■番外編 永遠の恋■

(7)

 この海は、潮の香りが強い。
 吹きつける風に目を眇めつつ、熾輝はぼんやりと思いを馳せる。
 同じ海沿いの街でも、ナイキの風はこれほど生々しくはなかった。
 それだけ、この地には生命の息吹が満ちているのだろう。
 だが、それは同時に自然の厳しさも意味する。
 彼等は、ミフル大陸本土の西の港町エンケから精霊王の棲まう森を擁するアイシオンへと向かう船上に在った。
 寒さの深まりゆくこの季節に、わざわざ人里離れた辺境の島を訪れる人間は少ない。
 今回の船旅では斎主の一行以外に乗り合わせた乗客はおらず、甲板の人影も疎らだった。
 熾輝の視線の先では、ただ那波1人が寒空の下で潮風と戯れている。
 心持ち顔を上げてうっとりと目を閉じた彼女は気持ち良さそうにしているが、降り注ぐ初冬の陽射しに熱は薄く、長い銀の髪を躍らせる風は身を切る冷気を帯びている。
 海風を孕んだ斎主の盛装がはためく様は目に麗しくはあったが、このまま黙視して体調を崩されても困る。
 熾輝は、凭れかかっていた帆柱から背を離すと、敢えて気配を殺さずに那波の傍近くへと歩み寄った。
 「いい加減寒くないか?」
 背後からそう声を掛けつつ、出立前にエンケの民から捧げられた毛織のケープを羽織らせがてらさりげなく彼女の細い肩を抱き寄せる。
 傍目には恋人同士にでも見えそうな、自然で親密さを感じさせる所作だった。
 神官達が見ていたら目を剥いて騒ぎ立てるところだろう。
 だが、寒さに辟易した彼等は、早々に船室に逃げ込んでいる。
 ついでに、大抵は那波の傍らに控えめに付き従っている槻乃の姿も見当たらない。
 まさか気を利かせた訳でもあるまいが、等と益体もない事を考えつつ隣に並んだ熾輝を見上げて、那波ははんなりと微笑んだ。
 「優しい人なのですね」
 素直に心を寄せてくる彼女を前に、熾輝は内心苦笑する。
 熾輝が那波を抱き寄せたのは別に邪な意図が有っての事ではないが、純粋な好意や親切心からばかりでもない。
 彼のその行為は、彼女を護る為のいわば牽制のような意味合いを持っていた。
 彼が那波の護衛を引き受けてからエンケの町に辿り着くまでに、一行は野盗の類から2回と魔物の群れから6回襲撃を受けた。
 巨大な剣を担いだ熾輝が目を光らせていたおかげで――盗賊達の中には腕の立つ傭兵である熾輝の顔を見知っていた者もいるのだろう――未遂に終わった分を含めると、その回数は二桁に上る。
 これは少々異常だった。
 本来、魔物は神官や巫子を天敵と見做す一方で本能的に忌避する傾向にある。
 賊徒にしても、余程逼迫した状態に陥っているか精霊王への信仰そのものを憎んでいるのでもない限り、精霊祭殿の旗印を掲げて旅する者を襲うのは心情的に躊躇うものだ。
 熾輝自身が神官達に語った通り欲に目が眩んで罪を罪とも思わない輩もいるが、その手の類は大抵一攫千金を狙うから、自ずから出没場所も高価な奉納品等が行き来する大きな街道沿いか聖都メシエの近辺に限定される。
 ウルカ砂原からエンケにかけては商業的に発展した都市はなく、職業的な盗賊が頻繁に出回るような場所ではなかった。
 斎主を攫って身代金を要求するという心積もりなのかもしれないが、それにしては個々の襲撃に計画性がなくお粗末過ぎる。
 だが、それらが彼等自身の意思ではなかったとしたらどうだろう。
 何者かが魔物を操り、或いは小者を唆して、斎主を襲わせているとしたら?
 ひょっとしたら、事態は思った程単純ではないのかもしれない。
 知らず知らずの内に肩を抱く腕に力を込めていた熾輝を宥めるように、那波が「でも」と口を開く。
 「少し気を休めてくださいね。この船には、少なくとも魔物は近づけませんから」
 飄々とした態度の裏に巧みに押し隠していた筈の警戒心を見透かされて驚く熾輝に、彼女は穏やかに微笑みかけた。
 「出港の前に祝福と聖別の魔法を掛けました。それに、アイシオンへの航路では精霊王の加護が有ると言います。岸に上がるまでは、禍つ気を持つ者が襲って来る事はない筈です」
 「…何を知ってる?」
 熾輝は、那波の言葉に軽い表情を消してすっと目を細める。
 彼女の口ぶりは、魔物「だけ」は襲って来ない、とも取れた。
 「狙われる心当たりでもあるのか?」
 もちろん、熾輝は襲撃の原因が那波本人に有るとは思っていない。
 ユタでも、エンケの町でも、彼女の行幸は歓迎されていた。ナイキやジュナでも人々の反応は好意的だった。
 それは、斎主という彼女の立場や、祭殿の祝福の届かぬ辺境の地故の憧憬に起因する感情ばかりではない。
 井戸の枯れた村落で、枯れ井戸を無理に蘇らせるのではなく新たな泉の在り処へと村人を導いた那波。
 不治の病で死を待つばかりの老婆は、苦痛を和らげた彼女の繊手を枯れ枝のような両手で握って喜びの涙を落としさえしなかったか。
 彼女はすべての民に分け隔てなく希望を与える光なのだ。
 斎主として精霊王に仕える祭祀王となった彼女は、太陽の焔のように何もかも灼き尽くす激しさではなく、澄んだ月明かりの優しさで人の心を包み、道を示す標となるだろう。
 そんな彼女を、誰が、何故、つけ狙うのか。
 護衛という仕事の範疇を超えて、熾輝はその理由に強い関心を抱く。
 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、那波は事も無げにこう答えた。
 「私の力を恐れ、忌み嫌う者。その力を手中に収めようと目論む者。殺すか捕らえるかの違いはあれ、襲撃の理由にはなりますでしょう?」
 「あんたの力?」
 「私は、未来を夢に見るのです」
 彼女の返答に、熾輝はなるほどと得心する。
 誰しも己の未来を他人に読まれて良い気はしない。
 その一方で、政治経済の趨勢を左右する先視の力は一国を治める者にとっては垂涎の的となり得る。
 相手の国力が弱っている隙をついて攻め入れば、労せずして戦に勝利出来るだろう。
 市場の動きを先読みして莫大な富を築く事も可能なら、敵国の指導者の死期を予め知る事で自国に有利に外交を進める事も出来るのだ。
 しかし、熾輝はそもそも未来視という能力そのものを信じるつもりがなかった。
 「未来は決まってるもんじゃないだろ」
 「そうですね」
 不機嫌に言い捨てる熾輝に、那波は意外な程素直に頷く。
 その上で、彼女は穏やかに反論の言葉を口にした。
 「そこに人の意思が介する以上、すべての未来が確定している訳ではありません。でも、人の力では動かし難い出来事もあります」
 例えば地震や洪水、旱魃等の天災やそれに伴う飢餓や流行病は、人間如きの力でどうこう出来るものではない。
 そう語る彼女は、柔らかな物腰は変わらないままに、それまでのふわふわと頼りなげな風情から一変して斎主たるに相応しい静謐な威儀を湛えていた。
 「自然の営みに逆らう力は人の子にはありません。でも、災厄に備える事はできます」
 そうして災害の被害を最小限に留める事は、国を護る力になる。
 そして、使いようによっては戦争の切り札にも。
 「あんたが先視の力を持ってる事を知ってる人間はいるのか?」
 「祭殿の者なら誰でも。私がアイシオンの祭殿に引き取られたのも、夢見の才故の事ですから」
 湧き起こる懸念を慎重に鎮めつつ尋ねる熾輝に、那波はあっさりと答えを返す。
 「とはいえ、私には夢を操る力は与えられていません。いつ、どんな未来が見えるかは解らないのです。ですから、私を手に入れても役には経たないと思うのですけれど」
 的外れな疑問に小首を傾げてみせる那波からは緊迫感は伝わって来ない。
 それ故、襲撃への対処に気を取られていた熾輝は、事の本質を――彼女が抱える問題の真の重さを見誤った。