■第3話 陽炎の町■

(12)

 ――この光景を知っている。
 深手を負って崩折れる喜見城の脳裏に、忌むべき記憶が蘇る。
 辺りを取り巻く紅蓮の炎。滾る大気と降り積もる火の粉。風に舞う砂埃。
 熱に灼かれて揺らめく景色の向こうに焼け落ちる村落の幻影さえ見えるようだ。
 その中心に、翼を広げて立つひとりの少女。
 淡紅の翼の中で一際色濃く朱を纏った風切羽が、炎の緋色に照り映える。
 あの時も、彼女の背には解き放たれた力が形作る現ならぬ翅翼が在った。
 ただひとつ違うのは、少女の瞳に毅然とした意志の炎が宿っている事だろう。
 湧き上がる風に結い上げた黒髪を舞わせて、少女は――綾は告げる。
 「あたしには、優しく眠らせてあげる事は出来ないけど」
 彼女の身の内から放たれた焔は、怨讐も罪業も総て灼き尽くす浄火だった。 
 炎に巻き込まれるそばから、砂屍鬼達が次々と砂へと還っていく。
 死者の魂を鎮めて久遠の眠りへと導く瑠璃玻の遣り方と較べれば、強制的に現世との繋がりを絶って精霊王の下へと送り込む彼女の力は確かに乱暴かもしれない。
 それでも、妄執の虜となって迷妄の最中を彷徨う者に救済の道を開く事に変わりはない。
 綾の腕に抱かれた御雷の傷が塞がっていく。
 知らず癒しの魔法さえ揮う綾の姿を翳む視界に収めた喜見城は、追憶とは別の感慨を込めて呟いた。
 「強い娘だな」
 「そうよ」
 傷つき、力尽きて大地に横たわる彼の上に、炎の中にあって尚燃え立つような橙赤の髪が落ちかかる。
 「あたしのお気に入りだもの」
 いつの間に現れたのか、血と砂に汚れる事も厭わずに跪いた朱華が、慈愛に満ちた面差しで喜見城を見つめていた。
 哀しげな笑みを湛えた彼女の瑞々しい深緑の瞳は、乾いた地に生まれ育った者の心に緑豊かな大地への憧憬を呼び起こす。
 砂の海を旅する者がオアシスに焦がれるように、喜見城の胸にもまた朱華の鮮やかな双眸に惹かれる想いはある。
 だが、今の彼はその瞳を見つめ返す事はなかった。
 「「星神の舞姫」、か…」
 険の失せた目を眇め、渦巻く熱気の中心に火焔を従えて立つ綾の後姿を眩しげに眺め遣る。
 「私にも、彼女の毅さがあれば――っ」
 そこで不意に言葉を途切れさせ、喜見城は小さく咳き込んだ。
 乾いて罅割れた唇からこふりと鮮血が溢れ、顎から喉下へと伝い落ちる。
 その血を拭う為に腕を上げるだけの力は、喜見城にはもう残されていなかった。
 一頻り咽た後、辛そうに瞼を閉じ眉根を寄せたまま、喜見城は浅く荒い呼吸の合間を縫って切れ切れに言葉を紡ぐ。
 「すべては私の甘えが招いた事だ…変わらぬ人の罪深さに倦み疲れて地の根の柱を滅ぼすべく画策しておきながら、私は心のどこかで止められる事を望んでいた。人間は愚かなばかりではないのだと…希望はあると、誰かに言って欲しかった」
 「瑠璃玻なら、容赦なく叱り飛ばすわね」
 疼痛を孕んだ眼差しとは裏腹な明るい苦笑混じりの声で、朱華は喜見城の悔悛を優しく受け止める。
 苦しい息の下で呻くように「あぁ」と応じる喜見城の頬に、束の間弱々しい笑みが浮かんで消えた。
 仰向けに身を投げ出した状態で首を捻り、本来の人懐こさを発揮して戯れかかる風に身を委ねる瑠璃玻を驚嘆と畏敬の念を持って見つめる。
 原初の焔を鎮め、更に狂った精霊をも宥めてしまえるだけの強大な力が華奢なその身の何処に潜んでいたものか…そうして、諦める事を良しとせず己が限界を超えてでも闘う事を択ぶ精神力は何処から来るのか。
 若さ故の理想主義だと一言に伏すには、斎主としての瑠璃玻はあまりに多くの絶望を見てきた筈だった。
 つまるところ、瑠璃玻もまた、彼が持ち得なかった毅さを内に秘めているのだろう。
 昏く自嘲するのではなく、純粋に及ばぬ我が身を振り返る心境で、喜見城は還らぬ日々に想いを馳せる。
 「瑠璃玻様を見ていて思い出した。かつて、私にも、命を賭けて護りたいと願うものがあった事を」
 それは、サエナの村であり、其処に住む民であり…そして、彼の愛した少女でもあった。
 再び咳き込んで血を吐いた喜見城が、喘鳴に掠れる声で述懐する。
 「あの娘は、貴方に良く似ている…彼女を護って逝けるのなら、過ちの多かった私の生に、僅かなりとも意味を見出せようというものだ」
 巫翅人は、厳密な意味で不死ではない。
 不老長寿ではあっても、癒し難い傷や浄化しきれない毒の為に命を落とす事もある。
 全身に裂傷や咬傷を負い、腕を折られ、肢を潰された喜見城は、既に肉体の自由を失いつつあった。
 唇を濡らす血の色の鮮やかさからすると、腹部に突き刺さったままの槍はおそらく肺を傷つけているだろう。
 元々浅黒く日焼けしていた肌は、今や土気色に染まっている。
 早晩彼の命の火は消える――誰より喜見城自身がその事を感じ取っていた。
 その上で、彼は永らえる事も、痛みを和らげる事すらも望まず、己の心弱さへの報いとしての死を受け入れようとしている。
 けれど、それもまた終わりなき償いの生からの逃避ではないか?
 朱華は、敢えて煩悶する喜見城を責める言葉を口にする。
 「そうして、あたしを独りにするの?…酷い男ね」
 サエナの民を襲った悲劇から図らずも生き残ってしまった者同士、2人の間には離れていてもどこか共犯めいた意識が存在していた。
 人として生きていれば成就していたかもしれない淡い恋慕ではなく、かといって純然たる恨みや憎しみでも、傷を舐めあうような同胞意識でもなく…それら総てが渾然一体となった想いが、いつしか解ける事のない絆を形作っていた。
 それなのに、自分ひとり安寧の眠りに就くつもりかと、朱華は暗に問いかける。
 喜見城は、赦しを請おうとはしなかった。
 代わりに、ともすれば遠退きかける意識の端を懸命に手繰り寄せ、最期の願いを口にする。
 「朱華…御雷を…」
 「良いわ」
 零れた声はもう禄に言葉にならなかったけれど、朱華は彼の意を正確に汲み取って頷いた。
 「あの子の生命は、あたしが責任を持って預かってあげる」
 額に落ちかかる灰色の髪を払い、砂と血に塗れた頬を細い指でそっと包み込む。
 「だから、もうゆっくり休んでいいのよ」
 どこまでも優しいその仕草と柔らかな声に誘われるままに、喜見城はうっすらと笑みを浮かべて目を閉じた。