようなものはなく、足許に道が敷かれているわけでもない。
 地表に張り出した根や転がる石に気を取られていると、角灯の蒼い光さえ見失いがちになる。
 綾は、玻璃球の奏でる音色に意識を傾けつつ歩を進める。
 そうして神経を集中して耳を澄ませていると、しんと静まり返っているかに思えた森が実は様々な音に満たされている事に気付いた。
 揺れる梢の囁き、木々の間を走る影、下生えを踏む蹄の音…ほんの少し意識しさえすれば、其処彼処に生き物の気配が感じられる。
 「どうして獣が寄って来ないのかしら?」
 注意深く辺りを見回しながら、綾は腑に落ちない様子で首を捻った。
 森には狼や熊、野猪といった猛獣も棲んでいる。
 そういった獣がいつ襲って来ないとも限らないと、綾は物音がする度に警戒心を強めていたのだが。
 「あたし達を怖がってるってわけじゃないわよね?」
 その証拠に、姿が見えないだけで、彼等の傍から生き物の気配が絶える様子はない。
 「基本的に、この森は豊かで餓える事はありませんからね」
 訝しがる綾を宥めるように、煌が穏やかに口を開いた。
 「動物達も、害意のない人間をわざわざ襲ったりはしないのでしょう」
 もちろん、獣達は生きる為に餌を狩るし、身の危険を感じれば攻撃してくる事もある。
 それは、人間も変わらない。
 「人も動物の一種として共存してるって事?」
 「どちらかというと、棲み分けてるという方が近いかもしれないがな」
 そう言って、瑠璃玻は手にした角灯を軽く揺らしてみせる。
 どうやら、この角灯は、獣避けの役目まで果たしているらしい。
 空木の慧眼と周到さに綾が感心していると、突然霧が晴れて、目の前に小さな人影が飛び出して来た。
 「瑠璃玻!」
 綾が身構える間もなく、その人物は瑠璃玻に駆け寄ると、そのままの勢いで抱きつく。
 「良く来たな、瑠璃玻。逢える日を心待ちにしていたぞ」
 その正体は、少年というより、未だ童子の域を出ていないように見受けられる男の子だった。
 年の頃はおそらく10歳に満たないだろう。
 身に纏っているのは魔導士がよく着るようなローブだが、その生地は光沢のある繻子織だ。
 額に冠した華奢な銀環から後頭部に紗のヴェールを下ろしていて、呪紋を金糸で刺繍した肩掛けは真紅に染められた天鵞絨、帯は燦爛たる輝きを放つ金襴緞子である。
 全体として瀟洒なその形は、空木達精霊王の導士とは趣を異にしていた。
 驚いた事に、瑠璃玻は纏わりつく童子を拒むでもなく、和やかな笑みさえ浮かべて丁重に接する。
 「ご無沙汰しておりました」
 「まったく、つれない子だ。もっと頻繁に訪なってくれても良いものを」
 子供特有の高い声に似合わぬ尊大な口調で苦言を呈する童子に、煌が慇懃に口を挿んだ。
 「斎主ともあろう方が、そうそう天象神殿を空けるわけにはいかないでしょう。それはあなたもよくご存知では?」
 「相変わらず、君の白狼は口煩いな」
 童子は、妙に大人びた調子で唇を尖らせつつ、渋々瑠璃玻を解放する。
 そうして、漸く一連の言動を呆気に摂られて見守っていた綾を顧みた。
 「あぁ、これが件の舞姫か」
 困惑して立ち尽くす彼女を頭の天辺から爪の先まで眺め回した童子は、意味有り気な笑みを口許に湛えてこう評する。
 「那波と彼女の金獅子から聞いていたが、なるほど。黒豹…いや、黒猫か?」
 その一言が、惚けていた綾の意識を現実に呼び戻した。
 「失礼ね!人を猫呼ばわりするなんて!」
 「綾、」
 途端に沸点を越えた綾は、遠慮がちに制止する煌の声にも耳を貸さず、憤然と童子に噛みつく。
 「そっちこそ妙な格好してるくせに!」
 童子の髪は、深い紅紫色だった。
 寒々とした冬の森には似つかわしくないほどに鮮やかな色合いは、もちろん人の髪の色としては有り得ない色彩である。
 おそらく、木の実や草の汁で染めたものなのだろう。
 そういえば、彼の瞳の色の紫は、葡萄や桑苺を思わせる。
 しかし、髪はともかく、肌の蒼白さは尋常でなかった。
 そこまできて、綾はやっと童子の不自然さに思い至る。
 冷静さを取り戻すと同時に口を噤んだ綾を、童子は不機嫌に睨めつけた。
 「貴様こそ、誰に向かってそんな口を利いている?」
 彼の背後では、瑠璃玻が顔を覆って溜息をついている。
 「瑠璃玻の連れでなければ、即刻その無礼な振る舞いを後悔させてやるところだぞ」
 「…それって、もしかして…?」
 そこはかとない嫌な予感に、綾はおずおずと瑠璃玻の方を窺った。
 瑠璃玻は、頭痛を堪える表情で、もう1度深々と溜息を落とす。
 そんな瑠璃玻に代わって、煌が愉しげな苦笑混じりに口を開いた。
 「彼が、この世の理を統べる偉大なる精霊王、槐様です」