■第3話 陽炎の町■
(8)
その少し前から、瑠璃玻は異常に気づいていた。
地表を離れるにつれて洞窟内の気温は下がりひんやりとした空気が漂っていたのだが、ここに来て再び急激に温度が上がっている。
湿度の高さと相俟って、蒸し暑さを感じる程だ。
「何だか嫌な感じね」
不快げな綾の呟きを耳にした瑠璃玻の眉間に、深い皺が刻まれる。
成り行きで巫翅人になったものの未だに魔法や精霊といった類に疎い綾は感じたままを口にしたに過ぎないが、この状況が意味するところを憂慮する瑠璃玻にとってそれは不吉な予言めいたものに聞こえた。
不自然な気温の変化を怪訝に思っていた煌は、難しい表情で何やら考え込んでいる瑠璃玻を思わしげに見遣る。
これまでの様子からして、瑠璃玻は過去にこの地を訪れた事があるようだった。
その瑠璃玻がこうも表情を曇らせているという事は、かなり深刻な事態が危惧されるという事だ。
だが、煌が何か言うより早く、喜見城が探索の終焉を告げた。
「着いたぞ」
彼の視線を追うと、幾分緩やかになった石段の先に狭い道が続いている。
その先に特別な場所が在る事を示すように、坑道の両脇には明らかに人の手が入った事を示す石柱が立ち並んでいた。
薄く靄のかかる中、足下をちょろちょろと小川が流れる小道を抜けると、唐突に視界が開ける。
「これは…」
空洞に1歩足を踏み入れた煌は、一瞬言葉を失った。
「…地底湖、ですか?」
どうにか気を取り直した彼の問いを受ける形で、半ば呆気に取られているらしい綾がこう指摘する。
「…湖っていうより温泉みたいじゃない?」
其処は、確かに地底湖であり、温泉でもあった。
所々に鍾乳石や石筍が見られる空洞いっぱいに、満々と水を湛えた湖が広がっている。
滾々と湧き出る泉の水は岩を濡らして滴り落ち、やがて小さな川となって坑道に流れ込んでいた。
余程水温が高いのか、湖の水面からは絶え間なく湯気が立ち上っている。
どうやら、洞窟内の大気が異様な熱と水気を帯びていた原因は此処にあるらしい。
朦々と立ち込める水蒸気を透かして、湖の中央に巨大な岩が天井を貫く形で聳えているのが見える。
その麓まで渡された細々とした陸橋に、瑠璃玻は躊躇いもなく足を踏み出した。
喜見城と彼の肩に止まった御雷をその場に残し、煌と綾も瑠璃玻の後を追う。
一足早く岩の前まで辿り着いていた瑠璃玻は、2人が追いつくのを待って厳かに口を開いた。
「此は天穹の支柱、煮え滾る海に穿たれし楔、猛き大地の鎮守なり。以って根の国を治め、空が下の国の護りと為せ」
石塔や岩壁と言った方が相応しい大きさの巨石を間近に見上げた煌は、その表面に瑠璃玻が読み上げたのと同じ呪詞が碑文として刻まれているのを見い出す。
「これが、地の根の柱…」
気がつけば、煌は意識せずしてその名を口の端に上らせていた。
身じろぎひとつせずに眼前の景観に視線を奪われていた綾が、はっと打たれたように瑠璃玻を振り返る。
瑠璃玻は、静かに頷く事で煌の言葉を肯定した。
「地の根の柱は、混沌を鎮める為に施された封印。この地の下には、原初の焔が眠っている」
ウルカ砂原の地下を走る水脈を輔けとして、地底に脈打つ荒ぶる熱を鎮める――そうする事でミフルの大地を静穏に保つようにと精霊王・槐が太古の時に御自ら建て給うた国の守護が地の根の柱なのだとか。
そう語った瑠璃玻は、だが…と続ける。
「こうまで泉の水が熱を帯びているところを見ると、封印の効力が薄れつつあると考えるべきだろうな」
「それが、喜見城の言ってた異状ってコト?」
不安そうに地の根の柱を見上げる綾の問いに、瑠璃玻は直接答えようとはしなかった。
代わりに、すぐ傍にある巨石の表面にそっと指を滑らせる。
すると、細い指が触れたそばから、白い砂礫がさらさらと零れ落ちた。
風に容易く崩れる乾いた砂の城のようなその脆さに、綾は思わず息を呑む。
しかし、その事には些かも動じる風も無く、瑠璃玻は更なる驚愕を彼女に齎した。
「風化の魔法だな」
形有る物は、けして永遠たり得ない。全ては時の流れのままに変わりゆき、やがては万物の源たる無に還る。
風化の魔法は、その理を意図的に早める高度な禁呪のひとつだ。
「何者かが、地の根の柱を弱らせたと?」
さすがに険しい面持ちで尋ねる煌に、瑠璃玻もまた重々しい口調でこう応じた。
「今この時に地の根の柱がこれ程まで力を失う事を、那波は予見していなかった」
月神・那波は「運命の司」。夢に未来を視る者。
その女神が予見し得なかったという事は、在るべき自然の状態が歪められた事を意味する。
天空三神と精霊王に仕える斎主である瑠璃玻にとって、それはけして看過できない罪業だった。
地の根の柱に刻まれた碑文を指先でなぞる瑠璃玻の瞳が、言いようのない痛みに翳る。
煌と綾が気遣わしげに見守る中、呪詞の全文を辿り終えた瑠璃玻は天を仰いで大きく息を吸い込んだ。
そうして、祈るように瞼を伏せると、吐息を断罪の言葉に変えて搾り出す。
「何故だ、喜見城?」
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