■第3話 陽炎の町■

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 ユタの町を発ち、馬の背に揺られて荒野を行く事一昼夜余り。
 瑠璃玻達一行は、喜見城に先導されてウルカ砂原の只中に在るという地の根の柱を目指していた。
 馬上から見渡す風景に、綾は何度目かの感嘆と疲労の相半ばした溜息を落とす。
 目の前の大地は乾いて罅割れた土と砂礫に覆われているが、視線を彼方に転ずれば其処は砂の海原だった。
 何処までも遮るもののない視界いっぱいに広がる白い砂の上に揺らめく蜃気楼が、夢現のような幽玄の趣を添える。
 吹きすさぶ風に舞う金の砂粒と灼熱の太陽が描き出す黒々とした影に彩られ、一瞬毎に姿を変える風紋の表れた砂丘が地平の果てまで延々と続く様は確かに自然の厳しさを語りはするが、同時に人の手の及ばない雄大な造形美をも感じさせた。
 そのスケールの大きさが、見る者に感銘を与える一方で人間の卑小さを否応無しに自覚させ、その心を打ちのめすのだ。
 そしてもうひとつ、彼女を疲弊させる原因がこの砂原にはあった。
 ユタの町にいた時はあれ程鬱陶しがっていた綾だったが、砂原に出てからはしっかりと外套を身につけている。
 実際に砂漠に出てみて、灼けつくような陽射しと砂埃から身を守るには全身を覆う上着が不可欠だと悟ったからだった。
 それでも、砂の侵入を完全に防げる訳ではないし、日頃動き易さを重視した開放的な形を好む彼女にとって窮屈な感は否めない。
 「魔法で雨を降らせたら、ちょっとは楽にならないかしら?」」
 息苦しさに辟易して思わず愚痴を零した綾を、瑠璃玻がすかさず窘めた。
 「気候を変えるような魔法は使えない。自然に逆らえば必ず反動が出る。そう学んだろう?」
 「解ってるわよ」
 叱責された綾は、首を竦めつつ内心で舌を巻く。
 人に傅かれる事に慣れた態度や尊大な物言いに惑わされがちだが、実際の瑠璃玻は市中の民より余程敬虔で禁欲的だ。
 心を許した相手――主に煌や天空三神に甘えて「暑い」「寒い」と他愛無い我儘を言ってみせる事はあっても、けしてその為に魔力を振るうような事はしない。
 もちろん、瑠璃玻も綾が本気で言っているのではない事くらい承知している筈だ。
 それでも律儀に忠告を発さずにはいられないのは、妙なところで生真面目な性分と自然に対する畏敬の念に因るところが大きい。
 その辺りは、さすがに精霊王に仕える斎主だけの事はある。
 綾が少しばかりばつの悪い思いを味わっていると、先を進む喜見城が救いの手を差し伸べて寄越した。
 鋭い眼差しを虚空に向けた彼の双眸には上空を行く御雷と同じ景色が映るのか、傍目には代わり映えのしない荒地の先を見据えて無感動に口を開く。
 「もう少し行けばオアシスがある。夕刻までには辿り着けるだろう」
 「ほんと?」
 それを聞いた綾は、素直に喜んだ。
 喜見城の用意してくれた馬は荒野や砂地の旅にも慣らされているのか辛抱強く従順で、綾のように馴染みのない乗り手でも扱い易く調教されていたが、やはり自分の背丈程も高さのある動物の背に腰掛けての長旅となると不慣れな身には辛いものがある。
 それに、何はさておきこう埃っぽくては敵わない。
 オアシスと言えば井戸なり泉なり何らかの水源がつきものだ。
 年若い少女らしく、綾はとにかく火照った身体を冷まし、汗と汚れを洗い流したいと思っていた。
 

※  ※  ※


 喜見城の言葉通り、日暮れ前に一行は小さな泉の畔に辿り着いた。
 だが、其処で彼等を待っていたのは、今は住む者とてない寂れ果てた廃墟だった。
 崩れた石壁に、割れた素焼きの壷。叩き折られた木片は、天幕の支柱だったものだろうか。
 その全てが砂に侵され、土に還りかけている。
 オアシスと言えば小さいながらも水の恵みに育まれた村落があるものと思っていた綾は、意外な光景に馬の背を下りたところで立ち尽くしてしまった。
 そんな彼女の困惑を読み取ったのだろう。
 さっさと水辺に向かう瑠璃玻達に代わって、相変わらず素っ気無い調子ながら喜見城が説明の為に言葉を紡ぐ。
 「此処には、かつてサエナという小さな村があった」
 「その村の人達は、どうしてこのオアシスを捨てたの?」
 泉の水が枯れてしまったわけでもないのに。
 純粋に不思議がる綾の手から手綱を受け取りながら、喜見城は感情の篭らない声でこう答えた。
 「サエナの人間はこの地を捨てた訳ではない。この村は、盗賊に襲われて滅びたのだ」
 それっきり、喜見城は綾の方を見ようともせずに、馬を引き連れてその場を後にする。
 綾は、改めて呆然と辺りを見渡してみた。
 言われて見れば、確かに家屋が荒らされた痕跡や損傷し散乱した家財等、略奪の名残に見えなくもない。
 ただ、あちこちに残る焼け焦げたような跡が腑に落ちなかった。
 貴重な水源に近い居住地だ。焼き払ってしまうくらいなら、自分達の塒にでもする方がよっぽど利口だと思うのだが。
 それに、腑に落ちないと言えば喜見城の態度も気にかかる。
 【シルフィード】の謂れを語った時もそうだったが、どうも彼は綾に対して屈託を抱えているように思えてならなかった。
 接触を拒むように一定の距離を置きながら、一方で常に彼女を案じている気配もある。
 その理由に心当たりのない綾は、戸惑うしかない。
 「喜見城は、サエナの族長だったのよ」
 今も彼を怒らせてしまったかと己の失言を悔いる彼女の背に、不意に高い声がかかった。
 声の主の姿を求めて振り向いた綾は、其処に見出した人影に目を瞠る。
 「朱華様?」
 沈み行く太陽に赤く染め上げられる砂の海を背に佇む星神・朱華は、驚く綾にふっと笑いかけた。
 「此処は、あたしにとっても縁のある地だから」
 だから、瑠璃玻の力の仲介がなくても、こうやって人の形を取れるの。
 そう言って、あどけない少女の姿をした女神は砂漠では見る事の出来ない木々の葉を思わせる鮮やかな深緑の瞳を細める。
 彼女の視線の先には、半ば砂に埋もれた建物の残骸があった。
 懐かしむ、と言うには痛みの色合いの強い面差しで、朱華がぽつりと呟く。
 「この村は、あたしが滅ぼしたの」
 「朱華様が滅ぼしたって、どうして…」
 遠慮がちに問う綾を振り返る事無く、朱華は遠い目をして訥々と昔を語りだした。
 「サエナが砂賊の一党に襲われた時、あたしは12歳になったばかりの極普通の子供だったわ。もちろん、自分が魔法を使えるなんて思ってもみなかった」
 自然に溶け込み、素朴な生活を送るサエナの民には魔法などそもそも必要のないものだった。
 だが、生存本能が、彼女の内に眠っていた潜在的な魔力を目覚めさせた。
 「父を、母を殺されて、血の滴る蛮刀を手にした男が近づいて来て…気がついたら、目の前の男が火達磨になってたわ。年端も行かない子供に襲い掛かるような外道だったから、後悔はしてないけど」
 凄惨な過去を何事もなかったように告げて、朱華は笑みさえ浮かべてみせる。
 その表情からすっと笑みが消え、話す声音に沈痛な響きが宿った。
 「でも、あたしは自分の力を制御できなかった」
 幼さ故に力を抑制する事も出来ず、術の使い方すら知らなかった彼女の魔法は呆気なく暴走し、敵だけでなくサエナの村すべてを焼き払ってしまった。
 だから、朱華は綾に火の魔法を禁じたのだ。
 「喜見城は、その時偶々村を空けてたの。族長の地位を継いだばかりで、周辺の町や村の長に顔を繋いでおかなければいけなかったから」
 そうして一族の為に尽力しようとしていた矢先に、悲劇は起こった。
 滅びた村に戻った喜見城の受けた衝撃は、如何ばかりだった事か。
 「彼にとって、あたしは大きく矛盾する感情を呼び覚ます存在なのよ」
 庇護すべき民を守れなかったという自責の念に駆られる一方で、理不尽だと解っていても民を偲ぶ縁となる物を灼き尽くしてしまった朱華を怨まずにはいられない――どちらにしても、朱華の存在は喜見城にとって苦悩の源なのだと、自身にとっても辛い記憶の時のままの姿を留めた彼女は哀しげに目を伏せる。
 「綾に対して複雑な態度を取ってしまうのも、きっと「星神の舞姫」としてのあなたがあたしを思い起こさせるからだわ。けしてあなた自身に思うところがある訳じゃないの」
 だから許してあげてね、と力なく微笑む朱華の気持ちを慮る余裕もなく、綾は咄嗟に新たに生じた疑問を投げかけた。
 「でも、待って。朱華様が星神になる前って事は、凄く昔の話でしょう?」
 「そうよ。喜見城は巫翅人だもの」
 綾が何を訊きたいのかを正確に読み取って、朱華はそう応える。
 「最初は復讐の為に…それが叶ってからは、2度とサエナのような悲劇を繰り返さないよう不逞の輩を殲滅する為に、彼は巫翅人になったの。もともとサエナの民には風の精霊の加護があるとはいえ、未だ青年と言って良い年頃だったのが壮年も終わりに差し掛かるまで何十年もかけて、血の滲むような努力をして、それだけの魔力を身につけたのよ」
 「…あたし、巫翅人って大抵は生まれつき魔法に長けた人間がなるんだと思ってた」
 けれど実際には、強い感情に突き動かされて人は不死の命を望み、それを手にする。
 大切な人の傍にいる為に巫翅人となる道を択んだ熾輝や煌、復讐と理想を求める喜見城…綾自身、行きがかり上とはいえ「生きる」事を望んだからこそこうして此処に在るのだ。
 神妙に感慨に耽る綾を、朱華は子供を見守る母親の顔で眺め遣る。
 「激しい想いは、時にその命の形をも変える…けれど人の想いもまた、時の流れの中で移ろうものだわ」
 謎めいた言葉を口にする彼女の夕陽に照らされた横顔には、だが、物憂い翳りが差していた。