■第4話 精霊の森■

(2)

 追風を帆にいっぱいに孕んで、船は滑らかに水面を滑る。
 マストの周りを飛び交う海鳥や船の舳先が描き出す白い波頭を、綾は瞳を輝かせて眺めていた。
 「身体が冷えませんか」
 吹きさらしの甲板は、陸の上の比ではない寒さとなる。
 だが、気遣わしげに声をかける煌に、綾はにっこり笑ってこう応えた。
 「平気。それより風が凄く気持ち良いでしょ」
 もともと相性の良かった火の精霊に加え風の精霊にも好かれている彼女にとって、この程度の風は苦にならないらしい。
 「楽しそうだな」
 子供のようにはしゃぐ綾とは対照的に、瑠璃玻が気怠げにそう呟く。
 「だって、こんな大きな船に乗るのは初めてだもの」
 生まれ育ったジュナではレイタ河を行き来するのに小さな手漕ぎ舟を使っていたし、天象神殿に仕えるようになってからも夏場に夕涼みと称してヒナ湖で舟遊びを楽しむ事はあった。
 けれど、帆船に乗るのも海に出るのも初めての体験なのだと言って、綾はケープをはためかせる強風も船の揺れもものともせずにくるりとその場で回ってみせる。
 もともと舞踊を身上とする芸妓だった綾は平衡感覚にも優れていた。多少波が荒れていようと、足許が不確かになる事もなければ船酔いに煩わされる事もない。
 どちらかというと、日頃身体を動かす機会に恵まれていない瑠璃玻の方が軽い眩暈と頭痛に悩まされていた。
 瑠璃玻の不快感の原因を理解できない綾は、屈託無く問いかける。
 「瑠璃玻達は、以前にも槐様とお会いする為にアイシオンに来た事があるんでしょ?」
 

※  ※  ※


 「精霊王・槐の許に伺候する」
 瑠璃玻がそう言い出したのは、藍玉節の鎮魂の儀を終えてすぐの朝議の席での事だった。
 途端に居合わせた高位の神官達が渋い顔をして視線を交わすのを目にした綾は、不機嫌に眉を顰める。
 天象神殿を実質的に取り仕切っている高官達は、常々瑠璃玻が都を空ける事を好ましからず思っていた。
 斎主は祭祀王として神殿に鎮座していれば良いのであって、俗世に触れたり民草と交わったりする必要は無い、というのが彼等の言い分だ。
 その裏には、瑠璃玻を斎主に祭り上げて人心を掌握する事に利用し、神殿に集まる富と権力を我が物にしようという思惑が透けて見える。
 もちろん、神官や騎士には高潔な志を持つ者も在って、そういった人々は純粋に瑠璃玻の身を案じるが故に危地に赴く事に難色を示しているのだが、重鎮の多くは斎主を神殿の所有物と見做し、既得権益を守る事に奔走していた。
 綾は、彼等の身勝手な考えを厭わしく思う。
 それは同時に、自由と誇りに重きを置く正義神の熾輝が唾棄するところでもあった。
 少女の姿そのままの潔癖さで嫌悪感を顕にする綾とは違って飄々とした態度を崩しこそしないものの、辛辣な彼の所見は唇の端に浮かんだ笑みから見て取れる。
 彼等の不興を買っている事に気づかぬ大神官の1人が口を開くより早く、那波がおっとりと口を挿んだ。
 「そういえば、今年は五華宴の年でしたね」
 五華宴はミフルで60年に1度行われる夏至の大祭だ。
 新年祭に当たる光の祭祀、6年に1度開かれる精銀祭に先立ち、5日間に渡って国を挙げて執り行われる。
 この祭儀に先駆け、天象神殿の最高神官が冬至に精霊王を詣でる事が慣例となっていた。
 最高位の巫子である斎主が在位している場合、当然その役目を担う事になる。
 だが、最高齢の神官長は、生きてきた年月に相応しい老獪さを発揮した。
 瑠璃玻とミフルの国、双方を案じる言葉ぶりで瑠璃玻の意志を変えようと試みる。
 「アイシオンまでの道程は遠く、海路には危難が伴うもの。尊き御身に万が一の事があってはミフルの安寧にも関わりましょう。瑠璃玻様に代わって他の者を遣わせる訳には参りませんか?」
 これには、斎主の護衛を担当する騎士団の幹部達が少々気分を害した。
 が、息巻く彼等ごと、熾輝はあっさりといなしてのける。
 「槐が瑠璃玻以外のヤツに【フィルミクス】を渡すとは思えないな」
 月の神器・言霊の翼【フィルミクス】。
 冠する者の魔力を極限まで高めるとされるそれは、祭祀王たる斎主の王冠だった。
 天象神殿の幹部にさえ秘されているその在り処を容易く明かした熾輝は、痛烈な皮肉を魅力的な笑顔で口にする。
 「槐の人間嫌いは筋金入りだ。普通の神官連中じゃ参詣さえ叶うまいよ。まさか五華宴に神器を揃えないわけにはいかないよな?」
 「「月神の巫子」に「太陽神の剣」、「星神の舞姫」。儀礼と形式だけのお祭り騒ぎじゃなくて、天空三神の神器が使い手と共に一堂に会しての五華宴になるのね」
 続く朱華の言葉もともすれば日々信仰に生きる敬虔な神官達の立場をないがしろにする危険を孕んでいたが、それが愚かな重鎮達に対する彼女流の意趣返しだと知る瑠璃玻はとりたてて咎め立てする事もなく聞き流した。
 「いつもの通り、留守の間の政は熾輝に、祭事は朱華に委ねる。神殿を束ねる各位は、那波の導きの下、各自の職分に励むよう」
 淡々と告げる瑠璃玻に、那波は柔らかく微笑みかける。
 「槐も、久し振りの逢瀬を楽しみにしている事でしょう。ゆっくりしていらっしゃい」
 那波にそう言われてしまえば、如何に神殿の重鎮達と雖も表立って反論する余地はなかった。
  

※  ※  ※


 「槐様ってどんな方かしら?」
 そう呟いた綾に他意は無かったが、周囲から思わぬ反応が返った。
 「お嬢ちゃん方、精霊の森に行きなさるのかね?」
 たまたま傍を通りかかった行商の一行が、わざわざ足を止めておずおずと尋ねてくる。
 「そうよ。精霊王・槐様にお会いして、この子に加護を与えていただくの」
 まさか真の身分を明かすわけにもいかず、綾は御雷を山車に当たり障りのない口実を口にした。
 それにも拘らず、一行は明らかに動揺した様子を見せる。
 彼等の顔には、一様に畏れと忌憚の色が浮かんでいた。
 一行を率いる人物が、声を潜めて忠言を寄せる。
 「悪い事は言わん。あの森には近づかぬ方が良い」
 1人が口を開くと、残りの面々も各々思うところを語り始めた。
 「あそこの連中は、動物や、時には人間の子供まで生贄として捧げておったそうじゃないか」
 「それは昔の話だろう。今じゃ導士様達は世の為人の為に働いとると聞くぞ」
 「だが、あの森では獣が口を利くとか」
 「真冬にも木々は禍々しいまでに鮮やかな深緑を湛えているというし、やはり何かあるとしか思えんぞ」
 「それも精霊王様のご加護じゃろうて」
 「そうだ。滅多な事を言うもんじゃない」
 船員達も混じって口々に意見を述べ合うのを、綾は困惑しながら遠巻きに眺める。
 大抵は年配の者ほど迷信深い傾向にあるものだが、彼等の遣り取りを聞く限り一概にそうとも言い切れないようだった。
 船乗りや商人といった縁起を担ぐ職業柄もあるのだろうが、怪異に怯える若者を信心深い年長者が窘めている節も見受けられる。
 綾は、戸惑うように瑠璃玻を振り返った。
 精霊王に対する不敬を咎めるかと思われた瑠璃玻は、煌共々我関せず、の態度を貫いている。
 どうにも先行きの不透明な道行となりそうな予感に、綾はこっそりと溜息を落とした。