■第4話 精霊の森■
(1)
潮の香りの風に乗って雪片が舞う。
景色の色を変える間もなく大地に触れるそばから儚く溶けて消えるそれは、エンケに冬の訪れを告げる風花だった。
エンケはミフル西部・ヴェストールの小さな港町だ。
内陸から外海へと流れるレキセル河の河口に位置しミフル大陸の玄関口にあたる東部・アウストールのナイキが商業都市として栄えているのに対し、同じ港町でも内海に面するエンケは鄙びた漁港といった印象を与える。
町中を見回してみても大きな建物といえば天空三神を祀る3つの神殿と町営の旅籠くらいのもので、後は簡素な造りの民家の中に日用品や漁の道具を商う店がぽつぽつと見られるような、海沿いではありふれた集落だった。
砂浜には、冬の時化に備えて引き上げられた漁船が浜辺に打ち上げられた魚の死骸のように舳先を並べて横たわっている。
それでも朝の早い時間であれば市場の開かれる目抜き通りは新鮮な魚介類を売り買いする人でそれなりの賑わいを見せるのだろうが、今は人気の絶えた通りを残り物を漁る野良猫と海鳥がうろついているばかりだった。
重く垂れ込めた灰色の雲が、目にする風景を尚一層裏寂れたものにする。
そんなエンケの町の名前を特別なものにしているのが、ミフル大陸とアイシオンを繋ぐ唯一の連絡船の存在だった。
アイシオンはミフル本土と半島に囲まれるようにして内海に浮かぶ島で、精霊王・槐の住まう森を擁する聖地だ。
地元の民の他に精霊王直属の導士達も暮らしているこの島は、エンケからの連絡船が発着する港を除いて沿岸のほとんどが断崖絶壁で占められている。
更に、北側の半島からの経路を取るにはテニヤ山脈の険しい嶺を越えねばならず、その上途中海流の早い難所を渡る必要がある為、アイシオンを目指す場合エンケの町を経由するのが一般的だった。
定期船の船着場には、今も食料や生活必需品、個人宛の小荷物や手紙といった積荷の積載作業を待つ乗客の姿がある。
尤も、アイシオンを訪れる旅人はそれほど多くはない。
寒風の吹き荒ぶ桟橋には、常連の行商が数人寄り集まっている他は、年若い2人連れがいるだけだった。
この2人連れが、ミフルを治める祭祀王、天象神殿の斎主とその護り人だと気づいている者はいない。
瑠璃玻は、ウエストをシェイプしたケープ付きの黒いコートに身を包み、乱れる髪を押さえもせずに昏い海を見つめていた。
寒空の下に佇む様はどことなく儚げで、翳りがちな表情は何とも物哀しい。
胸元が隠れる上に腰の細さを強調するコートの意匠の所為もあって、その姿は憂色の美少女といった風情を醸し出している。
一方、普段と同じ立て襟の長衣の上から淡い梅鼠のマントを纏った煌は、雪混じりの木枯しから瑠璃玻を護るようにさり気なく風上に立っていた。
腰に佩いた太陽の神器・相生の剣【プロクシェーム】は、ゆったりとした布地に隠されてほとんど目立たない。
右肩でマントを留める髪留めと揃いのブローチは太陽神の紋象をあしらった繊細な細工物で、彼自身の清雅な物腰と相俟って高貴な身の上を思わせた。
傍目には、恋人同士の2人旅に見えない事もない――それにしては、目的地が今ひとつ情緒に欠ける気もするが。
或いは、精霊王の祝福を授かるべく旅をする巫子姫とその護衛の術士といった見方も出来るだろう。こちらの方がやや真実に近い分、説得力がある。
何れにしろ、鄙には稀な佳人には違いない。
船乗りや行商人達は、物珍しそうに彼等の姿を遠巻きに眺めていた。
そこにもう1人、華のような少女が合流する。
「お待たせ!」
頬を紅潮させ、軽く息を弾ませて駆けて来たのは「星神の舞姫」綾だった。
健康的な赤銅色の肌に、毛皮の縁取りが施されたフード付きの白いケープが映える。
溢れる若さに輝く彼女を眩しげに見つめて、煌は穏やかに問いかけた。
「神楽舞の奉納は済みましたか?」
「うん、おかげさまで」
綾は、大きく頷いて破顔する。
「この仕事についてから10年以上経つのに、エンケでは1度も朱華様の神殿に詣でる機会がなかったんだもの。今回はどうしても星辰神殿に立ち寄りたかったの」
綾が巫翅人となり、「星神の舞姫」として朱華に仕えるようになって早10年余り。ややあどけなさの残る顔立ちや少女然とした容貌は不老長寿の身故のもので、内面的にはそろそろ大人の女性としての落ち着きを得ても良い年頃に差し掛かりつつある。
にも関わらず、彼女の言動の端々からは、未だ愛すべき稚気が窺えた。
精神は外見に引き摺られるとの言は、強ち根拠のないものではないのかもしれない。
そんな事を思いつつ、舞の礼にと得た戦利品を嬉々として披露する綾に、煌は微苦笑と共に温かな眼差しを注ぐ。
2人の遣り取りを無言で見守っていた瑠璃玻は、空へと視線を向けると短くこう呼ばわった。
「御雷」
ぴぃっという鋭い鳴き声と共に、彼等の許へと大きな鷲が舞い降りる。
綾が革の籠手を嵌めた腕を掲げると、御雷は優雅に翼を羽ばたかせてそこに降り立った。
順応性が高いのか、砂漠育ちにも拘らず初めて見る海に物怖じするでもなく潮風を満喫した彼は、喉許を撫でられて気持ち良さそうに喉を鳴らす。
成鳥になってからも主に愛されてきたこの猛禽は、かなり老齢となった今でも甘やかす手を拒まなかった。
「お客さん方、そろそろ船を出しますぜ」
荷の積み込みを終えた船主が、瑠璃玻達の方にそう声を投げかける。
彼等が最後に乗り込むのを待って、アイシオンへの連絡船はエンケの港を離れた。
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