■第3話 陽炎の町■

(11)

 とんっと軽く大地を蹴って、綾の体が宙に舞う。
 突撃を躱わされて蹈鞴を踏む先頭の砂屍鬼の肩に手を置いて頭上を飛び越え、飛び込んで来た2体目の顔面に踵をめり込ませる。
 反動を利用して飛び退りがてら3体目の顎を蹴り上げ、宙返りを切って着地するとすぐに身体を捻ってこめかみへの肘打ち、腰部への回し蹴り、後頭部への後ろ回し蹴りと続き、最後の1体に頸部に刃を突き立てるまでの流れるような一連の攻撃で、彼女の周囲には4体の砂山が築かれた。
 一撃必殺の効率的な攻撃だが、さすがに動きが止まれば隙も生じる。
 彼女の攻撃が止む瞬間を待って、砂屍鬼達は一斉に襲い掛かった。
 四方から迫り来る砂屍鬼の集団に取り囲まれた綾が、ふっと片膝をつく形で身を沈める。
 その直後、巨大な風の刃が直前まで彼女の首があった高さを薙ぎ払った。
 綾の黒髪がふわりと弧を描いて肩に落ちるまでの間に、集まっていた砂屍鬼達は全て崩れ落ちる。
 砂煙の向こうに、【シルフィード】を手にして立つ喜見城の姿があった。
 まるで彼の攻撃を見越していたかのように囮の役を買って出た綾は、再び地を蹴って軽やかに立ち上がる。
 喜見城もまた、腰を落として【シルフィード】を構えると敵陣に駆け込んで行った。
 人の容をした風のように、綾と喜見城は砂屍鬼の群れの中を縦横無尽に走り抜ける。
 元々は単独行動を基本とする2人だが、置かれた状況を最大限活かす戦い方に慣れ親しんでいるだけあって、即席のパートナーとは思えない見事に息の合った連携をみせていた。
 だが、やはり多勢に無勢という感は否めない。
 何しろ、砂の中から際限なく現れる砂屍鬼に対して、こちらは綾と喜見城の2人のみ――煌は結界を維持しつつ未だ鎮まらぬ風精を宥める瑠璃玻を護る為に剣を振るうのが精一杯で、積極的に戦闘に参加する余裕はない。
 更に、攻撃手段の違いから来る不利さも、時間が経つにつれて次第に浮き彫りになってくる。
 綾の武器は、握りの部分に鉤爪が組み込まれた特殊な短刀だった。
 移動の邪魔にならないよう小型で軽量なものを、という理由で選んだそれは短刀での刺突や斬撃に加えて指の間に握り込んだ鉤爪で相手の膚を切り裂いたり攻撃を受け止めたりも出来る便利な代物だが、そもそも人目を盗んで携帯するような護身や暗殺向きの武器だけに必殺の一撃以外の威力は然程高くない。
 それに、攻撃の有効範囲も限られる為、どうしても多少の傷は覚悟で接近戦に挑まざるを得なくなる。
 喜見城の方も、精霊が荒れ狂っている傍でそうそう風の魔法を使うわけにもいかず、今では専ら直接攻撃に頼っていた。
 生前の形を留めたものか、或いは砂に埋もれていた遺物なのか、砂屍鬼の中には武器を手にした者も多い。
 数で敵わない相手だからこそ、本来なら近づき過ぎる前に止めを刺して危険を最小限に抑えるべき状況で不本意な戦いを強いられる彼等の消耗は激しかった。
 「もぉ!キリがないじゃないっ!」
 死者故に疲れも恐れも知らず、倒しても倒しても次から次へと湧いて出る砂屍鬼に、綾がキィッと癇癪を起こす。
 そんな彼女に、瑠璃玻は何の慰めにもならない事実と併せて消極的な打開策を示した。
 「怨讐そのものを祓えなければ砂屍鬼は斃せないぞ。一体一体は砂で出来てるだけあって脆い。いざとなったら目の前に立ち塞がる者だけ蹴り倒して逃げろ」
 「何言ってんの?」
 肩で息をしつつ、眉を顰めて綾はそう訊き返す。
 竜巻は、まだ完全には静まった訳ではない。瑠璃玻の尽力で辛うじて小康状態を保っているに過ぎないのだ。
 綾が無事にこの地を離れるには、瑠璃玻が風精を宥め続けなければならない。
 仮に防護壁を張れば強行突破できるとしてもこの状況を捨て置ける瑠璃玻ではないし、煌が瑠璃玻の傍を離れる筈もない。
 「瑠璃玻も煌も逃げないんでしょ?あたしもつきあうわよ。あんた達を置いて逃げ帰ったりしたら寝覚めが悪くてしょうがないし、だいたい熾輝様に何て言われる事か」
 大袈裟に肩を竦めてみせる綾に、煌も微苦笑を浮かべて「確かに」と同意する。
 太陽神・熾輝の斎主への寵愛はつとに有名だった。
 噂そのものは後ろ盾のなかった幼い瑠璃玻を護る為にわざと広めた向きもあったが、実際に伴侶とされている月神・那波と瑠璃玻を傷つける相手に対する彼の苛烈さは全く容赦がない。
 実のところ熾輝にとっては煌や綾も身内も同然の存在だったし、当然彼女の無事を願わぬ筈はないのだが。
 そういった事実を充分承知した上で、綾はそんな風に嘯く。
 それは、張り詰め過ぎた神経を和らげる狙いがあっての事だった。
 だが、和やかな雰囲気が一瞬の、けれど致命的な油断となった。
 喜見城達を支援するように上空から攻撃を仕掛けていた御雷に向けて、砂屍鬼の1体が小振りの直刀を投げつける。
 勢い良く空を切った刃は、僅かに狙いを逸れて御雷の左翼を貫いた。
 「御雷!」
 鋭い啼き声に我に返った綾は、咄嗟に腕を伸ばして墜落する御雷を抱き止める。
 そのまま地面に座り込む彼女の上に、黒々とした影が落ちた。
 慌てて顔を上げたものの、両腕を塞がれた綾には眼前に迫る槍の穂先から逃れる術はない。
 衝撃を覚悟した彼女の視界は、次の瞬間真紅に染まった。
 「…やだ…何、これ…」
 頭から血飛沫を浴びた綾が、現実感に乏しい声で呆然と呟く。
 生温かいその体液は、彼女に背を向けて立つ喜見城のものだった。
 綾を襲った砂屍鬼を斬り捨てたその手で右脇腹に突き込まれた槍の柄を叩き折って、喜見城は尚も砂屍鬼の群れに向かって行く。
 手酷い傷を負い動きの鈍った彼は、砂屍鬼達の恰好の獲物だった。
 剣や斧で斬りつけ、或いは素手で掴み掛かって爪で膚を抉り獣じみた牙を立てて来る砂屍鬼を、喜見城は渾身の力でもって切り伏せていく。
 「喜見城っ!!止せっ!!」
 「もう良い!もう充分です!!」
 戦場に駆けつける事の出来ない瑠璃玻と煌が必死に制止するのも聞かずに【シルフィード】を振るい続ける喜見城の壮絶な戦いぶりは、苦悶に歪んだ表情の険しさと相俟って彼こそが悪鬼の如き様相を呈していた。
 祈りを捧げる瑠璃玻の想いに引き摺られるかのように、安定を欠いた精霊の巻き起こす風が悲痛な響きを帯びる。
 再び荒れ始めた風の中、綾は何も映さない瞳でぼんやりと目の前の光景を見つめていた。
 彼女の腕の中で蹲る御雷の褐色の羽の上に、ぱたぱたと鮮血が滴り落ちる。
 僅かに身じろぐ御雷の弱々しい声が、ようやく綾の意識を現実へと引き戻した。
 宙を彷徨っていた視線が焦点を結び、そして――。
 「やめてぇっ!!」
 絶叫と共に、辺りは一瞬にして業火に呑み込まれた。