■番外編 永遠の恋■
(8)
ミフル大陸本土とテニヤ山脈を擁する北の半島とに囲まれた内海の中心に、精霊王の島アイシオンは存在する。
その昔、大規模な火山の噴火で大地が吹き飛ばされる形で生まれたこの島は、外縁部のほとんどを峻険な崖に囲まれており、厳粛で近寄り難い雰囲気を醸し出していた。
唯一島の南側にある小さな入り江が港の役割を担っている。
那波達一行を乗せた船は、追風に援けられて予定よりも早く昼過ぎにはアイシオンの港へと到着した。
「…何て言うか…」
船を降りた熾輝は、辺りを一瞥して正直な感想を口にする。
「随分と殺風景な所だな」
整備された埠頭も灯台もない――湾の左右に延びた岬を防波堤に見立て、桟橋の代わりに海中から突き出た岩場に船を寄せるしかない港に、人の手の入った形跡はない。
精霊王の聖地と呼ばれ崇拝を集める地の入り口にしては、目の前に広がるのはあまりに裏寂れた景色だった。
普段から何かと口煩い神官達は不敬を咎めるように熾輝を睨んだが、彼の言葉を否定する見解を述べようとはしない。
察するに、内心では彼等も同じ事を感じているのだろう。
熾輝は、彼等の視界の外で唇の端を皮肉な笑みに歪める。
とはいえ、いつまでも寒風の吹き荒ぶ浜辺で立ち尽くしていても埒が明かない。
戸惑う一行を尻目に、連絡船の乗組員達は手際良く積荷を下ろすと砂浜を囲む堤を上っていく。
定間隔で椎の木が植えられた堤は、その先の土地を風と波から護る堤防の役を担っているらしかった。
つまり、堤の向こうには人の住む町なり村落なりがあるという事だ。
船員達の後を追って堤の上に出た一行の期待は、しかし、あっさりと裏切られた。
眼下に広がるヒースの生い茂る荒野に、人里らしき影は見られない。
ところどころで葉を落とした木々の枝が天を衝く光景は、冬の陽射しの弱々しさと相俟って寒々しい印象を見る者に与えた。
視線を遠く向ければ、平原の先に鬱蒼とした常緑樹の森が見渡す限り続いているのが目に入る。
人を拒むかのような眺望を前に立ち尽くす一行の背に、不意に友好的とは言い難い声が投げられた。
「汝等は何処の者か?」
振り返ると、年若い乙女を間に挟んだ壮年の男女が険しい顔つきで那波達を見据えている。
3人の背後では、数人の若者が船員達から食糧等の入った積荷を受け取っていた。
彼等は、何れも粗布の簡素な道着の上から毛織の上着を羽織っただけの質朴な形をしている。
絹や毛皮をふんだんに使い贅を凝らした那波の衣装や神官達の上等な織りの法衣と較べると、彼等の慎ましやかな装いはみすぼらしくさえ感じられるものだった。
だが、身の内から溢れ出る静かな気迫が、彼等が只者では有り得ない事を物語っている。
精霊王の導士――神秘の島アイシオンで魔導の道を求める隠者の噂に熾輝が思い至ったのと時を同じくして、3人連れの内の1人である年嵩の女が居丈高に口を開いた。
「この先は精霊王・槐様の神域。故なく足を踏み入れる事は禁じられている。疾く立ち去られよ」
それに対して、一方的な物言いに矜持を傷つけられた神官達が高圧的に反駁する。
「我々は新たな斎主を精霊王が御許にお連れしたのだぞ」
「そうだ。在野の導士風情に我等の行いを咎め立てされる謂れはない」
精霊祭殿と精霊王の導士。
共に精霊王・槐に仕える身でありながら、彼等の在り様はいっそ見事なまでに対照的な事で知られていた。
祭殿の神官は、精霊王の尊厳を解り易く民に示し信仰を広める為に、それ相応の格調と威儀を重んじる傾向にある。
一方、導士達は自然との調和と融合を第一義に掲げ、精霊王の教えを実践し体現する事に重きを置いていた。
それはどちらが正しいとか間違っているとかいった問題ではなく、方法論の違いでしかない筈だった。
だが、彼等はいつしか互いを相容れない存在と見做すようになっていった。
すれ違う主張に加えて誤った方向に肥大した自尊心から来る頑なな態度が、双方の対立を無用に煽り立てる。
険悪な睨み合いを客観的に見守っていた熾輝がそろそろ限界かと判断して事態の収拾に動こうとした矢先に、那波がすっと彼の前に歩み出た。
穏やかな眼差しで荒立つ神官達を沈黙させた彼女は、大人2人に挟まれて立つ少女に向かっておっとりと話しかける。
「槐様に、那波が参りました、とお伝えいただけませんか?」
それまでじっと沈黙を守っていた少女は、那波の申し出に無言でこくりと頷くと静かに天を仰いだ。
宙を見つめる彼女の視線は、何処か遠い場所に据えられているかのように見える。
ややあって、少女の口から硬質な声が零れ落ちた。
「精霊王様より御言葉を賜りました。槐様におかれましては、斎主と彼女の金獅子のみ森に入る事を許されるとの由」
那波の金獅子、という言葉に首を捻った熾輝は、己に向けられた痛いほどの注視にたじろぐ。
突き刺さるような視線は、那波に付き従って来た神官達のものだった。
忌々しげに熾輝を見る彼等の顔は、嫉妬と羨望で醜く歪んでいる。
その一方で、熾輝に向けられた瞳には、微かな畏れと安堵の色が浮かんでいた。
とりあえず自分が槐の言うところの金獅子らしいという事は理解したものの、熾輝は神官達の態度に不審感を覚える。
しかし、事態は彼の思惑とは関係のないところで順調に動き出していた。
「他の方々は、お二方が戻られるまで我等の村に逗留せよとの仰せです」
巫覡としての少女が伝える精霊王の言葉は絶対のものなのだろう。
彼女の連れである壮年の男女は、それ以上神官達と言い争うでもなく周囲の若者に一行を村へ案内するよう申し渡す。
「ありがとう」
柔らかく微笑んで礼を述べる那波に小さく頷いた少女は、2人の導士を引き連れてその場を立ち去った。
後に残された神官達も、そそくさと身支度に取り掛かる。
ただ1人、槻乃だけは那波と引き離される事に懸念を抱いているようだった。
「那波様…」
気遣わしげな呼びかけからは、彼女が那波の身を案じる想いがひしひしと伝わってくる。
「大丈夫」
そんな槻乃を宥めるように、那波は殊更明るい笑顔を見せた。
「私には、金獅子がついていますもの」
悪戯を企む子供のような表情でこっそりと付け加えられた言葉に、槻乃はぎこちないながらも笑みを取り戻す。
那波は、もう1度彼女に優しく微笑みかけてから、にこやかに熾輝を振り仰いだ。
「参りましょう、熾輝様」
熾輝は、優雅に腰を折って拝命する。
「仰せのままに」
わざと戯けてみせる彼の心遣いは、見送る槻乃の不安を優しく溶かし去った。
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