■番外編 永遠の恋■

(9)

 那波と熾輝が精霊王の森に足を踏み入れてすぐに空に暗雲が立ち込め、それから幾らも経たないうちに小雪がちらつき始めた。
 ただでさえ昼尚暗い木の下闇の中、更に視界が悪化する事に懸念した熾輝は、小難しい顔で天を仰ぐ。
 常緑樹の深緑と雪片の白との鮮やかな対比に違和感を覚える彼の隣では、那波が瞳を輝かせて灰色の空に向かって手を伸ばしていた。
 掌に舞い降りた結晶が水に還る様を不思議そうに見つめる姿は妙にあどけない。
 熾輝は、それを可愛らしく思う一方で、足許が疎かになりはしないかと内心はらはらしながら彼女の歩みを見守る。
 地面を埋め尽くす凍った枯葉の下にはところどころで木の根が張り出していたり小石が隠れていたりして、慣れた者でも足取りが覚束なくなりがちだった。
 だが、熾輝の心配を他所に、那波は危なげなく踊るように歩を運んでいく。
 心からこの状況を楽しんでいるらしい彼女に半ば呆れつつ、熾輝はなおざりに問いを投げかけた。
 「雪なんてそう珍しいもんでもないだろ?」
 熾輝の記憶では、アウインはミフル北部・ノルド地方の東部にある田舎町だった筈だ。
 テニヤ山脈の麓に位置するユークレースのように冬の間は雪に閉ざされる、とまではいかなくとも、年に数回は雪が積もる事もあるだろう。
 彼が何を訝しがっているのかを正確に汲み取った那波は、肩越しに振り返るとはんなりと微笑む。
 「いつも、真っ白な雪景色を窓越しに眺めていました。こうして直に触れるのは物心ついて以来かしら?だから、ついはしゃいでしまって」
 ほんの少しはにかむ素振りで告げられた言葉に、熾輝ははっと胸を衝かれた。
 籠の中の鳥――ユタの町の宿で槻乃と交わした会話が脳裏に蘇る。
 那波本人はまるで何でもない事のように話すのが、余計に彼を遣る瀬無い気分にさせた。
 己の迂闊さを密かに呪いつつ、熾輝は不自然さを承知の上で話を逸らす。
 「さっきの金獅子ってのは一体何なんだ?」
 那波は、唐突な話題の転換に一瞬戸惑いを見せた。
 だが、きょとんとした顔で首を傾げていたのも束の間、すぐにころころと笑い出す。
 くるくると変わる表情に困惑する熾輝を面白がるように、那波は笑みを孕んだ声で説明を始めた。
 「槐様に、ミル樹海で貴方と出逢った時の事をお話したのです。力強くて温かな気を持った、とても綺麗な黄金の獅子を見たと。その時の喩えが思いの外お気に召したようですね」
 「精霊王と話す?」
 「はい」
 眉を顰めて訊き返す熾輝に、那波はにっこり笑って頷く。
 「梢を渡る風に、水面を走る漣に、炎の揺らめきの中にも、精霊王の声は宿っていますから」
 「そんな事が出来るなら、わざわざこんな辺境の地にまで足を運ばなくても良いんじゃ――」
 憮然とした顔でそう言いかけた熾輝は、失言に気づいて口を閉ざした。
 冬枯れの景色にさえ悦びを見出す那波に、短い間だけでも外の世界を見せたいと思う。その想いを無にするのは無粋というものだ。
 那波は、続ける言葉に迷う熾輝を宥めるように穏やかな眼差しを向ける。
 「確かに、私にミフルを旅する機会を与えてくださった方々の好意は嬉しく思っています。でも、それ以上に、私にはこの地を訪れなければならない理由があったのです」
 意味深長な那波の発言の真意を尋ねようとした熾輝は、次の瞬間、弾かれたように背後を振り向いた。
 研ぎ澄まされた聴覚が、微かな物音を捉えたのだ。
 辺りに鋭い眼光を投げつつ、熾輝は左腕で那波を庇うように胸元へと抱き寄せる。
 右手を【カルサムス】の柄に掛けた姿勢で木々の間に目を凝らす真摯な横顔からは、普段の飄然とした雰囲気は綺麗に拭い去られていた。
 そうこうする内に、今度は那波の耳にも霜の降りた大地を踏みしめるさくりという足音が聞こえてくる。
 ややあって、息を呑んで見つめる2人の眼前に、一頭の獣が姿を現した。
 それは、しなやかな、それでいて堂々とした体躯の牡鹿だった。
 古木のように厳めしく枝分かれした立派な角を持つ彼は、黒目がちの双眸をじっと那波に据えている。
 ピンと耳を欹て真っ直ぐに首を起こした立ち姿は、警戒心の強い草食動物に特有の怯えのような気配は微塵も感じさせない。
 凛とした佇まいには、王者然とした威厳さえ漂っている。
 褐色の瞳は、見透かせない程深い色と静かな叡智とを湛えていた。
 どれだけの間そうしていただろう。
 那波は、熾輝の腕の中からするりと抜け出すと、優雅な身ごなしで1、2歩前に歩み出た。
 牡鹿は、那波がすぐ傍まで近づくのを待って、悠然と語りかける。
 「よく来たな、那波」
 尊大な中にも歓待の意を含むその声は、茫然と立ち尽くす熾輝の耳にも届いた。
 熾輝は、せつなくも胸に迫る鹿の鳴き声を聞き知っていた。
 だから解る。あんな風に啼く生き物が人間の言葉を話せる筈がない。
 頭の中に響くこの声は、精霊王が使う言霊の魔法だ。
 人知を超えた存在への畏敬の念に、熾輝は我知らず身震いする。
 一方、那波はこれといって気負うでもなく、精霊王・槐の化身である牡鹿におっとりと頷いてみせた。
 「はい、槐様」
 穏やかな、しかし毅然とした意思を清雅な笑みに秘めて、彼女は告げる。
 「約束を、果たしていただきに参りました」
 「約束?」
 それが、先程彼女が口にしかけた「理由」なのか。
 言外にそう問う熾輝に、那波はきちんと目を合わせてこう答えた。
 「夢の真偽を…私の見た夢の意味を尋ねた私に、槐様は答えを知りたければ訪ねて来いと仰ったのです」
 それから、身じろぎひとつせずに立つ槐に向き直る。
 「槐様に呼ばれるままに、私はこうしてアイシオンにやって参りました」
 獣の顔から感情を読むのは難しい。
 だが、熾輝は、那波を見つめる槐の表情が心なしか翳ったように感じた。
 「誓約は果たさねばなるまいな」
 思慮深い眸の牡鹿は、人間ならば溜息混じりとでもいった調子で頭を振る。
 だが、再び視線を那波へと戻した槐に躊躇いはなかった。
 感情を一切排除した冷徹な声が、息詰まる沈黙を破る。
 「良かろう。那波、君の問いに対する答えは、是だ」