■第4話 精霊の森■
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冬至の日の翌朝。
「本当に、もう帰ってしまうのか?」
瑠璃玻達は、この日の連絡船でアイシオンの地を離れる事になっていた。
この期に及んでも未練がましく引き止めようと試みる槐に、瑠璃玻は物憂げに瞼を伏せつつ曖昧に微笑む。
「この森を襲った不届き者の始末もありますので」
魔物を率いていた人物は賢明にも身分を示す物を一切身につけていなかったが、術の痕跡から現在天象神殿において軍務を司る位にある大神官の腹心の部下である事が判明していた。
強権派で知られる軍務卿の事だ。【フィルミクス】の在り処を知った彼が、更なる権力を欲するあまり暴挙に出た事は想像に難くない。
日頃の言動から見ても、部下が勝手に暴走しだけで当人は無関係だ、などという言い逃れは通用すまい。
瑠璃玻が天象神殿に戻り次第、正義神熾輝の名の下に弾劾、罷免される事になるだろう。
今回の事件への対応や後任の人事も含めて、瑠璃玻が斎主として為さねばならぬ事は山積している。
それでも、冬至までは精霊王の巫子である事を優先してアイシオンに残っていたのだ。
未だに不満げな槐を見下ろして、瑠璃玻は駄々をこねる幼子を宥める調子で語りかける。
「五華宴と精銀祭、光の祭祀が終われば、再び【フィルミクス】を預けに参ります」
幾らかでも槐の機嫌を上昇させる事が出来れば、という思惑もあっての言葉だったが、彼から思ったような反応を引き出す事は出来なかった。
「あぁ、その事だが」
瑠璃玻から目を逸らすかのように僅かに視線を泳がせると、槐は不明瞭な声で言い辛そうにこう告げる。
「【フィルミクス】は、祭祀の後もそのまま君が持っていた方が良いだろう」
その発言は、劇的な効果を齎した。
【フィルミクス】の力が必要になる時が遠からずやって来る――那波が夢に見た「その日」を想う瑠璃玻の顔色が目に見えて翳る。
「そんな顔をするな」
槐は、ほんの少し困ったような、気遣わしげな瞳をして瑠璃玻に向かって手を伸ばした。
「寂しいと思ってくれるのは嬉しいが、そんな風に嘆く姿を見たら尚更別れ難くなる」
瑠璃玻が何を懼れるか、それを知らない彼ではない。
だが、蒼褪めた瑠璃玻の頬をそっと指先で辿る槐は、敢えて見当違いな慰めを口にする。
「離れていても、夢殿の水鏡を使えばいつでも言葉を交わす事は出来るだろう?あぁ、那波の庭に転位の門を開くのも良いな。そうすれば、好きな時に君に逢いに行ける」
いつも通りの強引さで好き勝手な事を言う槐の態度に、瑠璃玻は僅かに表情を和らげた。
微かな笑みを取り戻した瑠璃玻の腰に腕を回して、槐は細い身体をぎゅっと抱きしめる。
「そうやって、いつでも笑っていると良い。私も、那波達も、いつだって君の幸せを望んでいるのだから」
瑠璃玻は、淡く微笑んだまま、槐の抱擁を受け入れた。
彼等の会話が落ち着く頃合いを見計らっていたのだろう。
瑠璃玻の分まで支度を済ませた煌が、形ばかりは遠慮がちな様子で口を挿む。
「名残は尽きませんが、そろそろ発たないと船の時間に間に合わなくなりますよ」
「まったく、無粋な奴だな」
わざとらしく不機嫌な顔をして、槐は肩を竦めてみせた。
それから、こちらのやりとりには加わらずに黙々と出立の準備を整えている綾へと向き直る。
「星の娘」
樹上から呼び寄せた御雷を左腕に嵌めた革製の籠手に繋いでいた綾は、槐の風変わりな呼びかけに胡乱な顔つきで振り向いた。
槐は、彼女の方へと歩を進めつつ、唐突にこう切り出す。
「御雷を置いて行け」
言われた意味が理解できなかったのか、綾は最初きょとんとした表情を見せた。
次いで、不審感を隠そうともせずに剣呑な眼差しで槐を見据える。
それを意に介するでもなく、槐は綾の腕に止まった御雷に手を差し伸べた。
「このままおまえの傍に置けば、これは遅かれ早かれ生命としての理を越えてしまうだろう」
警戒心を剥き出しにする綾とは裏腹に、御雷は大人しく槐に撫でられるままになっている。
「前の主は風の加護を受ける民の出の巫翅人で、おまえもまた風精に好かれている。その上、朱華との縁も深い。あれも風の性を持つ者だからな。それでなくとも風に愛される翼有る者にとって、おまえ達の与える影響は強過ぎる」
「でもっ」
綾は、咄嗟に感情に任せて反駁しかけた。
御雷の存在は朱華と喜見城を繋ぐ絆だと綾は思っている。
若くして女神としての生き方を選ばざるを得なかった彼女の口から、2人の間に息衝いていた想いについて語られた事はない。
でも、だからこそ、朱華が唯一人間として思い入れている御雷を彼女から奪うような事はしたくなかった。
だが、槐は飽く迄冷酷に現実を突きつける。
「今でも、既にこの種としては長く生き過ぎている。それはおまえも薄々感づいていた筈だ」
彼の指摘に対する反論の言葉を、綾は持っていなかった。
出逢った時の御雷は、既に成鳥になって随分経っている風だった。
それから更に10年以上の歳月が経過しているが、未だ肉体的には老化の兆しさえ見受けられない。
それを不思議に思った事がないと言えば嘘になる。
きつく唇を噛み締めて押し黙ってしまった綾に、槐はやや態度を軟化させた。
「悪い事は言わん、御雷はアイシオンに残せ。この地でなら、多少風変わりな命も違和感なく暮らす事が出来る」
「…それが、この子の為なのね」
高圧的に命じるのではなく言い聞かせるように言葉を重ねる槐を相手に我を通せるほど物の解らない子供ではない綾は、寂しげにそう呟く。
「…良い子だ」
それは、綾と御雷どちらに向けられたものだったのか。
喉許を擽る槐の慈愛に満ちた声に、御雷は心地良さそうに喉を鳴らした。
※ ※ ※
灰色の空を背景に遠ざかるアイシオンの地を、瑠璃玻はじっと見つめていた。
海上を渡る風が黒い髪をはためかせ、愁いに満ちた横顔を覆い隠す。
頼りなげな風情で佇む瑠璃玻の肩に、背後からふわりとコートが着せ掛けられた。
「風が冷えてきましたから」
いつものように穏やかに話しかけた煌は、そのまま自らのマントで瑠璃玻の身体をすっぽりと包み込む。
そんな煌を振り返るでもなく、瑠璃玻は遠い目をしたままぽつりと呟いた。
「空木にゆっくり挨拶もせずに来てしまったな」
その一言に、煌は紅茶色の双眸をすっと細める。
煌は、瑠璃玻の憂いを共有出来る数少ない存在だった。
短い言葉の裏で瑠璃玻が何を案ずるのか、その奥にある痛みまで理解できてしまう。
けれど、彼はその想いに同調する心を常に律し続けてきた。
共に嘆く事は容易い。だが、彼の望みは瑠璃玻の哀しみを癒す事なのだ。たとえそれが、束の間の安らぎでしかなかったとしても…。
「また来れば良いでしょう」
虚ろな心を慰撫する柔らかな響きの声が告げた言葉を、瑠璃玻は肯定も否定もしなかった。
潮風に運ばれて、アイシオンに降る雪が船の上にも舞い降りる。
吐息にすら溶ける雪の儚さを恐れるように、煌は瑠璃玻を抱く腕に力を込めた。
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