■第4話 精霊の森■
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つい今しがたまで薄曇りだった空が、瑠璃玻の呪詞を受けて俄かにかき曇る。
見る間に暗雲に覆われた枝葉の間から、大粒の雨が降り始めた。
この雨が、悪意ある炎を消し止めるだろう。
本来なら喜ぶべき状況に、だが、綾は懸念を抱く。
瑠璃玻は、常々天候を左右するような魔法を使う事を禁じていた。
自然の作用に逆らえば歪みが生じる。その力が大きければ大きいほど、反動は取り返しのつかないものになる。そう言って、事ある毎に綾を始めとする後進の魔導士達を諌めてきたのだ。
どのような事情があるにせよ、こんな遣り方は瑠璃玻らしくなかった。
彼女の不安を煽るように、風雨は勢いを増していく。
吹き荒ぶ風の中雨はやがて氷の粒へと変わり、雹の混じった横殴りの突風は雷を帯びた竜巻と化す。
大地に振動が走り、稲妻が暗天を切り裂くに至って、綾の怯えは恐怖に変わった。
宙を見据える瑠璃玻の双眸に狂気の色はない。正気を手放してしまったわけではないのだ。
けれど、雷光を受けて金属的な光沢を放つそれは、人のものとは思えなかった。
「…瑠璃玻?」
震える綾の呼びかけは容赦なく吹きつける風にかき消され、応えが返る事はない。
代わりに、鋭い耳鳴りが彼女を襲った。
頭が割れるような痛みに、綾は思わず両耳を塞いで蹲る。
だが、耳を劈く高音は収まるどころか、次第に強さを増していく。
その音と共に頭蓋に響く波動の源を追って視線を動かした綾は、腕に嵌めた【クラヴィウス】に目を留めた。
それから、ゆるゆると頭を持ち上げて、瑠璃玻の冠した【フィルミクス】を見遣る。
2つの神器の間に、目に見えない力線が存在していた。
神器同士が共鳴しているのだ。
それに気づいた途端、綾の意識は【クラヴィウス】を通じて飛躍的に拡大した。
彼女は困惑するアイシオンの民の心に触れ、森の周縁部で為す術もなく焼かれる木々の悲鳴を聞く。
地割れに足を取られ、氷と風の兇刃に切り裂かれて恐慌状態に陥る魔物達の間で、指揮を取っていたらしい何者かが雷に撃たれて斃れるのも目にした。
衝撃のあまり呆然としている彼女の脳裏に精霊の声が流れ込んでくる。
火の憤怒が。
風の慟哭が。
土の憂憫が。
水の哀嘆が。
激し過ぎる感情に、綾の精神は軋んで悲鳴を上げた。
同時に、精霊達に同調した心が、彼等に災いを齎す人という種族への憎悪に駆り立てられる。
実際、彼女自身も人間の愚かさに厭気が差す事も多かった。
そのままであれば、精霊達の激情に身を委ねてしまったかもしれない。
だが、瑠璃玻を案ずる想いが、彼女の暴走を引き止める。
【フィルミクス】によって、今や瑠璃玻の力は人の子の領域を遥かに超える状態にまで引き出されていた。
もちろん、それは瑠璃玻自身の内から溢れ出す尽きせぬ魔力の賜物だった。
しかし、天をも揺るがす力を行使する事が、人間の身に耐えられる筈がない。
限界を超えて引きずり出された力は、肉体を、精神を崩壊させてしまうだろう。
「駄目…瑠璃玻…」
地面に這い蹲ったまま、綾は懸命に瑠璃玻に向かって手を伸ばす。
だが、天を仰ぐ瑠璃玻の銀と藍の瞳は益々冴え冴えと澄み渡り、人としての情を冷たく拒絶していた。
綾は、己の力不足に失意を抱いて唇を噛み締める。
と、その時、彼等を取り巻く大気がふっと和らいだ。
猛々しく荒れ狂っていた風が幾分弱まり、代わりに誰かに護られているような安らぎを覚える。
「瑠璃玻」
力なく顔を上げた綾は、自らも白金の翼を解き放った煌が背中から瑠璃玻を抱き締める姿を見て瞠目する。
巫翅人の翼は、いわば霊気の集合体だった。
実体として触れる事は出来なくても、其処には強大な力が働いている。
その中に身を置く事は 結界を築く魔導障壁を無理矢理侵すようなものだ。
翼ごと瑠璃玻を抱き竦める煌の苦痛は計り知れないものがあった。
それでも、煌は痛みを微塵も感じさせぬ穏やかな表情で瑠璃玻の耳許に囁きかける。
「そんなに怒らないで。魔物は一掃され、危機は回避されました。これ以上は、森を破壊するだけですよ」
ふたりの翅翼は、触れ合った瞬間火花を散らして反発し合うかに見えた。
だが、花の香りが風に溶けるように、翼を形作る霊気は自然と解け、互いに交じり合っていく。
「ほら、もう良いでしょう?そろそろ俺のところに戻って来ませんか」
「…あ…」
硬質な輝きを宿していた瑠璃玻の瞳に、ようやく人間的な揺らぎが戻る。
時を同じくして、アイシオンの森を席巻していた嵐は急速に収束に向かっていった。
風は止み、氷の刃と化していた雹は柔らかな綿雪に変わる。
「…煌…」
掠れる声で煌の名を呼びつつ振り返りかけた瑠璃玻の身体は、しかし、次の瞬間がくりと崩折れた。
「お帰りなさい、瑠璃玻」
意識を失って倒れ込む瑠璃玻を抱き止めて、煌は愛しげに目を細める。
瑠璃玻の額に唇を寄せる煌の背に、白金の煌きを帯びた2組4枚の翼が再び現れた。
大きく力強い翼が、ふたりを優しく包み込む。
はらはらと舞い降りる雪の一片一片が、襲撃の跡を静かに覆い隠していった。
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