■第3話 陽炎の町■
(9)
「え?」という微かな呟きが、綾の唇から零れる。
聞こえるか聞こえないかのその声が、凍りついたかのような呪縛を解いた。
「ちょっ、瑠璃玻何言って――」
困惑したまま瑠璃玻に詰め寄ろうとした彼女の言葉を、しかし、煌が肩に手を置いて制する。
どうして、と尋ねかけた綾は、見上げた煌の紅茶色の双眸の真摯さに気圧されて口を噤んだ。
それでも彼女の戸惑いを察したのだろう。煌は、潜めた声で彼なりに導き出した答えを口にする。
「この地を知る人間はそう多くはないでしょう。まして砂嵐の結界を抜け、風化の魔法まで使えるとなると彼以外考えるのは難しい」
それに、瑠璃玻程の魔力を有する人物が、残された術者の痕跡を見誤る筈がない。
弾劾よりも憫れみを感じさせる沈痛な表情で告げる煌の視線の先で、瑠璃玻はゆっくりと喜見城を振り返った。
「サエナの民は、地の根の柱を崇め奉り護り続けてきた。それは誰よりおまえ自身が知っていた筈だ」
深々と降り積もる雪のように静謐な声音。
寒々と冴え渡る冬の夜空の色をした左目が、見透かせない深さと毅さでもって喜見城を射抜く。
「それなのに、何故民の望みを裏切った?」
喜見城は、瑠璃玻の眼差しと真っ直ぐ向き合う事はしなかった。
ひっそりと目を伏せ、足下に視線を落として抑揚のない声でこう答える。
「…人という種族に失望したのです」
榛色の瞳からは峻険な輝きが失われ、肉の削げた横顔は一時に10歳程も年老いたかに見えた。
「私は長い間闘い続けてきた。人の世の幾代にもなる永の年月の間に、数え切れぬ程の死を、生を見てきた。そして悟ったのです。人とは愚かで救い難い生き物だ。どれ程の時を重ねても、その性根は変わらない。容易く欲望に駆られ、他者を傷つけ、何もかもを奪い去る――どれ程力を尽くし、待ち続けたところでサエナの村を滅ぼした賊の如き輩が絶える事はない」
その言葉が見下す語調で発せられたのであれば、傲慢さを詰る事も出来たろう。
僅かでも憎しみの感情が込められていたなら、私怨だと咎めたに違いない。
けれど淡々と、ただ淡々と語る喜見城の乾ききった声は、絶望の深淵を覗いてしまったような戦慄ばかりを聞く者の胸に呼び起こした。
現に綾は苦渋に満ちた表情で唇を噛んで俯いていたし、煌も痛ましげに目を細めて喜見城の独白に耳を傾けている。
だが、それで彼の所業が赦されるわけではない。
「それで?」
瑠璃玻は、感情を抑えた声で喜見城に問う。
「終わりのない生に飽いて、変わらない現実に倦み疲れて、だから地の根の柱を滅し、すべてを終わらせてしまえと?」
それは、確かに喜見城の胸の裡に巣食う昏い願いだった。
人間の罪深さが拭われぬのならいっそ滅んでしまえば良いと思うようになったのは、いつの頃からだろう。
「そうしておまえ1人の魂の安寧の為に、世界を道連れにして終焉を求めるつもりか?」
激するでもなく重ねられる瑠璃玻の言葉が、そんな喜見城の過ちを容赦なく暴き立てる。
「ただ声を上げて泣く以外生きる為の術を持たぬ乳飲み子の生命を、ささやかな幸せを夢見る無辜の民の未来を、奪う権利など何者にもない」
瑠璃玻が最後に決然と言い放った一言は、いつしか安易な結末を求めていた喜見城の心を強く打ち据えた。
彼のしようとした事は、罪の無い人々から全てを奪うという意味で彼が心から忌む暴力的な行為と何等変わらない。
今更ながらその事に気づかされた喜見城は、言葉も無く悄然と項垂れる。
と、その時、ずんという重い音と共に大地に鈍い振動が走った。
足下の揺れはすぐに一旦治まったものの、岩窟内に反響する軋音に怯えた御雷が神経質に翼をばたつかせる。
「岩漿の海が活性化したか」
辺りを素早く見回した瑠璃玻は、短く舌打ちすると地の根の柱に向き直った。
再び碑文に手を当てる瑠璃玻に、煌と綾が揃って訝し気に声をかける。
「瑠璃玻?」
「何する気?」
「焔を鎮め、大地を宥める」
瑠璃玻は、端的にそう答えた。
「出来るの!?」
「やるしかないだろう」
驚愕と期待の入り混じった綾の問いに素っ気無く応じた瑠璃玻は、「ただし」と言い添える。
「自然の摂理を侵せば必ず揺り返しが来る。それを抑えるだけの余力は私にはあるまい。己が身は己で護ってもらうぞ」
瑠璃玻自身は?と訊く機会は得られなかった。
「喜見城!」
未だ自失している喜見城の名を鋭く呼んで、瑠璃玻は強引に彼の意識を現実へと引き戻す。
「この空洞の何処かに地上への転位の門が在るな?」
思いがけず強い声で問われて、喜見城は考える間もなく頷いていた。
「万が一に備えて道を開いておけ。煌は鎮護の結界を」
「あたしは?」
てきぱきと指示を出していた瑠璃玻は、勢い込んで尋ねてくる綾にほんの少しだけ張り詰めた表情を緩めた。
「祈っていろ」
聞き様によっては投げ遣りな――その実火炎呪文のみを得意としている綾には適任とも言える役目を申し渡すと、今度こそ目の前の巨石に集中する。
華奢なその背に白銀の三対の翅翼が顕現するのを待って、瑠璃玻は徐に口を開いた。
「聴け、森羅万象に宿りし精霊よ。混沌より生じしものよ。我は精霊王の巫子なり。我が声は精霊王が声。我が言の葉は精霊王が言の葉」
凛と響く声が、精霊王・槐の名の許に精霊達に語りかける。
巫翅人ともなると、大抵の魔法は呪文の詠唱なしに発動する事が出来る。
まして斎主として祀られる程の力を持つ瑠璃玻がこれだけ仰々しい呪詞を必要とするという事は、それだけ大規模な術が行われようとしている事を意味した。
「「空」の理を持ちて我は告げる。未だ時は来たらず。時は来たらず。詠え「風」よ、宥めの歌を。揺蕩え「水」よ、揺籃の如くに。憩え「地」よ、夢に抱かれて。微睡め「火」よ、時至るまで。静め、鎮め、安らに沈め。汝等が生まれし原初の焔を今しばらくの眠りに誘え」
瑠璃玻の呼びかけに呼応するかのように、束の間地響きが激しくなる。
だが、やがて振動は収まり、詠唱が終わる頃には泉を沸き立たせていた熱も徐々に退いていった。
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