■番外編 永遠の恋■

(6)

 その夜、宿の一室で寛いでいた熾輝は、ふと耳についた足音に杯を傾ける手を止めた。
 それにしても、と熾輝は思う。
 特に意識せずともこれほど容易く室外の様子が伝わって来るあたり、今宵の宿は随分と安普請だ。熾輝自身はこういった環境にも慣れ親しんでいるが、斎主の一行が泊まるには到底相応しいとは言い難い。
 今頃、神官達は顰めつらしい顔をしてあれやこれやと不平不満を並べ立てている事だろう。
 そんな事をつらつらと考えている間にも廊下を進んで来た足音の主は、熾輝の部屋の扉の前で立ち止まる。
 床の軋み具合から察するに、小柄な人物…落ち着いた足取りは子供のものとは思えないから、おそらくは年若い女性のものだろう。
 ――まさか、夜這いって事もないよな。
 唇の端に少々性質の悪い笑みを刷いた熾輝は、扉の外で躊躇う相手に声をかける。
 「いつまでもそんなトコに突っ立ってないで入って来れば?」
 突然の呼びかけに、気配の主は僅かに怯んだようだった。
 しかし、すぐに意を決して扉を開く。
 現れたのは、昼間の騒動の際那波の傍に侍していた少女だった。
 軽く目を瞠る熾輝に向かって、少女は深々と頭を垂れる。
 「先刻は連れの者が失礼を」
 「えーと、」
 少女の予想外の出方に少々面食らった所為もあって、熾輝は一瞬言葉に詰まってしまった。
 生来が生真面目な性格なのだろう少女は、熾輝の戸惑いを察すると律儀に名を名乗る。
 「槻乃《ツキノ》とお呼びください」
 「槻乃、ね」
 彼女の名前を口の中で繰り返す事で、熾輝は冷静さを取り戻す。
 同時に、彼の胸に彼女に対する興味が沸き起こった。
 「あんたは連中とは違うみたいだな」
 「私は、もともとメシエの精霊祭殿の者ではありませんから」
 尊大な神官達の態度を言外に非難する熾輝の口ぶりに動じた風もなく、槻乃は淡々と応える。
 「私の曽祖父はアウインの祭殿で祭祀を務めております。アウインは那波様の生地。そのご縁で、那波様が祭殿に上がって以来傍仕えをさせていただいておりました」
 「なるほどね」
 熾輝は、得心がいったという風に頷いた。
 面子に固執する事無く過ちを認め、簡潔な言葉で相手が必要とする情報を与える。槻乃の受け答えからは、彼女の聡明さが窺える。
 そして、その聡明さは知識だけに裏打ちされた賢しさでは有り得ないものだ。
 「神官達の偏狭さは彼等の置かれてきた環境にも一因があります。幼い頃から祭殿の中で育って来た彼等は、外界の価値観を理解できないのです」
 連れの愚かさを認めつつそれでも一応は庇おうとする槻乃の心意気に感心した熾輝だったが、だからといって批判の言葉を飲み込むほど彼はお人好しではなかった。
 「それで、自分等の世界が唯一絶対だと思い上がって他者を見下すってのか?信仰を通じて民を導く筈の聖職者がそんな事でどうするよ」
 「返す言葉もございません」
 痛烈な皮肉に、槻乃は慇懃な態度で応じる。
 だが、呆れたような熾輝の視線を受け止める彼女の瞳に恥じ入る色は見られなかった。
 本音の部分では、熾輝が指摘したのと同じ事を彼女自身も感じているのだろう。
 面白い、と熾輝は思う。
 「で?あの無駄に高価そうな那波の衣装も輿も祭殿の連中のお仕着せってワケか」
 最初は、那波の事を自分の服がどれ程汚れ易く扱い難いかなど考える必要のない、世間知らずで夢見がちな箱入り娘なのだと思っていた。
 だが、実際に話してみると、それが思い違いである事が解った。
 確かに多少おっとりしているところはあるが、祭殿で純粋培養された神官達よりは余程民に近い視点で現実を捉えている。
 何より、彼女は物事の本質を見抜く良い目を持っていた。
 彼の思いは、槻乃にも伝わったらしい。
 軽佻な物言いを咎めるでもなく、はきはきと答える。
 「はい。ただ、輿を使う事にしたのは正解でしょう。祭殿暮らしの長かった那波様の足で、ミフルを徒歩で旅するのは酷でしょうから」
 やや沈んだ声で付け加えられた言葉に、熾輝は引っ掛かりを覚えた。
 「そんな身で、なんだって巡礼なんてしようと思ったんだ?」
 「那波様に世界を見せて差し上げたいと考えた曽祖父が申し出た事です」
 ある意味当然とも言える問いかけに、槻乃は寂しげな笑みを浮かべる。
 「斎主となれば、那波様の行動は極端な制約を受ける事になります。メシエの精霊祭殿から出る事もなく永の歳月を過ごさねばなりません。だから、曽祖父は精霊王への参詣にかこつけて那波様を旅に送り出したのです。世界を知って欲しいと…それが孤独な日々の慰めになればと願って…」
 「随分大袈裟な話だな」
 沈痛な槻乃の面持ちにやや気後れしつつ、熾輝は肩を竦めてそう呟いた。
 槻乃の言う通り、斎主が祭殿の外に出る機会は滅多にないだろう。
 だが、生まれた村から1歩も外に出ずに一生を終わる人間は珍しくない。病を得て屋内で過ござるを得ない子供だっているのだ。
 幽閉に近い生活は自分には耐えられそうにないが、槻乃の憂いは深刻過ぎる気がする。
 困惑する熾輝に、槻乃は躊躇いがちにこう切り出した。
 「熾輝様は、巫翅人をご存知ですか?」
 「高い魔力を誇り、不老長寿の魔法を手にした者。って言ったって、実際には幻の存在だろ?」
 唐突な話題の転換を訝しみつつ、熾輝は律儀に答えを返す。
 槻乃は、露骨に疑わしげな顔で問い返す熾輝を真っ直ぐに見つめて続けた。
 「曽祖父は巫翅人とまではいかないものの、人より長い寿命を与えられております。子等が己を置いて逝き、孫にも先立たれ、それでもまだ現役の祭祀長の地位に在る彼は、遺される者の孤独や哀しみを誰より理解しているのです」
 「…那波が、巫翅人だと?」
 彼女の本気を悟って、熾輝は低く問う。
 槻乃は、それには答えなかった。
 ただ、無力な己を不甲斐無く思う気持ちを吐息と共に噛み殺して、力なく首を横に振る。
 「いずれにせよ、精霊祭殿の者達は、那波様に自由を与えようとはしないでしょう。彼等にとって、斎主の存在意義は精霊王の為でも民の為でもなく、祭殿の権威を象徴する宝冠のようなものなのです」
 どこまでも倣岸な有様に、熾輝は強い憤りを禁じ得なかった。
 「それで籠の中の鳥を愛でるように祭殿に閉じ込めて、挙句の果てに彼女の力を恐れるあまり術封じの呪具まで着けさせるのか」
 吐き捨てるような熾輝の言葉に一瞬驚いて、それから、槻乃はそっと嘆息する。
 「やはり気づいておいででしたか」
 熾輝との契約を終えた後、那波は自ら負傷者の手当てを買って出た。
 その際、神官に腕の飾りを外させていたのを熾輝は見ていた。
 華奢で優美な意匠に紛れるようにして腕輪の表面に見覚えの有る呪文――魔力封じの呪いが刻まれている事に気づいた熾輝は、不快気に眉を顰めた。
 一行の中で、ただ1人那波の傍に控えていた槻乃だけがそんな彼の表情の変化に目敏く気づいていたのだ。
 遣る瀬無さに翳っていた槻乃の表情に、微かな光が灯る。
 「熾輝様」
 縋るような眼差しで熾輝を見上げて、槻乃は祈るように口を開いた。
 「どうか那波様をお護りください」
 「ん?あぁ、そう約束したもんな」
 熾輝は、彼女の真摯さに戸惑いながらも槻乃の頼みに頷いてみせる。
 槻乃の願いに込められた本当の意味を、熾輝はまだ理解していなかった。