■第3話 陽炎の町■

(2)

 時告げの塔を目指して降下した御雷は、悠然と翼を羽ばたかせて窓枠の上に降り立った。
 瑠璃玻は常の如く長袖の衣に身を包んでいたが、猛禽類の鋭い爪は薄物の布など易々と貫き通してしまう。
 それをきちんと心得ている御雷は、誘うように差し伸べられた瑠璃玻の腕に止まる事はしない。
 無闇に人に怪我を負わせないよう馴らされているのだろう。
 「久しいな、御雷。元気にしていたか?」
 遠来の友を迎えるような気安さで話しかけながら、瑠璃玻は御雷の喉元を擽るように撫でてやる。
 暗褐色の身体の中で後頭部にだけ表れた金色に近い黄褐色の羽色と稲妻のように獲物をめがけて風を切る様からつけられた名の王者然とした趣とは裏腹に、御雷は甘えを含んだ調子で気持ち良さそうに喉を鳴らした。
 そうして一頻り歓待を受けて気が済んだのか、円筒状の容器が括りつけられた足を瑠璃玻に向けて差し示す。
 「あぁ、そうだな。喜見城《キミシロ》からの遣いで来たのだな」
 瑠璃玻の口から出た主の名に反応して、御雷は誇らしげに胸を反らせて羽を広げた。
 瑠璃玻は、御雷の言わんとする事を読み取って容器から小さく折り畳まれた書状を取り出すと、早速目を通し始める。
 だが、読み進むうちに柳眉が顰められ、喜ばしげだった表情に翳が射した。
 「瑠璃玻?喜見城は何と?」
 傍に控えた煌の案ずるような声も耳に届かないのか、瑠璃玻は難しい顔で物思いに耽る。
 つられた煌が思わしげな面持ちで見守る中、御雷だけが己の運んだ報せの重大さも知らず、風に揺れる紗のカーテンを不思議そうに眺めていた。
 

※  ※  ※


 「ユタに向かうって、どういう事!?」
 那波の夢殿に入って来るなり、綾は開口一番勢い込んでそう問いかけた。
 感情を顕にする綾は美しい。華やかな顔の造作もさる事ながら、つり上がり気味の双眸を爛々と輝かせる鮮やかな心の動きが見る者を惹きつける。
 ちなみに、綾は夏至の日に執り行われた光の祭祀の後、新年を祝って各地で開かれる宴に招かれての巡業から戻ったその足でこの場に顔を出していた。
 何しろ「星神の舞姫」の称号を授かった名うての芸妓華焔の神楽舞となれば、祭りに華を添えるのにこれほど相応しい物はない。
 そんなわけでしばらく天象神殿を空けていたのだが、帰って来て早々挨拶もなしに瑠璃玻に食って掛かる辺り、彼女らしいと言えば彼女らしかった。
 「よりによってこれから暑くなろうってこの時期に、何だって好き好んであんな所に行きたがるわけ?」
 ユタはミフル西部・ヴェストール地方に在るウルカ砂原の傍に位置する宿場町だ。
 砂漠に近い場所柄一年中降水量の少ない乾いた土地で、特に夏場は日陰を作る遮蔽物がない事から、南のジュナとはまた違った意味で酷暑に見舞われる。
 ミフルを東西に旅する隊商や巡礼中の神官等にとっては有り難い存在だが、余程の理由でもない限り敢えてその地を訪れようという者はほとんどないと言って良かった。
 だが、至極真っ当な綾の疑問も、瑠璃玻は真面目に取り合おうとはしなかった。
 時告げの塔から変わらぬ憂い顔のまま、僅かばかり煩わしげに視線を投げて遣したきり黙り込んでいる。
 煌は最初から瑠璃玻の決定に異を唱えるつもりはないのだろう。我関せずといったすまし顔で、瑠璃玻の為に巫子から差し入れられたオレンジを剥いていた。
 次第に苛立ちを感じ始めた綾に、思わぬ方向から助け舟が現れる。
 「確かに、綾の言う事も一理あるよなぁ」
 今日も今日とて軽佻浮薄を装った熾輝は、豪奢な黄金の髪をかき上げつつ、軽い口調で核心をつく問いを投げかけた。
 「で?急にユタに行くなんて言い出した理由は?」
 瑠璃玻は、殊更感情を抑制した声で言葉少なに答える。
 「地の根の柱に異状が見られると喜見城から報せがあった」
 それを耳にした那波の口から、弱々しい呟きが零れ落ちた。
 「…まだ、早い」
 ただでさえ透けるように白い彼女の肌が、心なしか更に蒼褪めて見える。
 おっとりと微笑んでいる事の多い那波が見せた沈痛な表情は、彼女が受けた衝撃の強さを如実に物語っていた。
 そもそも、瑠璃玻が那波のいる夢殿を訪れたのは、御雷の齎した情報の真偽を質し、未来見による助言を請う為だった。
 どこでどうずれが生じたのかユタに出向くという話ばかりが先走っていたのだが、那波が見せた反応から瑠璃玻は事態の深刻さを確信する。
 その上で、ようやくきちんと綾に向き直ると、意外な台詞を告げた。
 「綾は、今回留守居でも良いぞ」
 不可解な発言に一瞬戸惑った熾輝が、何かに思い当たったらしく一転して瑠璃玻の味方につく。
 「あ?あー、そーだな。新年祭からこっち働きづめだもんな」
 綾は、そこはかとない違和感を覚えて彼等を凝視した。
 いつもなら熾輝と一緒になって混ぜ返すように茶々を入れる朱華が、この場に居合わせながら1度も口を挿まないのも気にかかる。
 おかげで、地の根の柱とは何なのか?とか那波の言葉の意味とか、解らない事が山積みになっていたにも関わらず尋ねる機会を逸してしまった。
 「行かないとは言ってないでしょ」
 いろいろな意味で諦め混じりの溜息を落として、綾は気分を切り替える。
 「でも、せめて今夜くらいは休ませてよね!湯浴みして、着替えて、お偉いさん方に報告だってしなきゃならないんだから」
 どこまでも現実的で真情の篭った彼女の要求には、重く沈みがちな場の雰囲気をほんの少し浮上させる効果があった。