■第3話 陽炎の町■
(1)
ミフルの中でも季節の移ろいの穏やかな事で知られる聖都メシエも、新年を祝う光の祭祀を過ぎると本格的な夏の到来を迎える。
メシエの夏は雨が少なく湿度が低い。
澄み渡った蒼穹に白い雲がふわふわと遊ぶ様が見る者の目を愉しませるような、からりとした晴天が幾日も続く。
おかげでじめじめとした茹だるような蒸し暑さとは無縁だが、それでも照りつける陽射しの強さとそれが齎す熱は民の暮らしに影響を及ぼした。
人々は舗装された街路の石畳に水を打って暑気を払い、束の間の憩いを求めて大きく枝を広げた木々や泉の周りに集う。
そうした光景は、街中だけでなく天象神殿に於いても同様に見られた。
いとも貴き祭祀王たる斎主を筆頭に多くの神官や巫子を擁し、都の、延いてはミフルそのものの中核を成す存在として賓客を迎える機会も多い天象神殿では、訪れる人々が少しでも快適に過ごせるよう様々な趣向が凝らされている。
例えばそれは、庭園の随所に配された噴水とそれを巡る吹き貫きの回廊であったり、近くを走るレイタ河の流れを領内に引き込んだ人工の小川であったり、屋上まで汲み上げたられた清流が水の壁となって流れ落ちる仕掛けの池亭や蓮花の揺れる水路に囲まれた石造りの東屋だったりする。
また、そういった手の込んだ施設以外にも、本殿の地下に設けられた広大な面積を誇る書庫や貯蔵庫、月神・那波の夢殿や星神・朱華の霊廟等は夏の間もひんやりとした空気に包まれている為、神殿関係者の間では避暑にはうってつけの場所として知られている――ただし、後者の2つに足を踏み入れる事のできる人間は非常に限られていたが。
時告げの塔の最上階近くに在る一室も、そうした穴場のひとつだった。
元々はこの部屋、時と運命を司る那波の名の下朝に夕に鐘を鳴らして時を報せる役を担う塔の衛士が使う控え室兼倉庫として造られたものだった。
簡素といえば聞こえは良いが、大きく開いた窓からの見晴らしの良さ以外これといって取柄もないただの空き部屋だ。
だが、いつの頃からか、この部屋に瑠璃玻が入り浸るようになった。
バルコニー状に張り出した上階の床が日除けの役割を果たす為に一日中薄暗い室内は、陽光が射さない分気温も然程上がらない。
都の南西に位置するヒナ湖を渡る風が涼を運ぶ事もあって確かに暑さを凌ぐには丁度良い環境だが、高い塔の上まで階段を上って来なければならない事を考えれば斎主という立場にある瑠璃玻に相応しいとは言い難い。
だが、その不便さも含めて、瑠璃玻はこの場所を好んでいた。
神殿内でも重鎮と呼ばれるような位の者は大概が高齢で、わざわざ体力を消耗してまでこの部屋までやってくる事はまずない。
煩方から逃れるには都合が良い、という訳だ。
軽やかに風に踊る紗の布をカーテン代わりに窓に掛け、お気に入りのラグを敷く。
それだけで、碌な調度もなく殺風景で味気なかったその部屋がちょっとした隠れ家のような居心地の良い空間になる。
衛士達も心得たもので、瑠璃玻が其処を訪れている間は極力邪魔にならないよう、遠巻きに警護するに止まっていた。
その日も、瑠璃玻は窓枠の1つに腰掛けて膝の上に広げた文書に目を通していた。
が、ふと階下より響いてきた靴音に、気怠げに書を繰っていた指が止まる。
文字に落とした視線はそのままに、瑠璃玻は気配の主が開け放った扉の前に立つのを待って口を開いた。
「良い香りだな」
白く可憐な花と良く熟した実をつけたオレンジの木の枝を一振り手にした煌が、眩しげに目を眇めて瑠璃玻を見遣る。
目映いばかりの夏の陽を背に揺れる紗の布に包まれて佇む瑠璃玻の姿は、美しい幻想画のように神秘的な儚さで煌の視線を奪った。
日の光を反射して銀色の艶を帯びた黒髪がふわりと風に靡いて、瑠璃玻がようやく顔を上げて煌を見る。
煌は、ゆったりとした足取りで窓辺に歩み寄ると、立ったまま腰を折って瑠璃玻にオレンジの枝を差し出した。
「此処に向かう途中で会った巫子があなたに、と」
「すっかり此処も知られている、という事か」
やれやれと肩を竦めながらも、瑠璃玻は漂う芳香に頬を緩める。
それから、もう1つ煌が持ち込んだ品に目をやって、やや胡乱げな上目遣いで煌を見上げて問いかけた。
「で、そっちの薄布は何だ?」
尋ねられた煌は、至ってにこやかにこう答える。
「そろそろ午睡を楽しんでる頃かと思ったんですけど」
瑠璃玻の護り人を務める彼は、身体を冷やしてはいけないからとわざわざ掛け布を持参したらしい。
「それは厭味のつもりか?」と訊きかけた瑠璃玻だが、貴族的に整った煌の顔に浮かぶ穏やかな微笑みに毒気を抜かれて口を噤んだ。
代わりに、窓の外へと眼差しを転じて眼下に広がるメシエの街並みを眺める。
この場所からの眺めが、瑠璃玻は好きだった。
すべて世は事もなし、などと容易く言う事は出来ない。今この瞬間にも何処かで哀しみが生じている事も、諍いの火種が燻っている事も知っている。
それでも、此処から一望する光景、民の日々の営みが恙無く行われている姿は、多少なりとも瑠璃玻の心を慰めてくれるのだ。
僅かの間物思いに耽っていた瑠璃玻は、ふっと空を過ぎった影に我に返った。
見れば、翼を広げた大きな鷲が1羽、時告げの塔の上を旋回している。
「御雷《ミカツチ》!」
瑠璃玻がそう呼びかけると、御雷と呼ばれた鷲は応えるように一声高く啼いて待ち受ける2人の下へと舞い降りた。
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