■番外編 永遠の恋■

(3)

 熾輝が彼女と初めて出会ったのは、ジュナの街に程近いミル樹海の中での事だった。
 その頃のジュナは、精霊王の祭殿もない地方の一都市に過ぎなかった。
 それでも、豊かで物珍しい山海の幸と暖かな気候は人々の心を魅了する。
 特に冬も間近なこの時季には、ミフル大陸北部のノルド地方に暮らす裕福な民が、寒さから逃れようとこぞってこの地を訪れた。
 おかげでジュナの街はスズリ地方を代表する観光地として栄えていて、大きな仕事を終えて懐の温かかった熾輝も、ちょっと贅沢な休暇を満喫すべくジュナへ向かうところだった。
 街道を通らず樹海を抜ける近道を辿っていた熾輝は、其処で彼女との邂逅を果たしたのだ。
 最初に彼女の姿を目にした時、熾輝は幻を見ているのかと思った。
 滴るように濃厚な緑の葉と香りの強い色とりどりの花々に囲まれて佇むその女性の姿は、それほどまでに辺りの景色から浮き立っていた。
 裾を引き摺る丈の純白のドレスに、貴石のビーズを鏤めた薄蒼のヴェール。幅広の袖から覗くほっそりとした腕は、些細な瑕でもすぐに解れてしまいかねない繊細なレースに包まれている。
 およそ樹海を散策するには相応しからぬ出で立ちに加えて、彼女自身が纏う色彩もまた、毒々しいまでに鮮烈な色の溢れかえる熱帯の森とは相容れぬ類のものだった。
 まず目を惹くのは腰まで届く真っ直ぐな銀の髪。細く細く紡がれたの絹糸のようなそれは、華奢な肩から薄い背へと光の滝となって流れ落ちる。
 陽の下に晒された肌は透けるように白い。
 銀灰色の澄んだ瞳は、金属的な色彩とは裏腹に柔らかな光を湛えている。
 熾輝は、彼女の横顔を眺めながら一面の銀世界に降り注ぐ月明かりを思い浮かべていた。
 氷のように冷たく寂しげで、けれどどこか優しい、透明感のある凛とした美しさは、彼の胸に新鮮な感動を呼び起こす。
 淡い色に包まれた彼女の姿は明らかに周囲とは異質だった。
 だが、その存在感は不思議とこの森にしっくりと馴染んでいるようにも見える。
 気がつけば、熾輝は随分と無遠慮に彼女を見つめていたらしい。
 眼差しに気づいた彼女が、注がれた視線を辿って彼を振り返る。
 「こんにちは」
 にっこりと微笑みかけられた熾輝は、自分の迂闊さに軽い驚きを覚えた。
 仕事柄、気配を殺すのはもはや習い性と言って良い。それが、素性も知らぬ相手に見惚れてぼんやりと立ち尽くしているとは。
 それ以上に彼を驚かせたのは、彼女の笑みの思いがけないあどけなさだった。
 熾輝よりは年下だが、それでもミフルで成人と見做される21歳は越えている筈だ。
 それが、これほどまでに邪気のない表情を浮かべられるものだろうか。
 彼の困惑も知らぬ気に、彼女は鈴を転がすような耳に心地良い声でこう問いかけてきた。
 「貴方も、森の息吹に誘われて此処へ?」
 返答を期待しての問いではないのだろう。
 彼女は、うっとりと頭上の木々へと手を差し伸べる。
 「この森はとても素敵ですね。生命力に満ち溢れていて、鮮やかで。こうして此処にいるだけで精霊王の御力を感じる事が出来る」
 その言葉に応えるかのように集まって来た華やかな彩りの鳥達が、彼女の周りを取り囲む木々の枝で賑やかに囀り始めた。
 自身が精霊の化身ででもあるかのように浮世離れした雰囲気の彼女から、熾輝は目が離せなくなる。
 それは、けして信心深いとはいえない彼の胸にさえ自然への畏敬を呼び覚ます彼女の魔法だったのかもしれない。
 そう思ったところで、熾輝は数日前にナイキの街で耳にした斎主の噂を思い出した。
 あの時は、結局人垣に取り囲まれた姿を通りすがりに遠巻きに眺めただけになってしまった。
 積極的に行動を起こしてまで逢ってみたいと思うほどの関心は抱けなかったのだ。
 いとも高貴なる精霊祭殿の最高巫子、銀色の髪の綺麗な斎主――。
 「あんた――」
 口を開きかけた熾輝は、不意に言葉を途切れさせると鋭い視線を森の入り口の方へと投げかける。
 一瞬送れて、彼が見据えた先の木陰から何者かの声が聞こえてきた。
 「那波様ー?」
 がさがさと下草を踏み分ける足音に、彼等の周囲にいた鳥達が一斉に飛び立つ。
 「那波様、どちらにいらっしゃるのですか?」
 声の主は、足場の悪い森に難儀しながらも確実にこちらへと近づいて来ていた。
 熾輝は、その場で彼女共々発見されるのを待つような愚は犯さなかった。
 武器を身に帯びた見知らぬ人間が斎主の傍にいるのは、おそらく好ましく思われないだろう。
 更に、年若く美しい巫子姫が相手とあってはあらぬ誤解を招く惧れもある。
 いずれにせよ、面倒事に巻き込まれるのは御免だった。
 彼女の意識が声の主へと向かっているうちに、熾輝は素早く森の奥へと踵を返した。
 

※  ※  ※


 「こちらにいらっしゃいましたか」
 熾輝が姿を消すのと入れ替わりに那波の前に現れたのは、貧弱な体つきの神経質そうな神官だった。
 落ち着きなく付近を見回す彼の法衣の裾は土や草の汁で汚れ、木の枝にでも引っ掛けたのかところどころに穴が開いたり鉤裂きになったりしている。
 如何にも祭殿育ちといった態の彼にとって、こんな熱帯の森を那波を捜して歩き回るのはさぞかし苦行だったに違いない。
 「斎主ともあろうお方が軽々しくこのような場所に足を踏み入れられては困ります。毒を持つ蟲や危険な獣が隠れていないとも知れないのですよ?かけがえのない御身のお立場を弁えてくださらないと…」
 「あぁ、それで」
 息を切らせつつくどくどと訴える神官の言葉は、ぽんと手を合わせた那波の声に遮られた。
 「つい今しがたまで、此処に金色の獅子がいたのだけれど」
 那波は、ぎょっとした神官が顔を蒼褪めさせているのにも気づかずのんびりと辺りを見回す。
 熾輝の姿を見失ってしまった事を確認した那波は、ほんの少し残念そうな表情で小首を傾げた。
 それから、硬直している哀れな神官を振り返ると、歌うようにこう語りかける。
 「眩いほどに力強くて温かな気を纏った、とても綺麗な黄金の獣だったの。また逢えるかしら」