■第4話 精霊の森■

(3)

 早くも傾き始めた冬の陽に目映く煌く漣の間を縫って、一行を乗せた船はアイシオンに辿り着いた。
 船を下りた綾は、拍子抜けした様子で辺りを見回す。
 「何て言うか…もっと仰々しい所かと思ったけど」
 アイシオンの港は、エンケ以上に質朴だった。
 左右に弧を描く岬を防波堤に、海上に突き出した岩場を埠頭に見立てた波止場は風景に溶け込んでいて、人の手が入った施設とは到底思えない。
 周囲には行商人達が店舗の代わりにする天幕が幾つかと、倉庫と事務所と宿を兼ねたログハウスが一棟。どちらも非常に簡素な造りをしている。
 これでは、少し海が荒れただけで波に攫われてしまうだろう。
 綾が首を傾げていると、瑠璃玻から意外な答えが返った。
 「それこそが、アイシオンの民が意図するところだからな」
 精霊王に畏敬の念を抱くアイシオンの民は、自然に逆らわず、在るがままに受け入れる生活を良しとする。
 高波が海辺を攫うなら、それもまた天の意志だと彼等は考えるのだ。
 同時に、信仰厚い彼等は万象に宿る精霊の護りに絶対の信を置いてもいた。
 現に、邪な欲を抱いた海賊の船が沈む事はあっても、連絡船が嵐に襲われた事はないのだという。
 「そもそも、この港そのものが精霊の力を借りて築かれたものだそうですし」
 煌も、敬虔な聖剣士の顔でそう言い添える。
 港には、連絡船の到着を受けてアイシオンの人々が顔を見せつつあった。
 人目につく事を避けるかのように、瑠璃玻と煌はひっそりと船着場を後にする。
 彼等が立ち去ろうとしている事を知って船員や商人達が親身になって案じる言葉を投げかけるのに愛想良く手を振って、綾も2人の後を追った。
 「わぁ…!」
 海からの風を防ぐ為に椎の木が植樹された海岸沿いの堤の上で瑠璃玻達に追いついた綾は、目の前に広がる光景に息を呑む。
 灰色の雲の切れ間から降り注ぐ茜色の後光が平原を照らし、その先にある木立を黒々と際立たせていた。
 荒野に生い茂ったヒースの白い花が、夕映えの中ほんのりと朱鷺色に染まる。
 平原のところどころに悄然と佇む木々は既に葉を落としていて、剥き出しになった枝が天を衝くシルエットは見る者に寒々しい印象を与えた。
 「これからどうするの?」
 毛皮つきのケープの襟元をしっかりと合わせながら、綾は瑠璃玻に問いかける。
 この島に到着したのが午後も遅くなってからだった事もあって、今日はてっきり港で宿を取るものと思っていた。
 「この寒空の下で野宿なんてのは御免蒙りたいんだけど」
 「その必要はない」
 唇を尖らせる綾を素っ気無い一言で黙らせて、瑠璃玻は堤を下って行く。
 手付かずの原野にみえた平原には、微かに人の辿った道筋が残っていた。
 その道の行き着く先に、常緑樹の森が口を開けている。
 慌てて瑠璃玻に続いた綾は、森の入り口に立つ人影に気付いて口を噤んだ。
 取り立てて足を早めるでもなくゆっくりと近づいた彼等に、その人物は恭しく言葉をかけてくる。
 「斎主様でいらっしゃいますね?」
 武道着のような作りの質素な服の上からゆったりとした布を巻きつけた姿といい、慇懃な立ち居振る舞いといい、只の島民とは思えなかった。
 綾は、こっそりと懐疑に満ちた視線を向けて相手を窺う。
 修行中の神官か魔導士といった風情のその人物は、続く言葉であっさりとその身を明かした。
 「精霊王様よりご来訪の先触れを受けてお待ちしておりました。まずは我等導士の集う村へお越しくださいませ」
 

※  ※  ※


 年若い導士の先導を受けて、森の中の小径を進む。
 すらりとした幹の間から射す残照は、思いの外森の奥深くまで届いていた。
 厳しい冬の最中にも鮮やかさを失うことのない常緑の葉は、夕日の朱に色を変えることもなく天を覆っている。
 薄紫の光と緑の影とが織り成す彩は、黄昏時の森に異世界の趣を齎した。
 そうこうする内に、不意に森が開けて、一行は小さな広場に出る。
 不自然な切り株などがないところから見て、倒木か何かで自然に出来た空き地を利用して築かれた集落のようだった。
 広場の中央に木造の小屋が在り、その前に薪を積み上げた大きな火壇が組まれている。
 周囲には瀟洒な天幕が張られていて、中の幾つかからはとんとんからりと機を織る音が聞こえて来た。
 広場の隅には小川が流れ、手入れの行き届いた畑や、羊や鶏を飼育しているらしい柵も見受けられる。
 丁度夕餉の時間が近い事もあって、竈や水場の周りには村人達が集まっていた。
 老若男女を問わず、村人の多くは釦を使わずに紐で縛る飾り気のない意匠の、染色をしない生地のままの生成りの粗服に身を包んでいる。
 森での狩猟を生業としているのか毛皮の帽子や胴衣を身につけている者もあるものの、大抵は毛織物の上着や肩掛けで寒さを防いでいるらしかった。
 畑を耕す者、家畜の世話をする者、樵に猟師、機織、薬師――その何れも、森の恵みと自然に密着して自給自足の生活を営んでいる。
 その一方で、精霊王直属とされる導士達は、その身なりからして明らかに一線を画していた。
 下に着込んだ道着は村人達と変わらないものの、帯や肩掛けには見事な刺繍を施した色鮮やかな織物を用いている。
 魔導的に意味を持つと思しき図称を縫い取る刺繍の色は、紅なら「火」、藍なら「水」といった具合に守護精霊の属性を示すものなのだろう。
 唯一、額に巻かれた布に共通して描かれた「精霊王の眼」と呼ばれる紋象だけが、精霊王に仕える彼等の身分を表していた。
 導士達と村人とは、互いに敬意を払いつつ良好な関係を築いているようだ――「星神の舞姫」としての務めの傍ら瑠璃玻の目となって各地を視察して歩く事の多い綾は、最早習い性のように周囲の様子を窺いつつ、そう判断する。
 案内役の導士は、瑠璃玻達を小屋の前まで連れて来るとそっと腰を折って身を退いた。
 一行は、数段ばかり階段を上って高床となった小屋の中に足を踏み入れる。
 夕闇に染まりつつある部屋の中には、甘さと清々しさを等分に孕んだ空気が満ちていた。
 ランプに香油を使っているのか、はたまた炉に香木でもくべたものか。
 その部屋の最奥、三界法図を象った壁掛けの前で、1人の老婆が瞑想に耽っている。
 「お久しう、瑠璃玻様」
 きしりと床の軋む音に重たげな瞼を上げた老婆は、入り口に立つ瑠璃玻の姿を認めると、両手を床に揃えてゆったりと頭を垂れた。