■第4話 精霊の森■
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その老婆は、前袷の衣の上から檜皮色の裳を着けて床の上に坐していた。
額の布は右耳の上で結んで端を長く下ろしており、左肩から斜掛けにした厚手の織物には鬱金の縫い取りが施されている。
おそらくは「土」の導士…それも、かなり高位の者だろう。
初対面からの僅かな時間で、綾はそう推測を巡らせる。
当の老婆は、扉の形に切り取られた夕闇を背にして立つ一行に品良く微笑みかけた。
「前回の五華宴以来ですか。瑠璃玻様も煌殿もお変わりありませんこと」
導士見習いだった私は、このようにしわくちゃのお婆ちゃんになってしまいましたけれど。
そう言ってころころと笑う彼女には、諧謔も厭味にならない不思議なあどけなさがある。
背で緩く束ねた髪には霜が降り、幅広な袖から覗く手首は枯れ枝の如き様相を呈していた。
元々小柄な身体は、加齢によってますます縮こまって見える。
だが、身の内から溢れ出す圧倒的な存在感と童女のように華やいだ雰囲気が、彼女が見かけ通りのか弱い老婆ではない事を物語っていた。
綾が抱いた困惑と畏敬の入り混じった想いに頓着するでもなく、瑠璃玻は彼女の前に腰を下ろすと親しげに話しかける。
「久しいな、空木《ウツギ》。それとも、常磐《トキワ》殿と呼ぶべきか?」
瑠璃玻の気安い態度に、空木、或いは常磐と呼ばれた老婆は相好を崩した。
「おや、懐かしい。今では空木の名で呼んでくれる者など絶えておりませんのに」
それから、所在無く立ち尽くす綾を見上げてこう問いかける。
「そちらの可愛らしい方は?」
「「星神の舞姫」だ。名を綾と言う」
瑠璃玻は、空木の問いに簡潔に応えてから綾に向き直った。
そうして、虚礼を廃した非常に瑠璃玻らしい言葉で、空木の素性を告げる。
「綾、彼女は空木。精霊王・槐に仕える導士の長だ。慣習により精霊王直属の導士の長は代々常磐の名を名乗る事になっているから、外向きにはそちらの名で呼んだ方が良いだろう」
「あの、」
瑠璃玻による紹介が終わるか終わらないかのうちに、綾は躊躇いがちに口を開いた。
「常磐様は、巫翅人ではない、のですよ、ね?」
「――っ」
朱華がその場に居合わせたなら、思った事を何でも無遠慮に口にするなと叱りつけたところだろう。
瑠璃玻は苦々しげな表情でこめかみを押さえる。
彼女の疑問は、解らないでもない。
精霊王直属の導士、その長ともなれば、かなりの魔力を有している筈だ。
当然巫翅人になっていてもおかしくない――その実力は、こうして相手を威圧する意図を持たずに相対しているだけでも伝わって来る。
それなのに、空木の肉体は魔力を持たない人間と同じように…否、それ以上の早さで老化を迎えていた。
顔を顰める瑠璃玻に代わって、綾の心情を僅かなりとも理解した煌が微苦笑を湛えつつ事情を説明する。
「精霊王の導士は、本来なら自身の寿命を延ばし老化を止める魔力まで三界の安定の為に費やしているんですよ」
「我等は、天より与えられた力のすべてを精霊王様に捧げておりますゆえ」
空木は、不躾な問いに気分を害した様子もなく、穏やかな語り口で続けた。
「例えば、神と呼ばれる身となってミフルを守護する天空三神のように、長く生きてこそ成し遂げられる事もありましょう。けれど我等は、限られた生を精一杯善く生きる事に意義を見出します。我等が命は精霊王より授かりしもの。務めを果たし、精霊王が御許に還る事こそ我等が望みなのです」
驚愕に瞠られた綾の黒瞳を見つめ返す蜜色の双眸には、慎ましやかながらも確かな誇らかさが宿る。
柔和な中にも芯の強さを感じさせる女性だった。
そういう意味では、那波と相通じるものがあるのかもしれない。
言葉もなく感じ入る綾にもう1度温かな笑みを見せて、空木は瑠璃玻に視線を移した。
「此度のご来訪は、精霊王様への拝謁の為とか」
さり気なく話題を改めた空木に、瑠璃玻も漸く眉間の皺を解く。
「あぁ。五華宴の前に顔を出しておきたかったし、預けている物もあるからな」
常磐の位に就いて長い空木は、斎主が精霊王に預けた品が何かなどと立ち入った事を尋ねる愚は犯さなかった。
ただ、心からの労りを込めて、一夜の宿を供する旨を申し出る。
「とまれ、長旅に次ぐ船路とあってはお疲れでございましょう。今宵はごゆるりとお休みくださいませ」
※ ※ ※
「「星神の舞姫」とは良い名を賜りましたこと」
火壇を囲む人々の前で舞う綾の姿を目を細めて見遣りながら、空木は誰にともなく感慨を述べる。
何分小さな村落の事、ふんだんに贅を凝らしたとは言えないものの、森の恵みと村で育んだ食材を用いての心尽くしのもてなしの礼にと、綾は剣舞を披露していた。
大小二振りの彎刀【シルフィード】を携えて舞う綾は、華焔の名のままに情熱的で美しい。
娯楽の少ないアイシオンの民に、艶やかな彼女の舞は恰好の慰み事となるだろう。
「華麗で、力強くて、真っ直ぐで。朱華様の名を冠するに相応しい方ではございませんか」
「どうだか」
彼女の隣で酒盃を傾けていた瑠璃玻は、溜息混じりに肩を竦めて見せる。
「槐の前でもあの調子で振舞うかと思うと、今から頭が痛む」
精霊王・槐は人嫌いで知られていた。
それはそれできちんと理由も根拠もある事を熟知している瑠璃玻は苦言を呈するつもりなど毛頭ないが、迂闊な言動で機嫌を損ねる事態は出来れば避けたいとは思う。
「案外、性が合うかもしれませんけどね」
憂い顔の瑠璃玻の横でのんびりと煌が嘯けば、空木が歌うように先を引き取った。
「熱情の炎に自由の風。私のような身には少々目映過ぎますが」
後半は独り言のように言い添えた空木の声音が幾らか寂しげな響きを帯びていたように思えて、瑠璃玻はそっと彼女の横顔を伺う。
「憧れるか?」
或いは、焦がれるか。
斎主と導士の長、それぞれの座に束縛される者同士、奔放な綾の生き様に憧憬を抱きはしないかと、瑠璃玻は問う。
「さぁ、どうでしょう」
空木は、遠い眼差しを燃え盛る炎に向けて束の間の物思いに耽った。
己の生き方を悔やんだ事はない。精霊王に仕える導士として重ねて来た時間に誇りを持ってもいる。
それでも、綾のように何者にも縛られぬ魂の輝きに、心惹かれぬと言えば嘘になるだろう。
深く皺の刻まれた目尻を温和な笑みに緩ませて、空木は呟く。
「若さを羨ましく思うのは、老いた証かもしれませぬ」
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