■第3話 陽炎の町■

(13)

 かつてサエナと呼ばれた村のあった場所で、綾は鎮魂の舞を舞っていた。
 楽の音はない。
 唄を詠む者も、見つめる観客も。
 大地から立ち昇る陽炎と砂塵を巻き上げる風に見守られて、綾は踊る。
 彼女の手には、大小二振りの彎刀――風の【シルフィード】があった。
 「あなたにあげるわ」
 そんな言葉と共に朱華が【シルフィード】を差し出した時、当然ながら綾は躊躇した。
 それはサエナの民に受け継がれてきた宝刀で、余所者の綾が軽々しく譲り受けて良い品だとは思えなかったのだ。
 そう主張した綾に、だが、正当な所有権を主張できる最後の1人である朱華は苦笑を浮かべただけだった。
 「あたしは、剣持ち戦う者にはなれないもの」
 そう言って淡く微笑む朱華が淋しげだったから、綾は彼女に代わって【シルフィード】を振るう事を決意した。
 喜見城も、きっと墓標などにするより彼女の為に使って欲しいと願うだろう。
 「愛と死の女神」星神・朱華の舞姫として、綾は死者を悼む舞を舞い続ける。
 燃える赤い夕陽が彼女を照らして、夜の闇に溶けるまで長い影を大地に落としていた。
 

※  ※  ※


 「…此処にいたのか」
 時告げの塔の最上階近くに在る風通しの良いその部屋を覗き込んだ熾輝が、窓辺に佇む人影に安堵の混じった溜息を落とす。
 大きく開いた窓枠に凭れて、瑠璃玻は眼下に広がる街並みをぼんやりと眺めていた。
 ウルカ砂原への旅でも日に焼ける事のなかった白い指が、傍に寄り添う御雷の背を半ば無意識に撫でている。
 声をかけられる以前から気配を覚っていたろうに、瑠璃玻は熾輝を振り返ろうとはしなかった。
 風が吹く度にふわりふわりとた靡く紗の布が頬を弄っていくのを煩がるでもなく、為すがままにさせている。
 どこか虚脱したように感情の欠落した横顔は整い過ぎているが故に作り物めいて見えて、命も意志も持たぬ綺麗なだけの人形を思わせた。
 熾輝は、胸の裡に兆した不安を振り払おうと敢えて陽気な調子で口を開く。
 「地の根の柱は、アイシオンから遣わされた導士達が風化の魔法を解いた上で改めて守護封印の核としたそうだ。根の道は封じちまったらしいけどな」
 そうして話している間にも、華奢な瑠璃玻の姿は逆光に透けてしまいそうで、募る焦慮が熾輝を饒舌にさせる。
 「仮にも精霊王直属の鎮守を専門にしてる連中だ。仕損じもないだろ。精霊王って言えば槐が感心してたぜ。精霊達が凪いでたおかげで原初の焔を鎮めるのが随分楽になったってな。…那波も感謝してる」
 軽薄さを装う事の多い熾輝が最後だけは真顔で告げるのを聞いても、瑠璃玻は身動ぎひとつしなかった。
 窓の外に視線を投げたまま、抑揚のない声でぽつりと呟く。
 「…私は、喜見城の言葉を否定できなかった」
 夏の灼けつく陽射しが容赦なく照りつける地上では、今日も人々が平穏な日常生活を営んでいる。
 けれど、街の片隅に1日中日の射さない日影が在るように、けして光の届かない世界が存在する事を、瑠璃玻は知っていた。
 容易く闇に蝕まれる人の心弱さを見てきたからこそ、瑠璃玻には喜見城の失望が理解出来てしまう。
 正義神として、また朱華との経緯を知る者として喜見城に目をかけていた熾輝も、それは充分承知していた。
 実直にして無骨、妥協を知らず、人間の犯す罪を、愚かさを憎み続けた彼が自分自身をさえ赦せずにいる事も薄々感づいてはいたのだ。
 だが、たとえ神と呼ばれる存在になっても、他人の心を変える事はできない。
 他者の影響を受ける事はあっても、人の意思はあくまでその人自身のものなのだ。
 頑ななまでに視線を合わせようとしない瑠璃玻を背中から抱き寄せて、熾輝は言う。
 「喜見城の生き様も死に様も、喜見城自身のものだ。あいつの事で自分を責めるな」
 それは、奇しくも瑠璃玻自身が喜見城に向けたのと同じ言葉だった。
 それでも、と瑠璃玻は遠い目をして思う。
 喜見城が信じたがっていた希望を与えてやれなかったのは、瑠璃玻に惧れがあったからだ。
 瑠璃玻自身が確固たる信念を持って未来の可能性を告げる事が出来たなら、或いは死に拠らずとも彼を救えたかもしれない。
 そう悔やむ思いと、呼び覚まされてしまった危惧とが瑠璃玻を苛む。
 今回の事は、人為的な災害だった。
 だが、いつかは精霊王の力をもってしてさえ防ぎきれない災厄がミフルを襲う日が来る。
 「運命の司」那波の見た夢――抗い難い破滅の未来を、瑠璃玻もまた知らされていた。
 これまでにも幾度となく沸き起こっては無理矢理抑え込んできた救いようのない虚無感が、瑠璃玻の胸を塞ぐ。
 滅びの約された世界に、どのような希望を見出せというのか。
 絶望に囚われかけた瑠璃玻の耳許に、熾輝の低い声が響く。
 「形有る物は、いつか滅びる」
 囁く声音の甘さに反して、その言葉は冷酷な事実を瑠璃玻に突きつけた。
 「永遠なんてものは、たぶん何処にもない」
 ぎくりと肩を震わせる瑠璃玻をきつく抱き竦めて、熾輝は問う。
 「それなら、今目にしてる景色、肌に感じる熱、誰かに寄せる想い、そういうのも全部無駄だと思うか?」
 まるでたった今世界を認識したとでもいうように、瑠璃玻は僅かに目を瞠って熾輝を振り仰いだ。
 揺れる瞳で、それでも何かを告げる為に、おずおずと唇を開く。
 だが、次の瞬間、瑠璃玻は弾かれたように部屋の入り口を振り返った。
 同じ気配を感じ取ったのか、熾輝も瑠璃玻を抱き締めていた腕を解いて距離をとる。
 その直後に、硝子の器と茶器の載った盆を手にした煌が現れた。
 「今日は、賄い方から棗椰子とオレンジの氷菓を戴いてしまいました」
 近衛の詰め所から此処に来る道の途中で待ち伏せされてしまって、などと零すわりに、氷菓の入った器を瑠璃玻に差し出す彼の涼やかな目許には愉しげな笑みが浮かんでいる。
 つられて表情を和らげつつ器を受け取った瑠璃玻は、煌の腕にかかった薄布を目敏く見つけて不平を洩らした。
 「だから、私は別に此処に昼寝をしに来てる訳じゃないと言ってるだろう」
 そう言って溜息を吐く瑠璃玻からは、先刻までの危うい空虚さは感じられない。
 甲斐甲斐しく何くれとなく世話を焼く煌と何だかんだとそれを甘受している瑠璃玻の様子をしばらく傍で見守っていた熾輝は、これならもう大丈夫だろうと判断した。
 「さって、と。邪魔者は退散しますか」
 「棗椰子なら熾輝の分もありますけど?」
 故意か天然か、立ち去りかけた熾輝をそれまでほぼ完璧に無視していた煌がおっとりとそう呼び止める。
 「いや、食い物の話じゃなくってな」
 熾輝は、少々脱力しつつ、ひらひらと手を振って階段のある通路に向かって足を踏み出した。
 その背中に向けて、瑠璃玻が声を投げる。
 「熾輝」
 首だけを捻って振り返った熾輝に、瑠璃玻は毅い瞳をして先程の問いに対する答えを告げた。
 「答えは否、だ」
 唇の端をほんの少し笑みの形に吊り上げて、熾輝は再び歩き出す。
 

※  ※  ※


 ――たとえ、滅びの予言された世界でも。
 降り注ぐ陽の光に黄金の髪を煌かせ、熾輝は蒼穹の彩を映した双眸を眇めて天を仰ぐ。
 その眼差しは、運命に挑む者のようでもあり、未来を悼む者のようでもあった。