■第3話 陽炎の町■

(7)

 根の道と呼ばれる洞穴の入り口は、壮大な美術品とでもいうような代物だった。
 「これ、全部サエナの人が造ったの?」
 綾は、驚嘆の眼差しで目の前の岩壁を見上げて誰にともなくそう問いかける。
 正面から眺めるそれは、壮麗な石の館のようだった。
 数段の石段を登ると列柱の並ぶ露台があり、その奥に地底へと続く洞穴がひっそりと口を開けている。
 アーチ型の入り口に扉こそないが、壁面には手が込んでいる事に窓に似せた壁龕まで設けられていた。
 梁と柱頭には幾何学模様に意匠化した棕櫚をあしらった連続模様が彫られ、破風には翼を広げた鷲が描かれている。
 入り口のある岩壁を抱き込むように左右に張り出した岩は、さしずめ城壁と物見の塔といったところだろうか。
 それらが寄り集まって、人里はなれたこの地にとてつもなく巨大な石造建築物群を形成していた。
 何しろ、入り口ひとつとってもその高さは優に人の背丈の5、6倍はある。
 緻密で優美な装飾だけでも目を瞠るものがあるのに、これだけの大きさだ。製作にはどれだけの労力と手間がかかった事か…否、人の手などけして届かぬ高所にまで、これほど見事な造形を誰がどのように成し得たというのだろう。 
 いっそ巨人が岩壁から削り出したとでも言われた方が自然な気さえしてくる。
 それ程までに途方もない規模の芸術品を間近にして、綾はただ聳然と立ち尽くすしかなかった。
 「どれほど堅牢な岩も、長い年月を経れば風雨によって削られ、その形を変える。サエナの民は、風の魔法に秀でた者が多かったと聞くからな」
 「鷲をモチーフにしてるのも、風の精霊に愛される翼有るものに対するサエナの民の憧憬と畏敬の念の表れなんですね」
 愛惜しむように柱の表面に掌を滑らせつつ呟く瑠璃玻に、煌もまた今は亡き民へと想いを馳せる。
 ただ1人、喜見城だけは何の感慨も見せず、早々に根の道へと足を踏み入れた。
 瑠璃玻と煌がそれに続き、未だ茫洋たる気分の綾も慌てて彼等の後を追う。
 入り口を入ってすぐの部屋は、広間と礼拝堂を併せたような空間だった。
 林立する柱とドーム型の高い天井が荘厳な雰囲気を醸し出す。
 腰板の彫刻は、おそらくサエナの伝承を描いた物語絵巻なのだろう。
 入り口からの僅かな光では室内を隅々まで見渡す事は出来ないが、目に入る範囲だけでも外観同様いたる所に繊細な細工が施されている事が見て取れた。
 だが、最奥の柱の間に設けられたアーチを潜ると、様子が一変する。
 其処は、自然の洞窟を利用した地下通路だった。
 くねくねと曲がりくねりながら地底へと下っていく急峻な坂に、辛うじて微かに石段が刻まれている。
 暗闇の中にぼんやりと白く浮かび上がる壁面はこれまでとは打って変わって岩肌が剥き出しになっていて、全く装飾は見られなかった。
 闇に溶け込んで先の見透かせない通路を覗き込んだ綾は、眩暈と共に深淵に堕ちて行くような錯覚に捕らわれて後退る。
 「…これを下るの?」
 おずおずと尋ねる綾に、答えはなかった。
 代わりに無造作に腕を持ち上げた瑠璃玻が、閉じた拳を上向きにしてゆっくりと開く。
 不審げに見守る綾の視線の先で、解けた指の隙間から光の燐粉を纏った蝶が現れた。
 音もなく飛び立った蝶がふわりふわりと翅を震わせる度、蒼白い光の粒子が舞い降りて、束の間辺りを淡く照らし出す。
 儚くも美しい魔法の灯りは、綾の気分をほんの少しだけ浮上させた。
 「地中で下手に火を点すわけにはいかないからな」
 感嘆の呟きを洩らす綾に、瑠璃玻は素っ気無くそう言い放つ。
 一行は光の蝶に導かれるように石段を下り始めた。
 綾は、最初の内は興味深そうにきょろきょろと周りを見回していた。
 だが、直に何処までも岩の壁が続くだけの殺風景な景色に飽きてしまう。
 体力の消耗を考慮してか、無駄口を叩く相手もいない。
 靴音だけが洞窟に反響する中、4人は黙々と階段を下り続けた。
 どれほどそうして足を進めたろう。
 入り口の明かりが全く届かなくなり、距離感さえ掴めなくなる頃、周囲の岩壁に変化が現れた。
 さらさらと砂礫が零れ落ちそうなくらい完全に乾ききっていた岩肌が、徐々に湿り気を帯びてきている。
 更に下って行くと、岩の隙間から滲み出した水が足元を濡らすようにさえなった。
 ただでさえ薄暗い上に格段に滑りやすくなった足元を気遣って、煌はさり気なく瑠璃玻との距離を詰める。
 常に瑠璃玻を大事にしている煌の解り易い態度を微苦笑を浮かべて見守っていた綾は、逸れた意識の所為でうっかり足を滑らせてしまった。
 「っ!!」
 危うく均衡を崩して倒れかけた彼女の腕を、脇から力強い手が掴む。
 咄嗟に差し出された腕に縋った綾は、その主に気づいて別の意味で驚いた。
 「あ、ありがと」
 「気をつけろ」
 戸惑いがちに礼を述べる綾に、喜見城はぼそりとぶっきらぼうにそう返す。
 それでも彼女がきちんと体勢を立て直すのを待って手を放す辺りに、彼の思い遣りが表れていた。
 「それにしても、どうしてこんな岩だらけの土地なのに水が溢れてるの?」
 照れ隠しなのか恨めしそうに呟く綾とは対照的に、周りを観察していた煌がおっとりと口を開く。
 「どうやら、この辺りで地下水脈にぶつかってるみたいですね」
 「直に、もっと面白いものが見られるぞ」
 瑠璃玻は、そう言って含みのある笑みを浮かべてみせた。