■第3話 陽炎の町■

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 瑠璃玻が詠み上げる呪詞と大地の鳴動の共振が完全に途絶えるのと同時に、辺りに薄闇の紗が降りた。
 鎮めの魔法の名残か、凪いだ湖面だけがぼんやりと仄かな光を放っている。
 惹かれるようにそちらに視線を移した綾は、地の根の柱の前に膝をついた瑠璃玻の姿を目にして息を呑んだ。
 せつなげに眉を寄せ、何かに耐えるように右手でぎゅっと襟元を握って苦しげな浅い呼吸を繰り返す瑠璃玻の背に、眩い程の煌きを纏う白銀の翼は既にない。
 根の道に入ってから此処まで彼等を導いてきた蝶の灯りも、いつの間にか消え失せていた。
 しんと静まり返った中、遥か上方にある洞窟の入り口付近から、低く篭った笛の音のような響きが聞こえてくる。
 そこに不吉な何かを感じ取って、綾は身震いして岩壁を見回した。
 力の抜けた瑠璃玻の傍に膝をつき、細い肢体を支えるように抱き込んだ煌が、普段は物柔らかな声を危機感に尖らせる。
 「嫌な予感がします。すぐに此処を出た方が良い」
 喜見城は、無言で踵を返すと、石柱の並ぶ坑道に向かって歩き出した。
 慌てて綾が後を追い、瑠璃玻を抱き上げた煌がそれに続く。
 「下がっていろ」
 空洞から駆け出そうとしていた綾に短くそう命じて、喜見城は腰の両脇に佩いた【シルフィード】の柄に手を掛けた。
 目を閉じ、顎を引いて大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。
 そうして極限まで緊張を高めておいて、交差させた腕を戻す一動作で長短二振りの彎刀を引き抜いた。
 風を帯びた刃が、十字の軌跡を描く。
 文字通り切り裂かれた虚空に、次の瞬間周囲とは全く異質な空間が現れた。
 「な…に?」
 「地上への道を開いた。だが、私程度の力ではそう長くは維持できまい」
 不安げに問う綾に感情を殺ぎ落とした口調で答えて、喜見城は光が踊る幻めいた空間に消える。
 煌が瑠璃玻と共に続き、最後に恐々とした様子で綾が足を踏み入れると、【シルフィード】が切り開いた道は呆気なく閉ざされた。
 一瞬の浮遊感に続いて目の眩むような閃光が迸る。
 強烈な光に灼かれた視界が戻ると、其処はもう地底深くに穿たれた坑道ではなかった。
 きょろきょろと周りを見回した綾は、すぐに根の道の入り口にあった広間まで一足跳びに移動してきたのだと気づく。
 「こんな便利な仕掛けがあるなら、わざわざあんなに長い階段を下る事なかったのに」
 軽い気持ちで愚痴を零す綾に、喜見城は生真面目な言葉を返した。
 「転位の門は地の根の柱の側からしか開かないようになっている」
 「そっか、外から簡単に侵入されちゃ困るものね」
 綾は、持ち前の切り替えの早さで素直に頷くと、足取りも軽く駆けて行く。
 だが、広間から柱廊になった露台に出て外の光景を目にした途端、明るかった彼女の表情は一瞬にして凍りついた。
 「…嘘…」
 呟く声は震え、赤銅色の肌越しにさえはっきりと血の気が退くのが見て取れる。
 「どうした?」
 只ならぬ綾の様子に駆けつけた喜見城は、怪訝そうに彼女の瞳の先に視線を向けた。
 そうして、綾を襲ったのと同じ驚愕と畏怖に打たれて瞠目する。
 「竜巻だと!?」
 根の道の入り口がある巨岩と左右に張り出した岩脈とに囲まれて前庭のような様相を呈している空き地を、巨大な竜巻が襲っていた。
 雷光を纏った烈風が砂礫を巻き上げ、その場を支配するかのように中空にとぐろを巻いて地上を睥睨している。
 さながら風の精霊が具現化した龍神の如き姿に、喜見城は呆然と呟いた。
 「こんな事が…」
 砂原の只中とはいえ周囲に岩山が乱立するこの地区では、突風が吹き抜ける事はあっても旋風が起こる事はまずない。
 綾が、刻一刻と激しさを増す風にかき消されまいと悲鳴じみた声を上げる。
 「これが、瑠璃玻の言ってた揺り返しなの!?」
 これが自然の怒りだと言うのなら、到底人の手に負えるものではない。
 しかし、瑠璃玻はふらりと身体を起こすと、轟々と吹き荒れる風の中へ足を踏み出した。
 制止しようと腕を伸ばす綾や喜見城を阻む程の突風に煽られながらも、瑠璃玻は凛然と顔を上げる。
 そして、再び3対の翅翼を顕し、天に君臨する風龍に向かって両手を差し伸べた。
 いっぱいに広げられた翼が、風を司る意思と共鳴してびりびりと震える。
 言葉でなく全身全霊を捧げて、瑠璃玻は荒れ狂う精霊を宥めようとしていた。
 自然の理を侵された事に対する憤怒と瑠璃玻の慰撫に惹かれる想いとが拮抗し、風精が混乱を来たす。
 突きかかるようにあらゆる方向から吹きつける強風が容赦なく瑠璃玻の髪を嬲り、暴走した力は遂に鎌風となって惑乱の元凶に牙を剥いた。
 「瑠璃玻っ!!」
 思わず駆け出そうとした綾を、喜見城が力尽くで引き止める。
 瑠璃玻の身体を斬り裂く筈の風の刃は、しかし、見えない壁に弾かれて霧消した。
 よくよく目を凝らして見れば、いつの間にかドーム状の防護壁が4人を包む範囲に展開されている。
 その中心に、瑠璃玻の隣に寄り添って立つ煌の姿があった。
 鞘から抜いた【プロクシェーム】を胸の前に水平に掲げ持った彼の背には白金の輝きを帯びた4枚の翼があって、瑠璃玻を護るように包み込んでいる。
 だが、安堵に胸を撫で下ろす事が出来たのはほんの僅かの間の事だった。
 既に、新たな脅威が訪れつつあったのだ。
 肩に止まった御雷が上げた警告の声に視線を巡らせた喜見城は、旋風に舞う砂塵とは別に、地表を覆う砂が不自然な動きを見せているのに気づいて眉を顰めた。
 「流砂か?いや、これは――」
 じっとそちらを凝視する彼の顔色が、次第に蒼褪める。
 「砂屍鬼《サジキ》!」
 それまでになく緊迫した喜見城の声は、それだけ事態が逼迫している事を意味していた。
 「今度は何なのっ!?」
 綾は、半分泣き出したい気分で説明を求める。
 せめてもの救いは、答える煌がいつも通り冷静さを保っていた事だった。
 「亡者の怨讐が砂に凝った魔物です」
 砂漠のような厳しい環境では、思いがけない状況に陥って命を落とす者も多い。
 その上、隊商やオアシスを襲撃する不貞の輩も後を絶たない。
 そんな風に無念の死を遂げた人間の魂は、魔へと堕する確率が高かった。
 通常であれば「愛と死の女神」朱華の名の下に執り行われる鎮魂の儀をもって丁重に永久の眠りへと導くのだが、こういった秘境での死者の場合、人が足を踏み入れぬ場所だけにどうしても魂を鎮める儀式も行われないまま放置されてしまいがちになる。
 水が沙に滲みるように、或いは風に運ばれた塵が降り積もるように、人の思念は砂に凝る。
 そうして気が遠くなる程の年月をかけて蓄積された怨念が形を成したもの、それが砂屍鬼なのだと、煌は語った。
 「場の均衡が崩れた所為で目醒めたのか、精霊の怒りに刺激されたのか…何処までも祟るな」
 風龍と対峙したまま、瑠璃玻は忌々しげに溜息を落とす。
 「絶体絶命って感じね」
 軽口と変わらない調子で相槌を打つ綾の表情に、余裕の色はまったくなかった。